あやかし姫~月の蝶(2)~
降り立ったのは屋敷の前であった。
古い、朽ちかけた屋敷。
垣根が崩れ庭と野が混じっている。大きな池があるが、そこに魚の影はなく、水面に月を映しているだけである。
そこかしこに生気を無くした木が白い枝を拡げていた。
人の気配も妖の気配もない寂しい場所だった。
「……ここですか?」
「ええ」
『あれ』がいたら嫌だなと姫様は思った。
白い巣を張り目を光らせる八脚のものがたくさんいそうだ。
「あ、蜘蛛はいないから」
軽く言われた。
ほっと胸を撫で下ろした。
未だに黒之丞を苦手としている姫様だった。
ずんずんと、敷物を肩に担ぎ、包みを抱え、火の玉を飛ばし進んでいく火羅に付き従う。
門らしきものをくぐり、敷地に入る。
うっすらと苔のようなものが滲みはじめた縁側に敷物をひくと、ここと指で示した。
古寺と同じく、庭が見える。
庭といっても、池と、葉を落とした冬の樹木しかないのだが。
石を置いていた跡であろう穴が、枯れ草に覆われていた。
「さぁ、座って」
手をつき、手で押し、大丈夫だろうかと姫様確かめる。
みしりと音がしたが案外に頑丈なようであった。
多分。
「抜けたりしないわよ」
さっさと火羅は腰を落ち着けた。
建物の中に目を凝らす。
荒れてはいたが、造りはいいらしい。太い木を惜しげもなく使っていた。
確かに、姫様の苦手な蟲はいないようだ。
私のために払ってくれたのかな。火羅さんは言わないだろうけど。
不思議なのは、親しい存在の気配がないこと。痕跡すらないこと。
このような場所、妖が好きそうなのに――
火羅が、火の玉に息を吹きかけた。火は大きくなり、寒さを和らげてくれた。
赤い焔。
銀狐は、青白い火を操る。烏天狗は、緑色の火を操る。
太郎は、小さな火を最近熾せるようになった。
ふわりとした敷物に腰を落ち着ける。
静かな場所であった。
遠出は久し振りだと姫様は思った。
最近では……朱桜と海へ飛んだとき、季節外れの桜を見に行ったとき、太郎さんの看病をしたとき。
古寺を離れることはあまりなかった。
姫様は火羅に向き直ると、ちょこんと頭を下げた。
「今日はお招き頂きありがとうございます」
「何よあらたまって」
ぽかんとし、それから満更でもない様子で喉をごろごろ鳴らすと、
「ま、光栄に思いなさい」
扇を開き、口元を隠しながら、そう、言った。
微笑んでいるのだろうと姫様は思った。初めてあったときに抱いた人物像は、もう、消えていた。
扇をぱちんと閉じる。包みを傍らに置くと、結びを解き始めた。
「それ何ですか?」
ずっと気になっていた。
牛車の中で、大事そうに膝の上に乗せていたのだ。
訪ねても、教えてはくれなかった。
行き先と同じく、秘密だと。
「ふふーん」
蒼い布で包まれていたのは、二段重ねの黒塗りの木箱。
蓋を取り、姫様に中身を見せた。
「これ……」
「どうかな?」
「火羅さんが作ったんですか?」
「悪くはないと思うんだけどね」
ほぉと、姫様は眼を大きくした。
「美味しそう……」
姫様感心、火羅のお料理。
お弁当。見た目も匂いも良い物で。
火羅の文には、
『面白い場所を見つけたの。
今度どうかしら。二人で、ね。
料理も、こちらで用意してみます。
い、嫌ならいいのよ。無理強いするものでもないし。
でも、どうしてもというなら連れて行ってあげてもいいわ』
そんな風に書かれていた。
いいよと返事をし、日を定め、待って。
時間を決めていなかったのは、二人のうっかりである。
箸を受け取り、どれから食べようかと考える。
火羅は、杯と瓶子を二つずつ置くと、きらきらした瞳で姫様の手元を見やった。
ゆっくりと箸が動いていく。
ついばみ運び、ぱくりと頬張ると、
「美味しい」
そう、姫様は言った。
「ふん、当たり前よね」
言葉とは裏腹に、火羅の様子はほっとしたというもので。
わかりやすい人だと、姫様は苦笑した。
「え、何? 変な味した?」
途端、自信なさげになる。苦笑を浮かべたまま、姫様は首を振った。
