長江、燃える(3)
孫策軍先陣を勤める猛将、凌操。船先に立っていた。
傍らに立つ己の息子を優しく眺めると、すうっと話しかけた。
「震えているのか?」
「い、いや!」
違うと言った。
それを聞いて、凌操の兵が笑う。
凌操が一子、凌統が、笑った兵達を睨む。くわばらくわばらと、兵達が蟻の子のように逃げていく。
「震えているではないか。無理も、ないか。お前の初陣だからな」
「だから震えてないって!あ、あれだよ、船が揺れてるんだ!」
くくっと笑う。
周瑜が工夫に工夫を重ねた水船。
ほとんど、揺れはない。
それなのに、凌統は青醒め震え、怯えていた。
「じゃあ、親馬鹿からアドバイスを一つ。生き残れ、生き残れば勝ちだ。俺はそうやって闘ってきた」
「う、うん……」
素直に、頷く。強がってはいても、まだ、子供。
「心配するな、お前は俺の自慢の息子だ。きっと……」
「凌操殿! ああ、凌統殿もおられたのか」
ひらりと、飛び乗る。男が、近づいてくる。
凌統が、頭を下げた。
「祖茂、どうした?」
凌操が応えた。
祖茂。
孫堅旗揚げ時より孫家に仕える古将。
董卓配下で、呂布の次にその武勇で名高かった猛将華雄との戦で無事に「生き残り」今も孫策に仕えている。
「うん、ちょっと嫌な胸騒ぎがしたのでな。話をしに来たのだ」
「嫌な胸騒ぎだと? 簡単な戦、ではないか」
大殿の仇討つ戦。
胸騒ぎなど、ない。あるのは、やっとという高揚感だけ。
「おぬしもそう言うか。皆、そう言う」
凌統は、口を開かなかった。
黙って聞いていた。緊張が高まっているというのもある。
だが、何より、祖茂は自分より上位。
話しづらいのだ。
「黄祖、蘇飛、どちらも大した武将ではないと何度も話し合い、そう結論を出したではないか」
黄祖の戦振りはよく研究した。
実際に、手合わせもした。
正攻法だが、どこか柔軟性に欠ける戦をする男だった。
「確かに、そうだ。だが、何か…そう、重要な何かを忘れているのではないか? 俺は、ずっと……」
悩んで……
「気にしすぎだ。戦に絶対ということはないが、この戦、難しくはない。そう思う。大殿も、見守ってくれているだろうしな。それよりも、士気を下げるような発言は慎んだほうが……まぁ、良いか。お前のそういいところ、大殿がよく誉めていたよ……懐かしいな」
「普段は意気地無しだの憶病者だの、酷い言い様だったのにな」
軽口を叩きあう。
「お前こそ、猪武者だの、単細胞だの、大殿に無茶苦茶言ってたろうが」
「お、大殿に!」
凌統が、大きな声を出した。
あ、っとなり、祖茂に申し訳ありませんと。
笑いながら、小さく頷いた。
「ああ、すごいだろ。口悪いんだ、こいつ」
普段の冷静沈着な祖茂の立ち振る舞いからは、想像できなかった。
「昔の、話だ。黄祖は、やはり後方かな」
「そうだろう。先陣は……勤められそうな人間はおらんな。もしかしたら、黄祖が先陣というのもありえるのか」
「劉表も、墜ちたな。蔡瑁なんぞの意見を取り入れて、江夏郡から人を引き剥がすなど、正気とは思えん」
蔡瑁は、劉表夫人の兄に当たる。
妹とその息子を後ろ盾にして、力を伸ばしていた。
しかし、無能であった。蔡瑁が動けば動くだけ、劉表の力は衰える。
そう、思えた。
現に、孫家と絶えず緊張を強いられる江夏郡から、軍人を何人も引き揚げさせた。
「だが、そのおかげで楽になった」
「敵船、発見!!! 距離、近し!!!」
緊張が走る。
舳先で、目を凝らす。影は一つ。旗は、ない。
「民間船? にしては動きが機敏だな」
凌操が言った。
不審な船を、取り囲む。船上に、人の姿はない。
三人、首を傾げる。凌操、祖茂が目配せする。
するすると、綱が下ろされ、兵が乗り込む。
「これは?」
誰も、いない。
船には派手な色彩が施されていた。
船内への入り口。
兵が、その扉に手をかけた。
―――鈴の音響け。
「だ、誰だ!?」
