錦、対、戦姫(3)
「先生」
少女が、言った。
剣を背中にしょっている。汗を、少し額に浮かべていた。
「鄧艾(トウガイ)?」
若い男が、入り口の方に身体を向けて、言った。
「うん。司馬懿(シバイ)先生、ちゃんと出来ましたね」
にこりと、鄧艾が笑った。
「……ああ、いつも注意されているからね」
司馬懿が、可笑しそうに言った。
家。
本が、大量に積まれている。
いっぱいいっぱいで、天井に達して。
壁など、もはやどこにも見えなかった。
「それで、なんだい?」
じーっと、口元に微笑みを浮かべながら司馬懿を見やると、鄧艾はこほんと咳をした。
「人が、山に入りました」
「……人が、だって? この山に?」
「ええ。もしかしたら、ここを引き払わないといけないかもしれませんね」
「……困った物だ。私は、ただ、学問を修めたいだけなのに」
「一体どこから嗅ぎ付けてくるのか」
鄧艾が吐き捨てるように言った。
司馬懿。
名門司馬家の次男。司馬八達と詠われる八人兄妹の中でも、最も優れた人物。
そう、言われていた。
仕官の求めから逃げるように(実際に逃げているのだけれど)鄧艾だけを連れて各地を転々としていた。
鄧艾は、司馬懿の弟子兼護衛兼従者であった。
司馬懿の父、司馬防に護衛として雇われたのだ。最初はお坊ちゃんの世話などご免こうむると思っていたが、今は、人の良い司馬懿のことを、先生と呼んで慕っていた。
「まだ、ここに来て間もないのに」
「うん」
司馬懿は、困ったような笑みを浮かべた。
司馬防の別宅。ここで暮らし始めて、まだ、一月しか経っていない。
以前住んでいた場所は、曹操の使者が頻繁に訪れるようになった事で、引っ越しせざえなくなった。
鄧艾には、どうして司馬懿が仕官する事をこれほど嫌がるのか理解しかねるのだが、理由はまだ、聞いていなかった。
聞く必要もないとも、思っていた。
「司馬懿殿は、おられるか」
声が、聞こえてきた。男の、暗い声。
鄧艾は、嫌な予感がした。
司馬懿が返事をしながら外に出る。嫌な予感は、なかなか離れなかった。
「はいはい」
「司馬懿殿、だな」
「……そうですよ」
男は、値踏みをするように司馬懿を見やった。
なかなか腕が立つ。そう、鄧艾は思った。
「閻行と、いう。董狼姫の許で、武将を務めている」
この男がと、司馬懿は思った。
残忍だと、耳にしていた。
「司馬懿殿の噂は聞いた。聡明な人物だと。ぜひ、我らの主に仕えて頂きたいのです」
「いえ、私はまだまだ未熟な身。人に仕えるのは……」
遠慮がちに、言う。
「……断るのか」
閻行が、言った。
鄧艾が、ぎゅっと表情を引き締めると、司馬懿の前に立った。
背中の刀に手を掛けている。
閻行がせせら笑った。小娘がと、口にした。
「……先生はまだ、仕官する気はない。どうか、お引き取りを」
「俺は、司馬懿と話をしているんだ。小娘、勝手にしゃしゃり出るな」
「お前……」
「聞こえなかったのか、小娘。俺は、貴様などの相手をしている暇はないのだ」
「……ただの小娘かどうか、確かめてみろ!」
鄧艾が剣を抜いた。斬りかかる。
ごふっと、息を吐いた。
地に、叩きつけられた。受け身も、とれなかった。
相手の動きがまったく見えなかった。
胃の中の物が喉を這い上がり、焼け付くような感覚を覚えた。
「ふん。やはり、ただの小娘ではないか」
閻行が、言った。剣を手にしていた。鞘を付けたままであった。
剣の柄を、鄧艾の腹に叩き込んだのだ。
「さて……ほう、面白い芸当が出来るな」
司馬懿は、首だけを後方に飛ばされた鄧艾に向けていた。
百八十度、回転していた。
「と、鄧艾!」
司馬懿が、鄧艾に駆け寄った。
鄧艾の服は、汚れていた。
「さてと、話の続きだ。本当は、穏やかに済ませたかったのだが……やはり、噂通りの男だ」
「だ、大丈夫か! 痛むところは!?」
「先生……慌てすぎ」
「司馬懿。お前、兄妹が、多いな」
「え……」
司馬懿が、首だけを閻行に向けた。
「まだ、幼い妹も弟もいるな。親兄弟と離れて暮らしていては、寂しかろう。こちらに来て頂いた。皆、お前に、会いたがっているぞ」
「閻行……」
「断れないだろう、仕官?」
