あやかし姫(13)
「なんてことがあったわけさね、いやはや」 銀狐が、椀に盛られた卵に手をつける。 殻つきの卵が、銀狐の喉を落ちる。 黒之助が、ほぉほぉと赤ら顔で頷き、太郎の杯が、ぴたりと止まった。 「姫様も、乙女さねぇ」 また、卵を喰らう。 黒之助も、卵に手をや…
一通り、火羅に教わったことをやり終えると、身体がぽかと温まってきた。 ふあぁと、湯煙が昇っていく様を眺める。 いいところだった。 まだ、他にも湯はあるという。 全て、入らなければと心に決める。 「いい湯です」 「だね」 いつもの姫様なので、ほっと…
ひょいと、茨木童子がやまめを抱え上げる。 「あ、あの」 鬼の子が、ちょこんとその傍らについた。 「部屋に連れて行く」 「ですね」 「朱桜?」 「着いていくです。こういう時のために、私は医術を学んでいるのです」 真剣そのもの、であった。 そのまま、…
「やまめは?」 茨木童子が、言った。苛立ちが見える。 「やまめは、どこだ?」 問いを、重ねる。 光は、思わず葉子の後ろに隠れた。 恐かったのだ。 さっきの彩花さんと同じくらい、茨木童子の静かな剣幕は恐ろしかった。 「やまめさんはのぉ、軽い目眩がす…
「彩花さん、黒之丞さんのこと、大丈夫になったんですね」 白蝉が言い、姫様は朱桜から頬を離した。 鬼の娘は、少し物足りなそうな顔をした。 「黒之丞さんは、はい」 姫様が答えた。 「ど、どういうことですか?」 沙羅が、言った。 「姫様、蜘蛛嫌いだから…
狼が一頭、尾を揺らし軽やかに雪の上を走っていた。 全身を覆う、雪と同じ真っ白な毛。身体に布包みをくくりつけていた 「こっちだっけ」 煙をたて、獣が変じ、少女の姿をとる。 ふさりとした尾は、残したまま。 北の妖狼――太郎の妹、咲夜であった。 「合っ…
「彩花ちゃん、変わったか?」 「茨木童子様」 黒之助が、傍らに姿を見せた、美しい鬼に、そう、言った。 黒之丞がほぉっと目を細める。 白蝉の頭に乗る土地神が、ぺこりとお辞儀をした。 「少々、お疲れのようで……火羅や……言いにくいですが、」 「うちの姪…
「ひーめーさーまー」 「はい?」 「足、」 「ああ、ごめんなさい」 うう、姫様。目が笑ってないよ、謝ってないよ。そりゃあねぇ、苛立つのもわかるけどさ。 朱桜ちゃんのこともあるし、きな臭い報せも入ってきたし。 九州の妖は、妖狼中心から合議制に変わ…
姫さん、固くなってるなと思った。 それもこれも、あの妖狼のせいなわけで。 黒鴉はしゃんと姫様の荷物を背負い直すと、遠くの山を見やった。 頂が、薄く雪化粧を帯びている。 これから向かうところは、あの山々よりも、もっともっと寒かろう。 準備は出来た…
「火羅さん……」 真紅の妖狼。 炎を纏っていた。小さいが、間違いなく炎だった。 火羅が、大きな額を寄せると、姫様はそっと触れた。 「帰りますか?」 「ええ……」 「朗報、でしょうか。火羅さんが深手を負ったことを広めた方は、亡くなられたそうです」 ぴく…
翁が、囁いていた呪を止める。 紙で作られた人形に、何かが刺さった。木製の台の上に置かれた人形には名前が書かれていた。 彩花と火羅、二人の名前。 何かが刺さったのは、姫様の名を書かれた人形。 翁が、人形に刺さったものを抜きやる。 「ほぉ」 小さな…
仰向けに火羅は倒れていた。倒れ、手首をかざしていた。 衣は、袖を通しただけ。 衿を大きく開かせ、傷の残る肌を外気に触れさせていた。 姫様が腰を降ろし、火羅の肩に手を置いた。 喰われた傷は、一応塞がってはいた。その部分だけ、鮮やかな赤桃色をして…
閉め切った部屋。 床を、壁を、戸を、ちかりと緑色の光が時折奔る。 灯火。 火が奏でる煙は、甘い香りがした。 姫様が小さな刀を手にしていた。 真っ赤に灼けた刃の熱気が、真剣な顔つきをした姫様を揺らめかせている。 背を向けると、するりと火羅が衣を脱…