鈴の音響け、
冥府への道開け、
開いた道は、閉じることなし、
大きく口開け、贄飲み込む、
鈴の音、響け――
水底より湧き上がるかのように声が響く。
鈴の音が、響く。
扉が開かれた。恐る恐る、覗き込む。
声の主は、そこにいた。
「甘寧、見参」
振るわれる凶刃。
一瞬にして、五人の兵が切り倒された。
それは、次々と血煙を生み出す。
きらりと光る、円月刀。
三日月のように、弧を描く。
鎧を着ず、上半身裸。
鈴の首輪。
派手な柄――水面に踊る龍――の入れ墨が、上半身に鮮やかに。
若い男、であった。
「す、鈴の甘寧!?」
矢が、放たれた。正確無比、外れることなし。
甘寧の凶刃を逃れたものは、皆その矢の餌食となった。
甘寧の後ろより現れた翁が、どんどん矢を放っていく。
熊のように大柄。
決して大きくはない甘寧の後ろに立つと、より一層その巨体が映える。
背には薙刀。
鎧には、幾つもの傷が。
「老骨とて侮るなかれ。まだまだ若い者には負けはせぬ。我が名は――黄忠」
そう、名乗りをあげた。
「こ、黄忠に甘寧だと!? どうしてここに!」
凌操が叫び、槍を握った。
祖茂も、得物を握る。
二つの嵐は留まるところを知らず、ひたすら赤い雨を降らせていた。
雨が止んだ。二人が、他の船に飛び移った。
また、降らせる。
無言で斬る甘寧。時折、口の両端がつり上がる。
笑っていた。
黄忠の表情は伺い知れない。
しかし、嬉しい、ということはわかった。
全身で、喜びを表現している。
二人は、決して協力しているわけではない。個別に、戦っていた。
「……奴ら、並の兵士では勝てん……」
祖茂が頷く。凌統も頷く。
戦は、始まったばかりであった。
目が、あった。
「ありゃあ、先陣の将だな」
甘寧が言った。静かな、口調。
「ほお……よくわかったな」
黄忠が応える。
「わからいでか。あれは、俺の獲物だ」
「いや、早い者勝ちじゃろう」
「それも、そうか」
黄忠と甘寧が、凌操達の船に飛び移った。
傍らに立つ己の息子を優しく眺めると、すうっと話しかけた。
「震えているのか?」
「い、いや!」
違うと言った。
それを聞いて、凌操の兵が笑う。
凌操が一子、凌統が、笑った兵達を睨む。くわばらくわばらと、兵達が蟻の子のように逃げていく。
「震えているではないか。無理も、ないか。お前の初陣だからな」
「だから震えてないって!あ、あれだよ、船が揺れてるんだ!」
くくっと笑う。
周瑜が工夫に工夫を重ねた水船。
ほとんど、揺れはない。
それなのに、凌統は青醒め震え、怯えていた。
「じゃあ、親馬鹿からアドバイスを一つ。生き残れ、生き残れば勝ちだ。俺はそうやって闘ってきた」
「う、うん……」
素直に、頷く。強がってはいても、まだ、子供。
「心配するな、お前は俺の自慢の息子だ。きっと……」
「凌操殿! ああ、凌統殿もおられたのか」
ひらりと、飛び乗る。男が、近づいてくる。
凌統が、頭を下げた。
「祖茂、どうした?」
凌操が応えた。
祖茂。
孫堅旗揚げ時より孫家に仕える古将。
董卓配下で、呂布の次にその武勇で名高かった猛将華雄との戦で無事に「生き残り」今も孫策に仕えている。
「うん、ちょっと嫌な胸騒ぎがしたのでな。話をしに来たのだ」
「嫌な胸騒ぎだと? 簡単な戦、ではないか」
大殿の仇討つ戦。
胸騒ぎなど、ない。あるのは、やっとという高揚感だけ。
「おぬしもそう言うか。皆、そう言う」
凌統は、口を開かなかった。
黙って聞いていた。緊張が高まっているというのもある。
だが、何より、祖茂は自分より上位。
話しづらいのだ。
「黄祖、蘇飛、どちらも大した武将ではないと何度も話し合い、そう結論を出したではないか」
黄祖の戦振りはよく研究した。
実際に、手合わせもした。
正攻法だが、どこか柔軟性に欠ける戦をする男だった。
「確かに、そうだ。だが、何か…そう、重要な何かを忘れているのではないか? 俺は、ずっと……」