暗い笑みを、浮かべた。
「貴様!」
大きな声を出したが、鄧艾は何も出来なかった。
身体が、動かないのだ。
逆らってはいけないと、本能がそう、訴えかけてくるのだ。
「お前には、存分に働いて貰うぞ。そうだ、もし妙な事をしてみろ。いや、失態でもいい。そのときはお前ではなく、兄妹のどれかを」
最後までは、口にしなかった。
閻行がくるりと背を向ける。
鄧艾は、司馬懿が唇を噛み締めているのを、ただ、見ている事しか出来なかった。
呂布は、方天画戟を不思議そうに眺めた。
それから、首の無い馬に乗っている後方に消えていく少年を見やった。
「あれ……殺したと思ったのに」
まあいいやと呟くと、呂布は赤兎馬をさらに駆けさせた。
笑うしかなかった。
圧倒的であった。自分の、及ぶ相手ではなかった。
まだ――
「次こそは……」
額から流れる血を、指に絡め取り、口に入れた。
「……この味は、忘れない」
そう言うと、麒麟児は、戦場から姿を消した。
「はは、ははは!!!」
馬超が高笑いを浮かべた。
ぐっと、「獲物」を睨み付けた。
馬超の後方に、人影が並ぶ。
――長矛。
馬超の、麾下の兵達。
およそ二千。
待っていた。ずっと待っていた。
この機会を、ずっと待っていた。
呂布の、首。
それだけが、欲しい。
馬超は、戦にまだ参加していなかった。
このときのために、ずっと狂気を貯めていたのだ。
「いくぞ! 敵は、ただ一人だ。あの女の首、それだけを狙え!」
馬超が、言った。
狂気に侵されし者達が、黒ずくめの一群に向かっていく。
左軍が、撃ち破られていた。
呂布が現れると同時に、それまでとはうって変わって激しい攻めを見せ始めたのだ。
それが本来の力なのだろう。
勢いに乗って突き進むだけだった西涼の荒武者達は、次々と撃破されていった。
「知ったことか」
そう、くぐもった声を出した。
もう、馬超には、漆黒の戦姫しか見えていなかった。
呂布も――嗤っていた。
明らかに、こちらに目をやりながら。
馬超は、矛を捨て、刀を抜いた。
龐徳が、何か言っている。
馬超の耳には、届く事はなかった。
少女が、言った。
剣を背中にしょっている。汗を、少し額に浮かべていた。
「鄧艾(トウガイ)?」
若い男が、入り口の方に身体を向けて、言った。
「うん。司馬懿(シバイ)先生、ちゃんと出来ましたね」
にこりと、鄧艾が笑った。
「……ああ、いつも注意されているからね」
司馬懿が、可笑しそうに言った。
家。
本が、大量に積まれている。
いっぱいいっぱいで、天井に達して。
壁など、もはやどこにも見えなかった。
「それで、なんだい?」
じーっと、口元に微笑みを浮かべながら司馬懿を見やると、鄧艾はこほんと咳をした。
「人が、山に入りました」
「……人が、だって? この山に?」
「ええ。もしかしたら、ここを引き払わないといけないかもしれませんね」
「……困った物だ。私は、ただ、学問を修めたいだけなのに」
「一体どこから嗅ぎ付けてくるのか」
鄧艾が吐き捨てるように言った。
司馬懿。
名門司馬家の次男。司馬八達と詠われる八人兄妹の中でも、最も優れた人物。
そう、言われていた。
仕官の求めから逃げるように(実際に逃げているのだけれど)鄧艾だけを連れて各地を転々としていた。
鄧艾は、司馬懿の弟子兼護衛兼従者であった。
司馬懿の父、司馬防に護衛として雇われたのだ。最初はお坊ちゃんの世話などご免こうむると思っていたが、今は、人の良い司馬懿のことを、先生と呼んで慕っていた。
「まだ、ここに来て間もないのに」
「うん」
司馬懿は、困ったような笑みを浮かべた。
司馬防の別宅。ここで暮らし始めて、まだ、一月しか経っていない。
以前住んでいた場所は、曹操の使者が頻繁に訪れるようになった事で、引っ越しせざえなくなった。
鄧艾には、どうして司馬懿が仕官する事をこれほど嫌がるのか理解しかねるのだが、理由はまだ、聞いていなかった。
聞く必要もないとも、思っていた。
「司馬懿殿は、おられるか」
声が、聞こえてきた。男の、暗い声。
鄧艾は、嫌な予感がした。
司馬懿が返事をしながら外に出る。嫌な予感は、なかなか離れなかった。
「はいはい」
