小説置き場2

山岳に寺社仏閣に両生類に爬虫類に妖怪に三国志にetcetc

あやかし姫~そのお出かけの日(11)~

 街は目の前だった。
 雑多な家々が、麓の村と変わりないものから、都と見まごうほどのぐっと立派なものまで、すぐそこにある。
 姫様が心待ちにしていた場所に、やっと着いたのだ。
 なのに……肝心の姫様は、木陰にうずくまり、太郎に背を預けていた。
「大丈夫か?」
 妖狼が、心配そうに言う。姫様は、太郎の胸に寄りかかり、身を小さくしていた。
 真っ直ぐに切り揃えられた前髪を掻き上げ、額を押さえた。
「なんだったんだろう……」
 姫様を見つめる太郎の瞳が、ちかちかりと色を揺らがせ始めた。
 姫様は、慌てて妖瞳を押さえた。
「お、おい」
「目、目、色、色」
「……むぅ」
 手を離す。
 黒い瞳
 ただただ、姫様だけを見ていた。
「なんだよ、もう、こっちは心配してんのに」
 変化の術が解けそうになるぐらいに慌て、心配してくれている。
 嬉しいが、人の目や妖の目につくと、面倒だった。
「少し、落ち着きました」
 慌てたのが逆によかったらしい。
 姫様は、立ち上がろうとした。太郎が引き留めた。 
「まだ、座ってたほうがいい。どうせ、すぐそこなんだ」
「……うん」
 妖狼の身に、姫様の小柄な身を預け続けた。とく、とく、という、規則正しい心音が聞こえる。離そうとは思わなかった。
 市女笠を外し、姫様は素顔を晒していた。
 人の流れ。
 その、視線。
 ふっと集い、離れていく。
 姫様は、一体どうして知覚がと、首を傾げた。
 知覚――姫様は、気配を読むことに、非常に長けていた。どれだけ遠くからの来訪者であろうと、どれだけ気配を消していようと、わかる。わかるのだ。
 類い希な力の持ち主だった。
 力の衰えた葉子や火羅はもちろん、鼻の利く太郎や、術に長けた黒之助だろうと、気配を読むことでは姫様に及ばない。
 頭領すら凌いでいた。
 姫様は、街の気配を読んだ。特に、理由はなかった。強いてあげるとすれば、近づいているということを、確かめたかったというところか。
 最初は、ぼやけていた。
 急に――鮮明になった。
「!? ――う、」
「どうした?」
 人の顔も、妖の姿も、すぐ近くで見ているように感じとれた。
 全てが、知らない顔だ。
 知覚の網は、さらに拡大されていった。
 街だけではない。もっともっと広い場所へと。
 それは、姫様の限度を越えていた。
 抑えようとした。
 抑えられない。
 気分が、悪い。頭が、痛い。
 拡がり続ける。
 月心の小屋が、見えた。古寺が、見えた。羽矢風の命の、社が見えた。
「い、いや……」
 瞬き出来ない。瞼が閉じられない。  
 目に貼り付いた動く景色は、さらに勢いを増していく。
 その動く景色の四隅を、黒い蝶のようなものが侵し始めた。
 四肢に、絡むものがあった。
 手のようなものが、這い始めた。
 息をつくことも出来なくなったとき――急に、闇が訪れた。
 肺に、新鮮な空気が入る。
 急だったので、姫様は、何度か咳をした。
 顔に触れているのは、太郎の掌だった。ゆっくりと離れ、闇が溶け落ち、太郎の顔が見えた。
 姫様は、自分が横になっていることに、初めて気がついた。  



