小説置き場2

山岳に寺社仏閣に両生類に爬虫類に妖怪に三国志にetcetc

あやかし姫~蟲火(終)~

 神無月の、終わり。
 小太郎がやって来て、七日目。
 姫様は庭にいた。
 洗濯物を干していたのだ。
 冷たく乾いた風が、姫様の長い髪を攫う。
 もう、虫の音も少なくなって。
「うー、寒い」
 目を細め、その小柄な躯をぶるっと震わせた。
 手のひらをすり合わせると、ふっと暖かい息を吹きかけた。
 山の紅葉、庭の紅葉。
 随分と深くなった。
 随分と、随分と。
 もうすぐ散り始める。いや、散り始めている。
「これで、おしまい」
「うん」
 姫様の傍らには小太郎の姿。
 未だにこの小太郎、姫様と太郎にしか、懐いていない。
 他の妖達と、ほとんど口を利かない。
 それが、姫様には心配であった。
 姫様の心配を知ってか知らずか、いつも小太郎はにこにこしていた。
 二人がいれば、満足、なのだ。
 朱桜も、最初は似たようなものだった。
 でも、この子は……
「ねぇ、小太郎君。どうして、皆と話さないの?」
「……」
「どうして、私と太郎さんだけなの?」
 いつも、答えはなかった。
 また、なのかな。
 姫様がそう考えたとき、
「姫様。太郎さん。恩人」
 小太郎がいった。
 姫様の思いもかけぬ言葉であった。
「恩人?」
 姫様が、小太郎の言葉を繰り返す。
「そう、恩人」
 いつもと同じ、にこにこしていた。
 はっと、姫様が異変に気が付いた。
「薄い……」
 小太郎の存在が、薄くなっていた。
 以前も、存在が薄いと葉子や黒之助に言われたけれど。
 今は、それよりも、それよりも。
 まるで、霞のように。
 ふとすれば、後ろが透けて見えそうな。
「どうしたの! これ! それに、首飾り!」
 にっと、小太郎が笑った。
 寂しげに笑った。
 いつも身につけていた首飾り。
 それが、なくなっていた。
「小太郎君!」
「大丈夫、大丈夫」
 小太郎がいう。
「大丈夫、じゃない!」
 その手を強く握ると、姫様が古寺に駆け込む。
 姫様の顔は、蒼白であった。
 白い肌が、蒼味を帯びて。
 強くその手を握る姫様。
 返ってくる小太郎の握りは――弱々しかった。



「葉子さん! 太郎さん! クロさん!」
 姫様が、大きな声をだした。
 その場にいた小妖達がおっかなびっくり集まってくる。
 葉子、太郎、黒之助も、一体何事! と集まってくる。
 そして、絶句した。
 小太郎をみて、絶句した。
「こ、小太郎……」
 絞り出すように、太郎が喉を震わせた。
「なんだよ、これ……なんだよ……姫様……」
「わかんないよ……急に、急に小太郎君が!」
 悲痛、であった。姫様の声が哀しみを纏う。
「クロちゃん……」
「……わからぬ……だが、まずい」
 黒之助の直感が、そう告げさせた。
 それは、皆、同じであった。
「あのね……」
 小太郎が、口を開いた。
 皆、静かに聞く。息を殺し、その言葉を聞き漏らさないようにと。
「もう、お別れ」
「お別れって!」
 姫様、その後が続かない。
 何を言えばいいのか、わからないのだ。
「お別れ」
「だから、なにさ! お別れってなにさ! ちゃんと、ちゃんと説明しなよ!」
 葉子が、小太郎の肩をがくがくと揺らす。
「うん、あのね……あのね、僕、もう、時間がないの」
 虫の音。
 一斉に、鳴り始めた。
 どこに、それだけの虫がいたのかと、黒之助が訝しむ。
 姫様や太郎や葉子は、それどころではなかった。
 頭の中は小太郎のことでいっぱいで、そのことに気がつかなかった。
「虫……」 
 黒之助が、呟いた。
「蟲、うん、蟲」
 小太郎が、いった。
「虫?」
「あのね、あのとき、嬉しかった」
 顔を、見合わせる。
 あのときとは、いつのことかと。
「蛍」
 小太郎が、いった。
「蛍、だと?」
「覚えてる? 僕、姫様と太郎さんに会うの、二回目」
 蛍……
 あっと二人声を出し。
 夏――夜の庭でただ独り瞬いていた蛍を、川に連れて行った事があった。
 姫様と妖狼の、二人で。
「あのときの……嘘、でも……」
「頼んだの、水神様に。お礼が、したいって。光れなくなったときに」
 でも……もう、おしまい。
「残念、だけど」
 七日――蛍の命。
「まだ、まだ……」
 姫様が、小太郎の身体を抱きしめた。
 薄く、なっていく。
 黄色の光が、漏れていく。
「姫様、泣いてる。太郎さん、泣いてる。僕、ここに来ない方が、よかったのかな?」
「うんん、そんなこと、ない。そんなこと、ないよ」
 でもね、でもね。
「いく、なよ……」
 太郎が、いった。
「いいじゃねぇかよ、もう少しいろよ。もっといろよ。水神だろうが、なんだろうが、もっといさせろよ!」
 最後は、吠えるように。
 姫様が、泣きながらその言葉に頷いた。
「無理、だよ。これでも、僕、無理、いったもの」
「クロ!」
「……無理だ」
 太郎が、首を振った。
「なんでだよ! できるだろ!」
「これは、拙者でも頭領でも、どうにも出来ぬ……」
「かりそめ、だから、太郎さん。これは、かりそめ、だから。水神様に作ってもらったかりそめ、だから」
「なんだよ、それ! ここに、ここにちゃんといるじゃねえかよ!」
 太郎が、そういった。
 光が強くなる。姫様の腕の中から、湧き出る。
 それは、蛍火のように――無数に、湧き出る。
 もはや、とめようがなく。
 ただただ、溢れた。
 嗚咽。
 姫様。
「あのね、姫様、僕、恩返し、出来たかな」
 ゆっくりと、姫様が頷いた。
「太郎さん……」
 ゆっくりと、太郎が頷いた。
「よかった」
 にこにこと、満足げに、笑った。
 蟲火が、視界に満ち溢れた。
 満ち溢れて、消えた。
 姫様の腕が、空を、切った。
 男の子の姿は、消えて、なくなった。
 一つ、薄い光が残っている。
 それを、姫様は急いで手の平に閉じこめた。
 手を開くと、その光は消えていた。
 代わりに、ぽとりと、一、雫。


