あやかし姫~繕い(1)~
一本角の、天翔ける妖馬。
西の山より、この地に来たる。
双子の鬼の、弟君。
双子の兄の、娘君。
森の傍、であった。空が、灰色で覆われていた。
雨の兆し。今すぐにでも、ぽつりときそうであった。
黒之助は、空の茨木童子に頭を下げた。
冷たい面差しを少しも崩さず、鬼は愛馬を地に下ろした。
「朱桜殿、ご機嫌は、」
茨木が、自分の背中にくっついている幼子に目をやり、
「ご機嫌斜めだな」
そう言って、苦笑いを浮かべた。
やっと、肩の力を抜けた。
緊張が、少し解けた。
茨木童子は、かって、大妖であった。
巨大な力を秘めたる妖と、一人で面と向かうことは稀であって。
一人――
古寺の姫君は、この場にいない。
黒之助は、一人で、鬼の娘と言葉を交えるつもりであった。
「さぁ」
茨木童子が先に降り、朱桜を抱え上げる。
むすっとした表情。
その視線は、古いお寺に向いていた。
とてとてと、黒之助の傍に行く。
それから、叔父を振り返った。
「もう行くぞ? 本当に良いのだな?」
「ありがとうございます、叔父上」
朱桜は、きちんと姿勢を正してお辞儀をした。
その仕草は、ここで、いいです。
そう、言っていた。
「分かった。迎えは明日の夜だ。風邪を引かないようにな」
一日と、半分。
長く、短い。黒之助は、そう思った。
「はい。叔父上も」
頭を掻くと、
「よろしく頼む」
鋭い視線を、黒之助に送った。
「はい」
上ずった返事。緊張の糸が、強く締まる。
鬼馬が、蹄を踏みならし、炎を舞い上げ、強く強く走り出した。
茨木が去り、黒之助は大きな溜息を吐く。
緊張し、疲労を覚え。それから黒之助は、姫さん本当に凄いなと感心した。
相手が大妖であろうと特に気負うことなく、古寺の姫様は楽しそうに会話する。
とても真似出来ることではない。
羽に力を込め、神経をすり減らし、そうしてやっと、己は向かい合うことが出来る――
っと、意識を内に向けているとき、とんとんと膝の裏を叩かれた。
黒之助は、幼子を目に入れにこりとする。
「来ましたですよ」
小さな鬼の娘が、元気のない声で、そう言った。
「手紙、読みましたか?」
「読んだですよ。だから、来たですよ」
「……読んで、どう思われました?」
幼子と、羽を広げた男が向き合う。
二人とも正座、どちらも真剣。
朱桜は、うぅ……と、口を尖らせると、自分の角を、さわさわといじくった。
視線が泳ぐ。逃げ場を、探すように。
「……えっと……」
答えを、言いたくなさそうであった。
似ているなと、黒之助は思った。
「羽……」
「?」
「羽です、羽! 調子どうですか!?」
「すっかりよくなりました……って、また随分と古いことを」
黒之丞に傷つけられた黒い羽。
羽は、すぐに生えてくる。
「し、心配したですよ!?」
ふむと、怒ったように言う朱桜に、苦笑いを向けた。
話を、逸らそうとしている。それに乗ってみるのも、また一興か。
「治りは、いつもより早くありました。朱桜殿のお陰です」
「えへへ……」
ころころと変わる幼子の表情。
怒って、笑って――
鬼の娘は、癒しの力を持っていた。それを、傷付いた烏天狗に使った。
本来、鬼は癒す力を持たない。
朱桜は、例外である。おそらく鬼の中でただ、一人。
「でも、あの後怒られたです。父さまにも、叔父上にも。すっごく怒られて、め! って言われたですよ。怖い顔で言われたですよ」
「あの力は?」
「あるです」
たまに、叔父上に使うですよ。
「秘密にしてます。光君にも白月ちゃんにも言ってないです」
「姫さんにも」
朱桜は、黒之助を睨み付けた。敵意は感じなかった。
「……秘密です!」
そう言うと、ぴょんと立ち上がり、森の中を進み始めた。
黒之助は、その背中を静かに追いかけた。
枝を折り、それをぶんぶん振り回し。
それからぽいっと棒を捨てると、
「……会いたいです」
そう言い、後ろにいた黒之助の身体にしがみついた。
「でも、会いたくないです!」
わっと、大きな声を出す。
空が、ぴかりと光った。
「……どっちですか」
「わかんないです!」
また、空が光る。
やはりそうかと、黒之助は思った。二つに裂かれている。考えは、当たった。
憧れているから、憧れているからこそ……
姫さんの気持ちが分かる。分かるから……
悩んだのであろうよ。苦しんだのであろうよ。
姫さんと同じように。
ぽつと、ぽつと。すぐに、ざぁーっと。
降り始めた――雨は、長くなりそうであった。
身体の一部を拡げる。幼子の姿を、天から覆い隠す。
急に暗くなったと顔をあげると、朱桜が見たものは、大きな大きな羽であった。
「うーん」
術を使って雨を防ごうとも、大気を濡らす秋雨の冷たさは身に滲みる。
自分は別に構わないが、朱桜がいる。
妖よりも人に近い鬼の娘は、それほど身体が強いわけではないのだ。
「……雨宿りか」
古寺は……まだ、行きたくないか。
「雨ですねー。黒之助さん、濡れるですよ、寒いですよ」
心配そうに、自分の顔を見つめる。
姫さんもそうであった。自分よりも、他の妖を心配する。
ふっと、笑みを零した。
「心配ご無用」
そう言うと、黒之丞は小さな身体を両腕で抱え上げた。
え?
