無銘(タイトル募集中)
「何だその顔は?」
心配そうに覗き込んだ幼子の顔を瞳に映し、十兵衛は苦虫を噛み潰したような顔になる。
「汚い」
幼子の顔がみるみるさらに汚れていく。涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。
眠っていないのか、目の下に薄黒いくまがある。それも腹立たしい。
「……泣くな、面倒な」
幼子は十兵衛の言葉を聞かず、五月蠅く騒がしく泣き続ける。
喧しくて煩わしくて堪らない。
「おゆら、静かにしろ」
おゆらが何か言った。
何か言ったのだろう。
小さな口を動かしていたが、嗚咽混じりでよく聞き取れなかった。
口で黙らせるのを諦め、いつものように腕で黙らせようと考える。
幼子の脇に腕を入れ、いつものように膝の上に乗せる。
幼子が言いたいことは、そこでゆっくりと聞けばいい。
「あん?」
上体を起こし、胡座を組んで、左腕を幼子の脇に差し込む。
そこまではいい。いつものことだ。
右腕が――いつまでたっても、幼子の身体に触れないのだ。
「おいおい」
右腕が動く感覚はある。
幼子に触る感覚がない。
一体どうしたことだと思う。
おゆらがわんと甲高く泣く。
「ちょっと待ってろ、すぐに」
そこで十兵衛は気がついた。
はたと気づいて、苦笑した。
「利き腕がなくなってるじゃないか」
右肘の先が綺麗にない。
隻眼の次は隻腕なのか。
これでは抱き上げられないはずだなと思った。
「何処へ行く?」
小屋の入り口に立った幼子の、肩を落としたその背中。
うっすら目を開けた十兵衛は、低い声をぶつけやった。
「……お世話になりました」
「怪我人を置いていくのか?」
「……」
「薄情者」
おゆらが唇を噛む。その仕草が友と似ていた。
あれも、言葉に詰まるとよく唇を噛んでいた。
「わ、私のせいで、右腕が」
「ん――自分のせいだろう」
「私を庇ってです!」
「思い上がるなよ」
十兵衛がまた、声を低くした。
「これは自分の未熟な腕が原因だ。それ以上でもそれ以下でもない」
「……う」
「泣くな」
泣き声も泣き顔も嫌いだ。
嫌いだから、見たくない。
「おゆら、煙草が吸いたい」
私の煙管はと問うと、弾かれたように動いたおゆらが、がさごそと荷物を漁った。
申し訳なさそうに、雁首と吸い口を繋ぐ管が真っ二つになった煙管を差し出した。
「この煙管じゃ吸えないな」
懐にいつも入れていた銀細工の煙管。
心之臓の代わりになってくれたのか。
「この煙管では吸えません」
「だから、泣くな」
吸えなくなった煙管を左手で弄りながら、どうしたものかと考える。
隻眼になったときも困ったものだが、隻腕になった方がもっと困る。
状況が状況なのである。
逃げて戦っての毎日だ。
隻腕で刀を振るうことに、慣れる時間はあるのだろうか。
あの尾張の麒麟児が、私の右腕一本で満足するだろうか。
「利き腕だったのに」
「もう、いいですよ」
「おう?」
何がもういいのだろうと十兵衛は思った。
炭小屋の屋根の上から見下ろすと、幼子が荷物なしに突っ立っていた。
「もう十分です」
「何が十分だ?」
「今までありがとうございました」
おゆらが見事な礼をする。躾はそれなりに施してきたつもりだ。
十兵衛自身は礼儀作法に頓着せず、無頼にぶらりと生きてきた。
「これより一人で生きていきます」
「駄目」
「いやです」
「駄目」
「いやです!」
「無理だ」
「何にも関係ないんです! 私とは何にも関係ないんです! 赤の他人なんです。もういいです! 十兵衛様が傷つくのは、もう嫌です!」
「……赤の他人か?」
十兵衛が尋ねた。
「本当に、そうか?」
おゆらは何も答えない。
返事の代わりに踵を翻し、森に走って行ってしまった。
「裸足じゃないか」
友がいた。
病弱で年下のくせして、姉御面をする友だった。
友は赤子を生んだ。父親は知らない。女の赤子だった。
友と赤子は襲われた。
理由は知らない。友を守りたかったから守ってやった。
友が死ぬ間際に、赤子を託された。
理由はいらない。友が託したからうんと頷いてやった。
赤子には物心つく頃から友である母親のことを教え、自分は母親ではないと教えてきた。
おゆらの身体には傷がある。守りきれずに生じた傷の一つ一つを、十兵衛は覚えていた。
「赤の他人だ」
血は一滴も通っていない。
母親と友人なだけであり、子供と十兵衛は関係ない。
おゆらは、母親のことを知っていても、母親のことを覚えていない。
「それがどうした、問題あるのか」
「十兵衛様」
だから、幼子の泣き顔は心底嫌いなのた。
それなのに、友と同じようにすぐに泣く。
「よかったな、私の右腕一つで済んで」
「……よくない!」
「おゆらの命が無事ならそれでいいさ」
帰るぞと言う。
背を向けて、中腰になる。
「乗れ」
「いや」
「乗れ」
結局おゆらの小さな身体は、十兵衛の背中に預けられた。
おゆらが夢の中で、お母さんと言った。