「違う違う。これ、全部火羅さんが?」
「そうよ。私が全部作ったの」
胸を張る。
内心、火羅はかなりどきどきしていた。あの娘の舌に合うだろうかと朝眠れなかったり。姫様が苦笑したとおりのことを火羅は考えていたのだ。
誰かに食べてもらうのは、これが初めてのこと。
美味しいと言ってくれた姫様を見ながら、よかったと火羅は思った。
練習した甲斐があったというものだ。
「本当に美味しい?」
「美味しいよ」
「本当に?」
「うん」
それから、二人で、あれが欲しいこれが欲しい、それ頂戴じゃあ私それ、とやり取りして。
駆け引きが落ち着き、二人は『ゆっくりと』料理に舌鼓を打ち始めた。
「なかなかいけるじゃない。ねぇ。これなんて苦労したのよ。指切っちゃうし」
「まあ」
指先に目をやる。傷はない。人ではないのだ。些細な傷はすぐに治ってしまう。
「そうそう、その時切れた肉が入っちゃってね。取るの面倒だったから、そのまま料理しちゃった」
「……」
箸を止め、姫様はうぇぇと口を開けた。
「嘘よ」
ぺちりと叩く。
いたー。
「食べる気なくしちゃったな」
手つかずの品々を見ながら、ごちそうさまと言ってみた。
「……」
無言。
瞳が潤んだ。
「わー、嘘。冗談だから」
そんなこんなで、木箱は見事、空になった。
「ごちそうさまでした」
「いつもながらゆっくりね」
火羅の方が、少しだけ先に平らげた。少しだけだ。
姫様に合わしたのだ。
「味わってるんです」
「いいことだわ」
白湯を呑む。
もう一つの瓶子には酒が入っているようで、鼻を近づけると果物の甘い香りがした。
「私が初めて誰かに食べさせた料理だものね。本当は太郎様に食べて貰いたかったんだけど。ま、しょうがないわ。試しも必要だしね」
嘘吐き――
文で、私の嫌いな食べ物をあれこれ訊いてきたくせに。
火羅の尾が、ふさふさと揺れていた。
「今日のお誘いは、このお弁当を私に?」
このために?
違うと火羅は首を振った。
「それも大事だけどね」
書いてあったでしょう?
ここは、面白い場所だって。
古い、朽ちかけた屋敷。
垣根が崩れ庭と野が混じっている。大きな池があるが、そこに魚の影はなく、水面に月を映しているだけである。
そこかしこに生気を無くした木が白い枝を拡げていた。
人の気配も妖の気配もない寂しい場所だった。
「……ここですか?」
「ええ」
『あれ』がいたら嫌だなと姫様は思った。
白い巣を張り目を光らせる八脚のものがたくさんいそうだ。
「あ、蜘蛛はいないから」
軽く言われた。
ほっと胸を撫で下ろした。
未だに黒之丞を苦手としている姫様だった。
ずんずんと、敷物を肩に担ぎ、包みを抱え、火の玉を飛ばし進んでいく火羅に付き従う。
門らしきものをくぐり、敷地に入る。
うっすらと苔のようなものが滲みはじめた縁側に敷物をひくと、ここと指で示した。
古寺と同じく、庭が見える。
庭といっても、池と、葉を落とした冬の樹木しかないのだが。
石を置いていた跡であろう穴が、枯れ草に覆われていた。
「さぁ、座って」
手をつき、手で押し、大丈夫だろうかと姫様確かめる。
みしりと音がしたが案外に頑丈なようであった。
多分。
「抜けたりしないわよ」
さっさと火羅は腰を落ち着けた。
建物の中に目を凝らす。
荒れてはいたが、造りはいいらしい。太い木を惜しげもなく使っていた。
確かに、姫様の苦手な蟲はいないようだ。
私のために払ってくれたのかな。火羅さんは言わないだろうけど。
不思議なのは、親しい存在の気配がないこと。痕跡すらないこと。
このような場所、妖が好きそうなのに――
火羅が、火の玉に息を吹きかけた。火は大きくなり、寒さを和らげてくれた。
赤い焔。
銀狐は、青白い火を操る。烏天狗は、緑色の火を操る。
太郎は、小さな火を最近熾せるようになった。
ふわりとした敷物に腰を落ち着ける。
静かな場所であった。
遠出は久し振りだと姫様は思った。
最近では……朱桜と海へ飛んだとき、季節外れの桜を見に行ったとき、太郎さんの看病をしたとき。
