あやかし姫~梅雨の日のこと、いつものお話(2)~
聞き間違いだろうか……
いいえ、違います。確かに、返してくれないって。
「あは。姫様、ここに寝るさね」
くるくると耳かきを器用に回しながら、銀狐は自分の膝を指差し、そう、嬉しそうに言った。
「ここ、ここ。耳掃除、あたいがしてあげる」
膝を、少し崩す。
姫様が寝やすいようにと、葉子は膝を崩した。
「……子供じゃないんですよ。自分で、出来ます」
呆れたように、言う。
でも、姫様の顔に浮かんだ微笑みは、明らかに嬉しさを滲ませていた。
「いいじゃない、久し振りに、ね」
「……うん」
こくんと頷き、ことんと横たえ。
銀狐の膝に、頭を乗せた。
姫様の長い髪を丁寧に耳の上に束ねると、葉子はくっと息を吹きかけた。
「……くすぐったいです」
もうと、口を尖らせる。
「本当に、久し振りだね」
「そうですね」
人に、してあげる事はあった。
鬼の王の娘――自分を姉のように慕ってくれる、人と妖の娘に。
今と、昔と、同じように、膝枕をしてあげて。
「痛かったら、痛いって言ってね」
「はい」
穏やかなやり取り。
姫様は、ゆっくりと目を瞑った。
心地良い。
そう、思った。
雨の音。
小雨。
古寺は、静かであった。
葉子の息遣い。
真剣なのだろう。
途切れがち、であった。
「ん……」
声が、漏れた。
姫様の、吐息。
「ご免! 痛かった?」
葉子が、言う。
少し、姫様は頭を動かした。
「違います。気持ちいいなぁって」
「……そう」
ほっと銀狐は、胸を撫で下ろした。
「ねえ、葉子さん」
ちょんちょんと、袖を掴まれた。
「にゅ?」
「朱桜ちゃん、急にどうしたのかな?」
「朱桜ちゃんねぇ……あんときは、やりにくかったよ」
「ずっと、葉子さんの横で見てましたもんね」
「やりにくいから、離れて、って言っても、ちょっとしたらすぐ横にいるんだもの。あれには参ったよ。あたいがおにぎり作るの、そんなに見ても、しょうがないでしょうに」
おにぎりを作っていると、いつのまにか傍でじーっと。
気になって気になって。
見るなら少し離れて――
そう言うと、小さな鬼の子は、とことこと歩いた。
そして……また、傍でじっと見ていた。
もう、葉子は何も言わなかった。
「美味しいおにぎりを作るためですって、言ってましたけど……」
「あたい、そんなに上手かねぇ?」
「葉子さんのおにぎり、美味しいよ」
「ふふーん」
銀狐は「よし、反対」と。
気怠げに身体を起こし、ちょこんと座ると、
「次は、庭を見ながら」
そう、姫様はお願いした。
「あいよ」
葉子が身体の向きを変える。
姫様も、するすると座ったまま移動した。畳が擦れ、少し音を立てた。
また、膝の上に頭を乗せる。
庭が、見えた。
水々しい、緑。
一つ、息を吐いた。
古寺の庭は、野の趣を残しながら、それでいて、不思議な調和を生み出していた。
姫様の好きな庭だった。
ここから、薬の材料を得ることもあった。
空の物干し竿。
今日は、洗濯した方がいいかもしれない。
理由があるわけではないけど、そう、思った。
ころころと、縁側を妖が転がるのが見えた。
くすくすと、声を立てる。
ころころころころ――
姫様が喜んでいると、丸くない妖も転がりだして。
「いいかい?」
「はい。お願いします」
妖達が、動きを止める。
紫陽花の上に、でんでん虫。
のんびりと、赤紫の花の上を移動していく。
ゆっくりとした動きを、目で、追った。
その時……視界が、銀色に染まった。
「……意地悪」
ぷくっと姫様の頬が膨らみ、ちょんと銀毛尾っぽを摘んだ。
「あはっ」
二人、笑い合って。
それから、葉子が、視界を塞ぐ銀毛尾っぽを動かした。
ふさふさり。
庭の景色が戻ってくる。
お化け傘。
宙に浮かんで、紫陽花に乗る蝸牛を見ていた。
濡れますよ。
そう、言おうとした。
すぐに、ああと思い直した。
屋根から、水滴が零れる。
草花から、水滴が零れる。
ぴちゃぴちゃと跳ね、音を立てる。
塀の向こうは、霞の世界。
こんもりと繁る木々達は、しとしと降る雨のために、うっすらと白さを帯びていた。
「……静か」
葉子が、うんと応える。
じっと、していた。
ふわり。
急に、頭を、撫でられた。
「姫様さぁ」
「はい?」
「好きな奴でも、出来た?」
「は?」
「……なんだろう、姫様、綺麗になった気がする」
よく、わかんないけど。
そんな気がする。
「えっと……」
鼓動が、小刻みになった。
汗が、手の平に滲んだ。
梅雨の湿気のせいじゃなく、少し、汗ばんだ。
「気のせいじゃないですか? でも、そう言われると、嬉しいですよ」
いつもの声だっただろうか?
