小説置き場2

山岳に寺社仏閣に両生類に爬虫類に妖怪に三国志にetcetc

無銘(タイトル募集中)

「何だその顔は?」
 心配そうに覗き込んだ幼子の顔を瞳に映し、十兵衛は苦虫を噛み潰したような顔になる。
「汚い」
 幼子の顔がみるみるさらに汚れていく。涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。
 眠っていないのか、目の下に薄黒いくまがある。それも腹立たしい。
「……泣くな、面倒な」
 幼子は十兵衛の言葉を聞かず、五月蠅く騒がしく泣き続ける。
 喧しくて煩わしくて堪らない。
「おゆら、静かにしろ」
 おゆらが何か言った。
 何か言ったのだろう。
 小さな口を動かしていたが、嗚咽混じりでよく聞き取れなかった。
 口で黙らせるのを諦め、いつものように腕で黙らせようと考える。
 幼子の脇に腕を入れ、いつものように膝の上に乗せる。
 幼子が言いたいことは、そこでゆっくりと聞けばいい。
「あん?」
 上体を起こし、胡座を組んで、左腕を幼子の脇に差し込む。
 そこまではいい。いつものことだ。
 右腕が――いつまでたっても、幼子の身体に触れないのだ。
「おいおい」
 右腕が動く感覚はある。
 幼子に触る感覚がない。
 一体どうしたことだと思う。
 おゆらがわんと甲高く泣く。
「ちょっと待ってろ、すぐに」
 そこで十兵衛は気がついた。
 はたと気づいて、苦笑した。
「利き腕がなくなってるじゃないか」
 右肘の先が綺麗にない。
 隻眼の次は隻腕なのか。
 これでは抱き上げられないはずだなと思った。



「何処へ行く?」
 小屋の入り口に立った幼子の、肩を落としたその背中。
 うっすら目を開けた十兵衛は、低い声をぶつけやった。
「……お世話になりました」
「怪我人を置いていくのか?」
「……」
「薄情者」 
 おゆらが唇を噛む。その仕草が友と似ていた。
 あれも、言葉に詰まるとよく唇を噛んでいた。
「わ、私のせいで、右腕が」
「ん――自分のせいだろう」
「私を庇ってです!」
「思い上がるなよ」
 十兵衛がまた、声を低くした。
「これは自分の未熟な腕が原因だ。それ以上でもそれ以下でもない」
「……う」
「泣くな」
 泣き声も泣き顔も嫌いだ。
 嫌いだから、見たくない。
「おゆら、煙草が吸いたい」
 私の煙管はと問うと、弾かれたように動いたおゆらが、がさごそと荷物を漁った。
 申し訳なさそうに、雁首と吸い口を繋ぐ管が真っ二つになった煙管を差し出した。
「この煙管じゃ吸えないな」
 懐にいつも入れていた銀細工の煙管。
 心之臓の代わりになってくれたのか。
「この煙管では吸えません」
「だから、泣くな」
 

 
 吸えなくなった煙管を左手で弄りながら、どうしたものかと考える。
 隻眼になったときも困ったものだが、隻腕になった方がもっと困る。
 状況が状況なのである。
 逃げて戦っての毎日だ。
 隻腕で刀を振るうことに、慣れる時間はあるのだろうか。
 あの尾張麒麟児が、私の右腕一本で満足するだろうか。
「利き腕だったのに」
「もう、いいですよ」
「おう?」
 何がもういいのだろうと十兵衛は思った。
 炭小屋の屋根の上から見下ろすと、幼子が荷物なしに突っ立っていた。
「もう十分です」
「何が十分だ?」
「今までありがとうございました」
 おゆらが見事な礼をする。躾はそれなりに施してきたつもりだ。
 十兵衛自身は礼儀作法に頓着せず、無頼にぶらりと生きてきた。
「これより一人で生きていきます」
「駄目」
「いやです」
「駄目」
「いやです!」
「無理だ」 
「何にも関係ないんです! 私とは何にも関係ないんです! 赤の他人なんです。もういいです! 十兵衛様が傷つくのは、もう嫌です!」
「……赤の他人か?」
 十兵衛が尋ねた。
「本当に、そうか?」
 おゆらは何も答えない。
 返事の代わりに踵を翻し、森に走って行ってしまった。
「裸足じゃないか」
 
 

 友がいた。
 病弱で年下のくせして、姉御面をする友だった。
 友は赤子を生んだ。父親は知らない。女の赤子だった。
 友と赤子は襲われた。
 理由は知らない。友を守りたかったから守ってやった。
 友が死ぬ間際に、赤子を託された。
 理由はいらない。友が託したからうんと頷いてやった。
 赤子には物心つく頃から友である母親のことを教え、自分は母親ではないと教えてきた。
 おゆらの身体には傷がある。守りきれずに生じた傷の一つ一つを、十兵衛は覚えていた。
「赤の他人だ」
 血は一滴も通っていない。
 母親と友人なだけであり、子供と十兵衛は関係ない。
 おゆらは、母親のことを知っていても、母親のことを覚えていない。
「それがどうした、問題あるのか」
「十兵衛様」
 だから、幼子の泣き顔は心底嫌いなのた。
 それなのに、友と同じようにすぐに泣く。
「よかったな、私の右腕一つで済んで」
「……よくない!」
「おゆらの命が無事ならそれでいいさ」
 帰るぞと言う。
 背を向けて、中腰になる。
「乗れ」
「いや」
「乗れ」
 結局おゆらの小さな身体は、十兵衛の背中に預けられた。
 おゆらが夢の中で、お母さんと言った。
 十兵衛はもくもくと裸足で歩いていた。