古寺を離れることはあまりなかった。
姫様は火羅に向き直ると、ちょこんと頭を下げた。
「今日はお招き頂きありがとうございます」
「何よあらたまって」
ぽかんとし、それから満更でもない様子で喉をごろごろ鳴らすと、
「ま、光栄に思いなさい」
扇を開き、口元を隠しながら、そう、言った。
微笑んでいるのだろうと姫様は思った。初めてあったときに抱いた人物像は、もう、消えていた。
扇をぱちんと閉じる。包みを傍らに置くと、結びを解き始めた。
「それ何ですか?」
ずっと気になっていた。
牛車の中で、大事そうに膝の上に乗せていたのだ。
訪ねても、教えてはくれなかった。
行き先と同じく、秘密だと。
「ふふーん」
蒼い布で包まれていたのは、二段重ねの黒塗りの木箱。
蓋を取り、姫様に中身を見せた。
「これ……」
「どうかな?」
「火羅さんが作ったんですか?」
「悪くはないと思うんだけどね」
ほぉと、姫様は眼を大きくした。
「美味しそう……」
姫様感心、火羅のお料理。
お弁当。見た目も匂いも良い物で。
火羅の文には、
『面白い場所を見つけたの。
今度どうかしら。二人で、ね。
料理も、こちらで用意してみます。
い、嫌ならいいのよ。無理強いするものでもないし。
でも、どうしてもというなら連れて行ってあげてもいいわ』
そんな風に書かれていた。
いいよと返事をし、日を定め、待って。
時間を決めていなかったのは、二人のうっかりである。
箸を受け取り、どれから食べようかと考える。
火羅は、杯と瓶子を二つずつ置くと、きらきらした瞳で姫様の手元を見やった。
ゆっくりと箸が動いていく。
ついばみ運び、ぱくりと頬張ると、
「美味しい」
そう、姫様は言った。
「ふん、当たり前よね」
言葉とは裏腹に、火羅の様子はほっとしたというもので。
わかりやすい人だと、姫様は苦笑した。
「え、何? 変な味した?」
途端、自信なさげになる。苦笑を浮かべたまま、姫様は首を振った。
「違う違う。これ、全部火羅さんが?」
「そうよ。私が全部作ったの」
胸を張る。
内心、火羅はかなりどきどきしていた。あの娘の舌に合うだろうかと朝眠れなかったり。姫様が苦笑したとおりのことを火羅は考えていたのだ。
誰かに食べてもらうのは、これが初めてのこと。
美味しいと言ってくれた姫様を見ながら、よかったと火羅は思った。
練習した甲斐があったというものだ。
「本当に美味しい?」
「美味しいよ」
「本当に?」
「うん」
それから、二人で、あれが欲しいこれが欲しい、それ頂戴じゃあ私それ、とやり取りして。
駆け引きが落ち着き、二人は『ゆっくりと』料理に舌鼓を打ち始めた。
「なかなかいけるじゃない。ねぇ。これなんて苦労したのよ。指切っちゃうし」
「まあ」
指先に目をやる。傷はない。人ではないのだ。些細な傷はすぐに治ってしまう。
「そうそう、その時切れた肉が入っちゃってね。取るの面倒だったから、そのまま料理しちゃった」
「……」
箸を止め、姫様はうぇぇと口を開けた。
「嘘よ」
ぺちりと叩く。
いたー。
「食べる気なくしちゃったな」
手つかずの品々を見ながら、ごちそうさまと言ってみた。
「……」
無言。
瞳が潤んだ。
「わー、嘘。冗談だから」
そんなこんなで、木箱は見事、空になった。
「ごちそうさまでした」
「いつもながらゆっくりね」
火羅の方が、少しだけ先に平らげた。少しだけだ。
姫様に合わしたのだ。
「味わってるんです」
「いいことだわ」
白湯を呑む。
もう一つの瓶子には酒が入っているようで、鼻を近づけると果物の甘い香りがした。
「私が初めて誰かに食べさせた料理だものね。本当は太郎様に食べて貰いたかったんだけど。ま、しょうがないわ。試しも必要だしね」
嘘吐き――
文で、私の嫌いな食べ物をあれこれ訊いてきたくせに。
火羅の尾が、ふさふさと揺れていた。
「今日のお誘いは、このお弁当を私に?」
このために?
違うと火羅は首を振った。
「それも大事だけどね」
書いてあったでしょう?
ここは、面白い場所だって。