今は――視線を、合わせられない。
ふぅん。
声が、聞こえた。
耳かきが動き出す。
銀狐は、また、お掃除に集中し始めて。
姫様は、安堵の息を吐いた。
また、心地よさに全てを預ける。
雲が、動いていた。
厚い雲の群れに、切れ目が生まれつつあった。
紫陽花から、でんでん虫の姿が消えていた。
どんなにゆっくりでも、動いている。
そう、姫様は思った。
静かな世界。
古寺の静かな世界は、大きな足音に、掻き消された。
いいえ、違います。確かに、返してくれないって。
「あは。姫様、ここに寝るさね」
くるくると耳かきを器用に回しながら、銀狐は自分の膝を指差し、そう、嬉しそうに言った。
「ここ、ここ。耳掃除、あたいがしてあげる」
膝を、少し崩す。
姫様が寝やすいようにと、葉子は膝を崩した。
「……子供じゃないんですよ。自分で、出来ます」
呆れたように、言う。
でも、姫様の顔に浮かんだ微笑みは、明らかに嬉しさを滲ませていた。
「いいじゃない、久し振りに、ね」
「……うん」
こくんと頷き、ことんと横たえ。
銀狐の膝に、頭を乗せた。
姫様の長い髪を丁寧に耳の上に束ねると、葉子はくっと息を吹きかけた。
「……くすぐったいです」
もうと、口を尖らせる。
「本当に、久し振りだね」
「そうですね」
人に、してあげる事はあった。
鬼の王の娘――自分を姉のように慕ってくれる、人と妖の娘に。
今と、昔と、同じように、膝枕をしてあげて。
「痛かったら、痛いって言ってね」
「はい」
穏やかなやり取り。
姫様は、ゆっくりと目を瞑った。
心地良い。
そう、思った。
雨の音。
小雨。
古寺は、静かであった。
葉子の息遣い。
真剣なのだろう。
途切れがち、であった。
「ん……」
声が、漏れた。
姫様の、吐息。
「ご免! 痛かった?」
葉子が、言う。
少し、姫様は頭を動かした。
「違います。気持ちいいなぁって」
「……そう」
ほっと銀狐は、胸を撫で下ろした。
「ねえ、葉子さん」
ちょんちょんと、袖を掴まれた。
「にゅ?」
「朱桜ちゃん、急にどうしたのかな?」
「朱桜ちゃんねぇ……あんときは、やりにくかったよ」
「ずっと、葉子さんの横で見てましたもんね」
「やりにくいから、離れて、って言っても、ちょっとしたらすぐ横にいるんだもの。あれには参ったよ。あたいがおにぎり作るの、そんなに見ても、しょうがないでしょうに」
おにぎりを作っていると、いつのまにか傍でじーっと。
気になって気になって。
見るなら少し離れて――
そう言うと、小さな鬼の子は、とことこと歩いた。
そして……また、傍でじっと見ていた。
もう、葉子は何も言わなかった。
「美味しいおにぎりを作るためですって、言ってましたけど……」
「あたい、そんなに上手かねぇ?」
「葉子さんのおにぎり、美味しいよ」
「ふふーん」
銀狐は「よし、反対」と。
気怠げに身体を起こし、ちょこんと座ると、
「次は、庭を見ながら」
そう、姫様はお願いした。
「あいよ」
葉子が身体の向きを変える。
姫様も、するすると座ったまま移動した。畳が擦れ、少し音を立てた。
また、膝の上に頭を乗せる。
庭が、見えた。
水々しい、緑。
一つ、息を吐いた。
古寺の庭は、野の趣を残しながら、それでいて、不思議な調和を生み出していた。
姫様の好きな庭だった。
ここから、薬の材料を得ることもあった。
空の物干し竿。
今日は、洗濯した方がいいかもしれない。
理由があるわけではないけど、そう、思った。
ころころと、縁側を妖が転がるのが見えた。
くすくすと、声を立てる。
ころころころころ――
姫様が喜んでいると、丸くない妖も転がりだして。
「いいかい?」
「はい。お願いします」
妖達が、動きを止める。
紫陽花の上に、でんでん虫。
のんびりと、赤紫の花の上を移動していく。
ゆっくりとした動きを、目で、追った。
その時……視界が、銀色に染まった。
「……意地悪」
ぷくっと姫様の頬が膨らみ、ちょんと銀毛尾っぽを摘んだ。
「あはっ」
二人、笑い合って。
それから、葉子が、視界を塞ぐ銀毛尾っぽを動かした。
ふさふさり。
庭の景色が戻ってくる。
お化け傘。
宙に浮かんで、紫陽花に乗る蝸牛を見ていた。
濡れますよ。
そう、言おうとした。
すぐに、ああと思い直した。
屋根から、水滴が零れる。
草花から、水滴が零れる。
ぴちゃぴちゃと跳ね、音を立てる。
塀の向こうは、霞の世界。
こんもりと繁る木々達は、しとしと降る雨のために、うっすらと白さを帯びていた。
「……静か」
葉子が、うんと応える。
じっと、していた。
ふわり。
急に、頭を、撫でられた。
「姫様さぁ」
「はい?」
「好きな奴でも、出来た?」
「は?」
「……なんだろう、姫様、綺麗になった気がする」
よく、わかんないけど。
そんな気がする。
「えっと……」
鼓動が、小刻みになった。
汗が、手の平に滲んだ。
梅雨の湿気のせいじゃなく、少し、汗ばんだ。
「気のせいじゃないですか? でも、そう言われると、嬉しいですよ」
いつもの声だっただろうか?
今は――視線を、合わせられない。
ふぅん。
声が、聞こえた。
耳かきが動き出す。
銀狐は、また、お掃除に集中し始めて。
姫様は、安堵の息を吐いた。
また、心地よさに全てを預ける。
雲が、動いていた。
厚い雲の群れに、切れ目が生まれつつあった。
紫陽花から、でんでん虫の姿が消えていた。
どんなにゆっくりでも、動いている。
そう、姫様は思った。
静かな世界。
古寺の静かな世界は、大きな足音に、掻き消された。