悩んで……
「気にしすぎだ。戦に絶対ということはないが、この戦、難しくはない。そう思う。大殿も、見守ってくれているだろうしな。それよりも、士気を下げるような発言は慎んだほうが……まぁ、良いか。お前のそういいところ、大殿がよく誉めていたよ……懐かしいな」
「普段は意気地無しだの憶病者だの、酷い言い様だったのにな」
軽口を叩きあう。
「お前こそ、猪武者だの、単細胞だの、大殿に無茶苦茶言ってたろうが」
「お、大殿に!」
凌統が、大きな声を出した。
あ、っとなり、祖茂に申し訳ありませんと。
笑いながら、小さく頷いた。
「ああ、すごいだろ。口悪いんだ、こいつ」
普段の冷静沈着な祖茂の立ち振る舞いからは、想像できなかった。
「昔の、話だ。黄祖は、やはり後方かな」
「そうだろう。先陣は……勤められそうな人間はおらんな。もしかしたら、黄祖が先陣というのもありえるのか」
「劉表も、墜ちたな。蔡瑁なんぞの意見を取り入れて、江夏郡から人を引き剥がすなど、正気とは思えん」
蔡瑁は、劉表夫人の兄に当たる。
妹とその息子を後ろ盾にして、力を伸ばしていた。
しかし、無能であった。蔡瑁が動けば動くだけ、劉表の力は衰える。
そう、思えた。
現に、孫家と絶えず緊張を強いられる江夏郡から、軍人を何人も引き揚げさせた。
「だが、そのおかげで楽になった」
「敵船、発見!!! 距離、近し!!!」
緊張が走る。
舳先で、目を凝らす。影は一つ。旗は、ない。
「民間船? にしては動きが機敏だな」
凌操が言った。
不審な船を、取り囲む。船上に、人の姿はない。
三人、首を傾げる。凌操、祖茂が目配せする。
するすると、綱が下ろされ、兵が乗り込む。
「これは?」
誰も、いない。
船には派手な色彩が施されていた。
船内への入り口。
兵が、その扉に手をかけた。
―――鈴の音響け。
「だ、誰だ!?」
鈴の音響け、
冥府への道開け、
開いた道は、閉じることなし、
大きく口開け、贄飲み込む、
鈴の音、響け――
水底より湧き上がるかのように声が響く。
鈴の音が、響く。
扉が開かれた。恐る恐る、覗き込む。
声の主は、そこにいた。
「甘寧、見参」
振るわれる凶刃。
一瞬にして、五人の兵が切り倒された。
それは、次々と血煙を生み出す。
きらりと光る、円月刀。
三日月のように、弧を描く。
鎧を着ず、上半身裸。
鈴の首輪。
派手な柄――水面に踊る龍――の入れ墨が、上半身に鮮やかに。
若い男、であった。
「す、鈴の甘寧!?」
矢が、放たれた。正確無比、外れることなし。
甘寧の凶刃を逃れたものは、皆その矢の餌食となった。
甘寧の後ろより現れた翁が、どんどん矢を放っていく。
熊のように大柄。
決して大きくはない甘寧の後ろに立つと、より一層その巨体が映える。
背には薙刀。
鎧には、幾つもの傷が。
「老骨とて侮るなかれ。まだまだ若い者には負けはせぬ。我が名は――黄忠」
そう、名乗りをあげた。
「こ、黄忠に甘寧だと!? どうしてここに!」
凌操が叫び、槍を握った。
祖茂も、得物を握る。
二つの嵐は留まるところを知らず、ひたすら赤い雨を降らせていた。
雨が止んだ。二人が、他の船に飛び移った。
また、降らせる。
無言で斬る甘寧。時折、口の両端がつり上がる。
笑っていた。
黄忠の表情は伺い知れない。
しかし、嬉しい、ということはわかった。
全身で、喜びを表現している。
二人は、決して協力しているわけではない。個別に、戦っていた。
「……奴ら、並の兵士では勝てん……」
祖茂が頷く。凌統も頷く。
戦は、始まったばかりであった。
目が、あった。
「ありゃあ、先陣の将だな」
甘寧が言った。静かな、口調。
「ほお……よくわかったな」
黄忠が応える。
「わからいでか。あれは、俺の獲物だ」
「いや、早い者勝ちじゃろう」
「それも、そうか」
黄忠と甘寧が、凌操達の船に飛び移った。