えええ?
「な、何するです!?」
お、おお!?
わ、わわ!?
「暴れないように」
渦を纏う――葉々を散らし、羽々を落とし、黒之助は飛び上がった。
空に浮かび、静止する。
森の上。あんなに高かった木々が、足下にある。古寺が、近くなった気がする。
足がぶらぶらし、すかすかで。
「ひょ、ひょおおおぉぉぉ!!!」
思わず、よく分からない声を朱桜はあげていた。
空の上は鬼馬のお陰で慣れているはずなのに。雲に乗って慣れているはずなのに。
この飛び方は……違う。
全然違う。
「手、手を離さないで下さい! 駄目! 絶対駄目!!!」
「言われなくても」
一波。羽が、脈動する。
朱桜をしっかりと掴んでいる手が、黒くなった。
羽で覆われたのだ。
顔が、変わる。
――くちばし。
鳥の、顔。
「お、おお」
こんなに間近で烏天狗を見るのは、初めてであった。
こうやって黒之助に抱きしめられているのも、初めてであった。
というより、男の人には……
あわー。ちょっと恥ずかしくなる。
幼くても、朱桜は立派な女の子なのだ。
「う、うわ?」
これは、この感覚は……光君のときと、一緒?
い、いけません! いけませんですよー!?
は、は、白月ちゃんは、どうなのかなー。いっつも光君と一緒なのですよー。
……大切なお友達さんですよ?
お、お空ぁあああ!!!
「拙者の友人の家でしばし雨宿りします。宜しいですね」
「はい、はいです!」
空の旅は、短いもので。
目的地に着いたとき、ぐったりとした朱桜の頬は、上気し紅色に染まっていた。
西の山より、この地に来たる。
双子の鬼の、弟君。
双子の兄の、娘君。
森の傍、であった。空が、灰色で覆われていた。
雨の兆し。今すぐにでも、ぽつりときそうであった。
黒之助は、空の茨木童子に頭を下げた。
冷たい面差しを少しも崩さず、鬼は愛馬を地に下ろした。
「朱桜殿、ご機嫌は、」
茨木が、自分の背中にくっついている幼子に目をやり、
「ご機嫌斜めだな」
そう言って、苦笑いを浮かべた。
やっと、肩の力を抜けた。
緊張が、少し解けた。
茨木童子は、かって、大妖であった。
巨大な力を秘めたる妖と、一人で面と向かうことは稀であって。
一人――
古寺の姫君は、この場にいない。
黒之助は、一人で、鬼の娘と言葉を交えるつもりであった。
「さぁ」
茨木童子が先に降り、朱桜を抱え上げる。
むすっとした表情。
その視線は、古いお寺に向いていた。
とてとてと、黒之助の傍に行く。
それから、叔父を振り返った。
「もう行くぞ? 本当に良いのだな?」
「ありがとうございます、叔父上」
朱桜は、きちんと姿勢を正してお辞儀をした。
その仕草は、ここで、いいです。
そう、言っていた。
「分かった。迎えは明日の夜だ。風邪を引かないようにな」
一日と、半分。
長く、短い。黒之助は、そう思った。
「はい。叔父上も」
頭を掻くと、
「よろしく頼む」
鋭い視線を、黒之助に送った。
「はい」
上ずった返事。緊張の糸が、強く締まる。
鬼馬が、蹄を踏みならし、炎を舞い上げ、強く強く走り出した。
茨木が去り、黒之助は大きな溜息を吐く。
緊張し、疲労を覚え。それから黒之助は、姫さん本当に凄いなと感心した。
相手が大妖であろうと特に気負うことなく、古寺の姫様は楽しそうに会話する。
とても真似出来ることではない。
羽に力を込め、神経をすり減らし、そうしてやっと、己は向かい合うことが出来る――
っと、意識を内に向けているとき、とんとんと膝の裏を叩かれた。
黒之助は、幼子を目に入れにこりとする。
「来ましたですよ」
小さな鬼の娘が、元気のない声で、そう言った。
「手紙、読みましたか?」
「読んだですよ。だから、来たですよ」
「……読んで、どう思われました?」
幼子と、羽を広げた男が向き合う。
二人とも正座、どちらも真剣。
朱桜は、うぅ……と、口を尖らせると、自分の角を、さわさわといじくった。
視線が泳ぐ。逃げ場を、探すように。
「……えっと……」
答えを、言いたくなさそうであった。
似ているなと、黒之助は思った。
「羽……」
「?」
「羽です、羽! 調子どうですか!?」