「司馬懿殿、だな」
「……そうですよ」
男は、値踏みをするように司馬懿を見やった。
なかなか腕が立つ。そう、鄧艾は思った。
「閻行と、いう。董狼姫の許で、武将を務めている」
この男がと、司馬懿は思った。
残忍だと、耳にしていた。
「司馬懿殿の噂は聞いた。聡明な人物だと。ぜひ、我らの主に仕えて頂きたいのです」
「いえ、私はまだまだ未熟な身。人に仕えるのは……」
遠慮がちに、言う。
「……断るのか」
閻行が、言った。
鄧艾が、ぎゅっと表情を引き締めると、司馬懿の前に立った。
背中の刀に手を掛けている。
閻行がせせら笑った。小娘がと、口にした。
「……先生はまだ、仕官する気はない。どうか、お引き取りを」
「俺は、司馬懿と話をしているんだ。小娘、勝手にしゃしゃり出るな」
「お前……」
「聞こえなかったのか、小娘。俺は、貴様などの相手をしている暇はないのだ」
「……ただの小娘かどうか、確かめてみろ!」
鄧艾が剣を抜いた。斬りかかる。
ごふっと、息を吐いた。
地に、叩きつけられた。受け身も、とれなかった。
相手の動きがまったく見えなかった。
胃の中の物が喉を這い上がり、焼け付くような感覚を覚えた。
「ふん。やはり、ただの小娘ではないか」
閻行が、言った。剣を手にしていた。鞘を付けたままであった。
剣の柄を、鄧艾の腹に叩き込んだのだ。
「さて……ほう、面白い芸当が出来るな」
司馬懿は、首だけを後方に飛ばされた鄧艾に向けていた。
百八十度、回転していた。
「と、鄧艾!」
司馬懿が、鄧艾に駆け寄った。
鄧艾の服は、汚れていた。
「さてと、話の続きだ。本当は、穏やかに済ませたかったのだが……やはり、噂通りの男だ」
「だ、大丈夫か! 痛むところは!?」
「先生……慌てすぎ」
「司馬懿。お前、兄妹が、多いな」
「え……」
司馬懿が、首だけを閻行に向けた。
「まだ、幼い妹も弟もいるな。親兄弟と離れて暮らしていては、寂しかろう。こちらに来て頂いた。皆、お前に、会いたがっているぞ」
「閻行……」
「断れないだろう、仕官?」
暗い笑みを、浮かべた。
「貴様!」
大きな声を出したが、鄧艾は何も出来なかった。
身体が、動かないのだ。
逆らってはいけないと、本能がそう、訴えかけてくるのだ。
「お前には、存分に働いて貰うぞ。そうだ、もし妙な事をしてみろ。いや、失態でもいい。そのときはお前ではなく、兄妹のどれかを」
最後までは、口にしなかった。
閻行がくるりと背を向ける。
鄧艾は、司馬懿が唇を噛み締めているのを、ただ、見ている事しか出来なかった。
呂布は、方天画戟を不思議そうに眺めた。
それから、首の無い馬に乗っている後方に消えていく少年を見やった。
「あれ……殺したと思ったのに」
まあいいやと呟くと、呂布は赤兎馬をさらに駆けさせた。
笑うしかなかった。
圧倒的であった。自分の、及ぶ相手ではなかった。
まだ――
「次こそは……」
額から流れる血を、指に絡め取り、口に入れた。
「……この味は、忘れない」
そう言うと、麒麟児は、戦場から姿を消した。
「はは、ははは!!!」
馬超が高笑いを浮かべた。
ぐっと、「獲物」を睨み付けた。
馬超の後方に、人影が並ぶ。
――長矛。
馬超の、麾下の兵達。
およそ二千。
待っていた。ずっと待っていた。
この機会を、ずっと待っていた。
呂布の、首。
それだけが、欲しい。
馬超は、戦にまだ参加していなかった。
このときのために、ずっと狂気を貯めていたのだ。
「いくぞ! 敵は、ただ一人だ。あの女の首、それだけを狙え!」
馬超が、言った。
狂気に侵されし者達が、黒ずくめの一群に向かっていく。
左軍が、撃ち破られていた。
呂布が現れると同時に、それまでとはうって変わって激しい攻めを見せ始めたのだ。
それが本来の力なのだろう。
勢いに乗って突き進むだけだった西涼の荒武者達は、次々と撃破されていった。
「知ったことか」
そう、くぐもった声を出した。
もう、馬超には、漆黒の戦姫しか見えていなかった。
呂布も――嗤っていた。
明らかに、こちらに目をやりながら。
馬超は、矛を捨て、刀を抜いた。
龐徳が、何か言っている。
馬超の耳には、届く事はなかった。