 
 夜の縁側。
 ちゃぷちゃぷと、桶の水に指を浸す。
 井戸の、水。男の子が好んだ。
 姫様の細い指が、ちゃぷちゃぷと音をたてる。
 ずっと、泣いていた。
 泣いて、泣いて。
 涙が、出なくなって。
 それでも、泣いて。
 庭で、洗濯物が風に揺られて。
 葉子が姫様の後ろに立った。
 姫様は、黙って水を揺らし続ける。
 葉子が後ろから姫様を抱き締めた。
 指の動きが、止まった。
「姫様……」
「葉子さん……小太郎君、朱桜ちゃんに、紹介したかったな」
「うん」
「もっと、色々、したかった。色々と、色々と……」
「うん、うん」
「また、一緒にお団子食べたかった。食べて、くれたもの。美味しいって、食べてくれたもの。字、ちょっと覚えたのに。小太郎って、書けるようになったのに。太郎さんに褒められて、嬉しそうにしていたのに。また、夜、手をつないで、三人で……」
 言葉が、出なくなっていく。
 吐息だけが、漏れていく。
「うん、うんうん」
「こんなの、こんなの……」
 妖狼の、遠吠え。
 屋根の上。
 白い身体を震わせながら、月に向かって、吠える。
 木の上で、黒之助がその金銀妖瞳を見ていた。
「太郎……」
「太郎さん……」
 葉子が、銀狐に、変化した。
 その九尾が、姫様を包み込む。
 虚ろな、目。
 光を宿さない目。
 そんな姫様を、葉子は見ていたくなかった。
「葉子さん」
「……なに?」
「しょうが、ないんだよね。どうしようも、なかったんだよね。もう」
 銀狐は、こたえなかった。
 目を伏せて、黙って聞いていた。
「小太郎君、違ったんだもんね。私達と」
「あの子は……蛍だったんだ」
「違ったんだよね……でも、でも、こんなのないよ。この一週間、楽しかったよ。小太郎君がいて、楽しかったよ。でも、こんなのないよ。やだよ。私を置いて、いかないでよ」
「姫様?」
 姫様が言った最後の言葉。
 それは、あのときと同じ響き。
「いか……ないでよ」
「うん……」
 頷くしか、なかった。
 ぎゅっと、抱き締める。
 銀毛が、揺れた。
「蛍の、光」
「姫様、なにを?」
 そこで、銀狐は口を閉じた。
 庭に、光があったから。
 灯火が、二人に近づいてくる。
 蟲火が、二人に近づいてくる。
 それは、姫様の瞳に光を灯した。
「そう……」
 姫様が、指を伸ばす。
 光が、指に触れる。
 触れて、消えた。
 蟲火が、消えた。
「また、くるって……来年、また、くるって」
 姫様が、嬉しそうにいった。
 姫様は、活力に満ち溢れていて。
「……本当に?」
「うん……そう、いったもの。小太郎君、そういったもの」
「ふうん……」
 ちょっと、葉子が涙ぐんだ。
「でも……」
「でも?」
「……いわない。小太郎君、恩返しに来たんだから。私と太郎さんに、恩返しに。だから、いわない」
「そう、かぁ」
「……短いよ、一週間じゃあ」
 姫様が、そう、いった。
「短かい、ね。今度は、あたいらとも、話してくれるのかな」
「……どうでしょうか」
「……あら」
 しばらく、そうしていた。
 銀毛が、姫様を包み込んで。
 妖狼が、また、一吠えした。
 嬉しそうに、一吠えした。
「姫……うん……」
 葉子が、ゆっくりと動き始める。
 音をたてないように、起こさないように。
 姫様と葉子、また二人だけになった部屋にいく。
 姫様を布団に横たえ、上布団をかける。
 灯りを吹き消し、一旦部屋の外に出る。
 その姿を人に変えた。
 目を瞑り、一度髪を掻き上げる。
 それから、葉子は部屋に戻った。
「また、空いちゃった……」
 そう、いった。葉子も布団に入る。天井を見る。
 何かが葉子の手を掴んだ。
 柔らかい手。
 ほっ、と、葉子は息を吐いた。
 ころっと姫様と向かい合う形になる。
 姫様の涙をもう片方の手で、拭ってやる。
 それから、自分の頬についた水滴を拭う。
 ほっ、と、また、息を吐いた。
 静かな、古寺。
 寺全体が、眠りに包まれて。
 蟲火が、一つ。
 光が、もう、二つ。
 月の下で、名残惜しそうに三つの光は舞っていた。
 束の間、だったのだろうか。
 長い事、だったのだろうか。
 そのうち、二つの光が天に昇った。
 ぽとりと、光が一つ地に、落ちた。
 古寺の門で、力無く、点滅する。
 点滅しながら、少しづつ古寺へ、建物へ。
 間隔はゆるやかになり、そして、消えた――