「行けるか?」
「うん」
 太郎に支えられながら、姫様は立ち上がった。
 考えても、きりのないことだった。
 有り体に言えば、無駄なのだ、今のままでは。知らないことが多すぎた。
「知覚の術が、か」
 自分が見た物、感じた物を、妖狼に話した。太郎が助けてくれたことに、礼を言った。
「目を覆ったのは、よかったんだな」
 姫様が目を見開いたままになった。これ以上はないというくらいに。
 担ぎ、横にしたものの、他になにをすればいいかわからなかった。
 咄嗟だった。瞬きしないことに気がつき、目を覆った。
「初めてだよ、あんなにたくさんのものを感じたの……恐かった」
 ぎゅっと、自分の胸を押さえる。
 ぎゅっと、妖狼の手を握る。
「なぁ」
「大丈夫、かな。ちょっと、疲れてたのかな」
「疲れてはいるだろうが……」
 太郎の言わんとすることは、わかっていた。
「せっかくここまで来たんだもの、絶対に帰らないから」
「でも」
「……どうせ、何もしようがないんだもの。私も、私達も」
 姫様の声が、不意に、沈んだ。
「……」
「違う? 考えても、どうしようもないよね」
 大仰に、肩を竦める。
「ほら、太郎さん、そんな顔しないで。今は、大丈夫なんだから」
「俺は……」
「ほらほら、ほらほらほら、せっかく、二人っきりにしてくれたんだし、ね」
「二人、か」
 そうだな――してくれた?
「してくれたって――誰が?」
「ああ、火羅さんが、気を利かせてくれて」
 昨日のことを思い出す。そういえば、火羅の言葉で、二人で行くことになったのだ。
「……あいつ、いい奴だな」
 その言い方が、とてもしみじみとしたものだったので、姫様は、くすと微笑んだ。
「火羅さん、私達のこと、応援してくれてるんだよ」
「そう、なのか? そうなったのか?」
 確か、自分に言い寄っていたような。
 二人で助け出してから、それはなくなった。
 かわりと言ってはなんだが、姫様をずっと見ているようになった。
 口調は高圧的だが、どこか、弱々しく見ていた。
 それは、感じていた。
「なったみたい」
 姫様が、元に戻った。そう、太郎は思った。これなら、行けそうだ。
「あ、さっきの、あんまり嬉しくて、とか?」
「考えても、わかんねぇ、か」
「だって……私、自分のことほとんど知らないよ?」
 姫様は、微笑みながら、言った。
「……行こうか」  
 その言葉を、姫様は望んでいるのだろう。
 ずっと傍にいた者の勘だ。姫様は頷いた。



「美味しいー」
 子供のようにはしゃぎながら、甘い甘いきな粉餅を姫様は頬張っていた。
 空っぽの皿を見ながら、太郎はゆっくりゆっくり食べる姫様を待っていた。
 街に、入った。
 その時の姫様の瞳の輝きを、太郎はこの先、一生忘れないだろう。
 自分だけが、見ることが出来たのだ。
 来てよかったと、心底思った。
 街に着いて早々姫様がしたことは、目に付いた甘味処に立ち寄ることだった。
 そろそろ昼餉の時間だが、姫様はまず、甘味を選んだのだ。
「美味しい、美味しいよー」
 ほっぺが落ちそうと、姫様は赤みが取れない頬を抑える。
 嬉しそうだった。
 気分が高揚しているのが見て取れた。
「おかわ……駄目駄目、あんまし食べると、お昼が食べられないよ! わかった!?」
「え、うん、わかった」
「でも、美味しいー」
 長椅子に座り、足をぶらぶらさせる。
 その足下を、小さな鼠が走った。ちょろとうろつき、火が宿る尾を振った。
 額に、三つ目の眼がある。その紅い眼は、せわしなく周囲の様子を窺っていた。
 太郎は、見えないふりをした。
 姫様は、はむはむと指に残ったきな粉を舐めていた。
 妖鼠は、姫様の足下に転がっていたきな粉餅を拾うと、どこかへ消えていった。
「はぁ……満足。茶屋のみたらし団子も美味しいけど、ここのきな粉餅も美味しいね。こう、ね、何て言うのかな、う、うーん……とにかく、美味しい!」
 くかと、太郎は嗤った。
 姫様は、本当に美味しそうに食べる。
 少しずつ、少しずつ、愛おしむように。 
「わざと落としただろう?」
「さぁ」
 姫様は、名残惜しそうに空の皿を見ながら、さっきの小妖、どこに行ったのかなと考えた。
「広げるな」
「え?」
「さっき、危ない目にあったばかりだろうが。今日一日、知覚は広げるな」
 言い方は、厳しい。厳しいが、心配しているのが、言葉の一つ一つに滲み出ていた。
「……そうだね。つい、癖で」
 当たり前のように使えた。特に、誰かに教わったわけではない。
 気配を読むことは、習慣になっていた。
「どうするんだ、これから」
 店の主に、銅銭を支払う。麓の茶屋よりも、ずっと値は張った。
「薬の原料を比較しましょうか」     
 一応、薬の原料を揃えることを目的としてここまで来たのだ。
 まず、やるべきことはそれだろう。
「私、頭領のようにやれるかな」
「その前に……」
「はい?」
「ほっぺにきな粉ついてる」
 太郎の指先が、ついと頬に触れた。
 んーと言うと、
「ありがとう」
 そう、姫様は言った。
 何も考えずに触れた太郎は、気恥ずかしげに顔を背け、自分の指先に目をやった。
 姫様の肌、滑らかだと思った。