十兵衛はもくもくと裸足で歩いていた。
心配そうに覗き込んだ幼子の顔を瞳に映し、十兵衛は苦虫を噛み潰したような顔になる。
「汚い」
幼子の顔がみるみるさらに汚れていく。涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。
眠っていないのか、目の下に薄黒いくまがある。それも腹立たしい。
「……泣くな、面倒な」
幼子は十兵衛の言葉を聞かず、五月蠅く騒がしく泣き続ける。
喧しくて煩わしくて堪らない。
「おゆら、静かにしろ」
おゆらが何か言った。
何か言ったのだろう。
小さな口を動かしていたが、嗚咽混じりでよく聞き取れなかった。
口で黙らせるのを諦め、いつものように腕で黙らせようと考える。
幼子の脇に腕を入れ、いつものように膝の上に乗せる。
幼子が言いたいことは、そこでゆっくりと聞けばいい。
「あん?」
上体を起こし、胡座を組んで、左腕を幼子の脇に差し込む。
そこまではいい。いつものことだ。
右腕が――いつまでたっても、幼子の身体に触れないのだ。
「おいおい」
右腕が動く感覚はある。
幼子に触る感覚がない。
一体どうしたことだと思う。
おゆらがわんと甲高く泣く。
「ちょっと待ってろ、すぐに」
そこで十兵衛は気がついた。
はたと気づいて、苦笑した。
「利き腕がなくなってるじゃないか」
右肘の先が綺麗にない。
隻眼の次は隻腕なのか。
これでは抱き上げられないはずだなと思った。
「何処へ行く?」
小屋の入り口に立った幼子の、肩を落としたその背中。
うっすら目を開けた十兵衛は、低い声をぶつけやった。
「……お世話になりました」
「怪我人を置いていくのか?」
「……」
「薄情者」
おゆらが唇を噛む。その仕草が友と似ていた。
あれも、言葉に詰まるとよく唇を噛んでいた。
「わ、私のせいで、右腕が」
「ん――自分のせいだろう」
「私を庇ってです!」
「思い上がるなよ」
十兵衛がまた、声を低くした。
「これは自分の未熟な腕が原因だ。それ以上でもそれ以下でもない」
「……う」
「泣くな」
泣き声も泣き顔も嫌いだ。
嫌いだから、見たくない。
「おゆら、煙草が吸いたい」
私の煙管はと問うと、弾かれたように動いたおゆらが、がさごそと荷物を漁った。
申し訳なさそうに、雁首と吸い口を繋ぐ管が真っ二つになった煙管を差し出した。
「この煙管じゃ吸えないな」
懐にいつも入れていた銀細工の煙管。
心之臓の代わりになってくれたのか。
「この煙管では吸えません」
「だから、泣くな」
吸えなくなった煙管を左手で弄りながら、どうしたものかと考える。
隻眼になったときも困ったものだが、隻腕になった方がもっと困る。
状況が状況なのである。
逃げて戦っての毎日だ。
隻腕で刀を振るうことに、慣れる時間はあるのだろうか。
あの尾張の麒麟児が、私の右腕一本で満足するだろうか。
「利き腕だったのに」
「もう、いいですよ」
「おう?」
何がもういいのだろうと十兵衛は思った。
炭小屋の屋根の上から見下ろすと、幼子が荷物なしに突っ立っていた。
「もう十分です」
「何が十分だ?」
「今までありがとうございました」
おゆらが見事な礼をする。躾はそれなりに施してきたつもりだ。
十兵衛自身は礼儀作法に頓着せず、無頼にぶらりと生きてきた。
「これより一人で生きていきます」
「駄目」
「いやです」
「駄目」
「いやです!」
「無理だ」
「何にも関係ないんです! 私とは何にも関係ないんです! 赤の他人なんです。もういいです! 十兵衛様が傷つくのは、もう嫌です!」
「……赤の他人か?」
十兵衛が尋ねた。
「本当に、そうか?」
おゆらは何も答えない。
返事の代わりに踵を翻し、森に走って行ってしまった。
「裸足じゃないか」
友がいた。
病弱で年下のくせして、姉御面をする友だった。
友は赤子を生んだ。父親は知らない。女の赤子だった。
友と赤子は襲われた。
理由は知らない。友を守りたかったから守ってやった。
友が死ぬ間際に、赤子を託された。
理由はいらない。友が託したからうんと頷いてやった。
赤子には物心つく頃から友である母親のことを教え、自分は母親ではないと教えてきた。
おゆらの身体には傷がある。守りきれずに生じた傷の一つ一つを、十兵衛は覚えていた。
「赤の他人だ」
血は一滴も通っていない。
母親と友人なだけであり、子供と十兵衛は関係ない。
おゆらは、母親のことを知っていても、母親のことを覚えていない。
「それがどうした、問題あるのか」
「十兵衛様」
だから、幼子の泣き顔は心底嫌いなのた。
それなのに、友と同じようにすぐに泣く。
「よかったな、私の右腕一つで済んで」
「……よくない!」
「おゆらの命が無事ならそれでいいさ」
帰るぞと言う。
背を向けて、中腰になる。
「乗れ」
「いや」
「乗れ」
結局おゆらの小さな身体は、十兵衛の背中に預けられた。
おゆらが夢の中で、お母さんと言った。
十兵衛はもくもくと裸足で歩いていた。