名前を呼ばれていた。 ぽつ、ぽつ、と雫がかかった。 「――さん!」 枯れかけた、しゃがれた、声。 必死に、何度も、何度も。 眠っていたかった。このまま、目覚めたくなかった。 「火羅さん!」 私の、名前。呼んでくれている。 答えなきゃね。 そうしないと…
女が、口づけをする。 男の唇を吸う。 慈しむように、愛おしむように。 長い間そうしていた。 離れる。女の唇が、赤く濡れている。 女のすらりとした腕から落ちる白刹天――の、首。 転がっていく。見ていることしか出来なかった火羅の足下へと。 女が、眼で、…
ふらと、二頭の虎が女に近づいていく。 白刹天も、ふらふらと火羅から離れ、女に向かっていく。 女が、ほっそりとした首を傾け、息を白く淡く吐いた。 火羅も誘われた。行きたかったが身体が動かなかった。 蠱惑的な黒い瞳が、あどけなくしどけない振る舞い…
じっくりと喰らっていくのねと火羅は思った。 身体が冷たかった。火を、消された。妖狼の火が消えるほどの戦い。 白刹天の力は増していた。 多分あの男は喰らってきたのだろう。 私は……弱くなったのかもしれない。 今日の戦い方は、以前ならしなかったもの。…
自分を見下ろす男に視線を向ける。 ふいと首を傾け、淡く光を帯びる人の娘を囲み、涎を垂らす、二匹の手負いの獣を見やる。 それから、また、火羅は男に眼差しを向けた。 「やめて」 肩を竦め、僅かに、身をよじる。 「命乞いか」 もう、白刹天の声に、怨も…
ぽつり、ぽつりと足音が生まれる。 妖の気配が鮮やかに、月明かりに浮かびあがる。 古び汚れた衣をまとう男達。皆、肌に血管の様な黒い紋様が浮き上がっていた。 火羅を刺した男の後ろに歩を進めると、姫様を見やり、火羅を見やり、それから男の方を見やった…
月光蝶の帯を追いかけたことがある。 ずっとずーっと小さいとき。物心ついてすぐのとき。 クロさんの背中に乗り、蝶の群れを追いかけた。 風を斬るのは気持ちよかった。 雲を斬るのは気持ちよかった。 月がだんだん大きくなり、帯が点の集まりだとわかるぐら…
食べてもらえた。 満足してもらえた。 さっすが私―― 大変だったものね。いっぱい指切ったし、いっぱい燃えたし。 でも、頑張ったんだよ。 頑張って作ったんだよ。 「うーん?」 「何?」 目を閉じていた。 目を、開いた。 「何にもないね」 探ってみたのだ。…
降り立ったのは屋敷の前であった。 古い、朽ちかけた屋敷。 垣根が崩れ庭と野が混じっている。大きな池があるが、そこに魚の影はなく、水面に月を映しているだけである。 そこかしこに生気を無くした木が白い枝を拡げていた。 人の気配も妖の気配もない寂し…
牛車から降り、しげしげと辺りを見渡し、かたりと首を傾げた。 長い黒髪を背に垂らした、見目麗しい少女だった。汚れなき白い肌が、紅い灯火に照らされている。 その表情に困惑の色が浮かんでいた。 「さぁ」 真紅の髪を夜風に揺らせ、先を行く少女が手を差…
「お水ー、お水ー」 「その籠、なに?」 光が、朱桜の手荷物に顔を向け、言った。 「秘密なのですよ」 恥ずかしげに背に隠すと、光は、重ねて尋ねることはしなかった。 巫女の怪我が心配なのだ。 もう少し訊いて欲しいですよ。 でも――ぼた餅。 これいらない…
小さな女の子が、はたはた急ぎ足。 布包みを背にしょい籠を手に古寺に。 女の子の額には、二本の小さな人あらざる証。 鬼の王の娘――朱桜。 門の前で出迎える姫様の胸に飛び込むと、その顔がふわりとほころんだ。 いい匂いですと思った。 父上とも、叔父上と…
華が、咲いていた。 茶けた枯れ葉や黄しんだ落ち葉の中、一輪の華が朧に咲いていた。 ぼんやりとした華。輪郭も幽な華。 「綺麗……」 うっとりと溜息を零す女が一人。 銀の獣耳と銀の獣尾を生やす、二十五・六の女であった。 「綺麗さね……」 古寺の妖、九尾の…