「すっかりよくなりました……って、また随分と古いことを」
黒之丞に傷つけられた黒い羽。
羽は、すぐに生えてくる。
「し、心配したですよ!?」
ふむと、怒ったように言う朱桜に、苦笑いを向けた。
話を、逸らそうとしている。それに乗ってみるのも、また一興か。
「治りは、いつもより早くありました。朱桜殿のお陰です」
「えへへ……」
ころころと変わる幼子の表情。
怒って、笑って――
鬼の娘は、癒しの力を持っていた。それを、傷付いた烏天狗に使った。
本来、鬼は癒す力を持たない。
朱桜は、例外である。おそらく鬼の中でただ、一人。
「でも、あの後怒られたです。父さまにも、叔父上にも。すっごく怒られて、め! って言われたですよ。怖い顔で言われたですよ」
「あの力は?」
「あるです」
たまに、叔父上に使うですよ。
「秘密にしてます。光君にも白月ちゃんにも言ってないです」
「姫さんにも」
朱桜は、黒之助を睨み付けた。敵意は感じなかった。
「……秘密です!」
そう言うと、ぴょんと立ち上がり、森の中を進み始めた。
黒之助は、その背中を静かに追いかけた。
枝を折り、それをぶんぶん振り回し。
それからぽいっと棒を捨てると、
「……会いたいです」
そう言い、後ろにいた黒之助の身体にしがみついた。
「でも、会いたくないです!」
わっと、大きな声を出す。
空が、ぴかりと光った。
「……どっちですか」
「わかんないです!」
また、空が光る。
やはりそうかと、黒之助は思った。二つに裂かれている。考えは、当たった。
憧れているから、憧れているからこそ……
姫さんの気持ちが分かる。分かるから……
悩んだのであろうよ。苦しんだのであろうよ。
姫さんと同じように。
ぽつと、ぽつと。すぐに、ざぁーっと。
降り始めた――雨は、長くなりそうであった。
身体の一部を拡げる。幼子の姿を、天から覆い隠す。
急に暗くなったと顔をあげると、朱桜が見たものは、大きな大きな羽であった。
「うーん」
術を使って雨を防ごうとも、大気を濡らす秋雨の冷たさは身に滲みる。
自分は別に構わないが、朱桜がいる。
妖よりも人に近い鬼の娘は、それほど身体が強いわけではないのだ。
「……雨宿りか」
古寺は……まだ、行きたくないか。
「雨ですねー。黒之助さん、濡れるですよ、寒いですよ」
心配そうに、自分の顔を見つめる。
姫さんもそうであった。自分よりも、他の妖を心配する。
ふっと、笑みを零した。
「心配ご無用」
そう言うと、黒之丞は小さな身体を両腕で抱え上げた。
え?
えええ?
「な、何するです!?」
お、おお!?
わ、わわ!?
「暴れないように」
渦を纏う――葉々を散らし、羽々を落とし、黒之助は飛び上がった。
空に浮かび、静止する。
森の上。あんなに高かった木々が、足下にある。古寺が、近くなった気がする。
足がぶらぶらし、すかすかで。
「ひょ、ひょおおおぉぉぉ!!!」
思わず、よく分からない声を朱桜はあげていた。
空の上は鬼馬のお陰で慣れているはずなのに。雲に乗って慣れているはずなのに。
この飛び方は……違う。
全然違う。
「手、手を離さないで下さい! 駄目! 絶対駄目!!!」
「言われなくても」
一波。羽が、脈動する。
朱桜をしっかりと掴んでいる手が、黒くなった。
羽で覆われたのだ。
顔が、変わる。
――くちばし。
鳥の、顔。
「お、おお」
こんなに間近で烏天狗を見るのは、初めてであった。
こうやって黒之助に抱きしめられているのも、初めてであった。
というより、男の人には……
あわー。ちょっと恥ずかしくなる。
幼くても、朱桜は立派な女の子なのだ。
「う、うわ?」
これは、この感覚は……光君のときと、一緒?
い、いけません! いけませんですよー!?
は、は、白月ちゃんは、どうなのかなー。いっつも光君と一緒なのですよー。
……大切なお友達さんですよ?
お、お空ぁあああ!!!
「拙者の友人の家でしばし雨宿りします。宜しいですね」
「はい、はいです!」
空の旅は、短いもので。
目的地に着いたとき、ぐったりとした朱桜の頬は、上気し紅色に染まっていた。