あやかし姫~跡目争い(8)~
火羅は血の海に浸かっていた。
鬼の血と妖狼の血が混じった海だ。
肩を貸し、支えてていた太郎に、足を払われたのだ。
「どうして……」
そう呟かずにはいられなかった。
見捨てられたのだと思った。足手まといにしかならないから、見捨てられた。
太郎も一緒に血の海に浸っている。
彩花にもらった衣が赤い。
「早く立ってくれよ」
金色の棒を携えた男は、星熊童子を引きずり、二人を従えていた。
太郎と目が合った。怖ましい妖瞳。笑っている。
何と迅く掌を返すのだろう。同じだ。真紅の妖狼の姫君であったころと、同じだ。
信じれば裏切られる。父親とて敵になる。火羅が逃げ出した世界の住人。太郎も、そうだったのか。
「臭い消し」
太郎が、そう口を動かした。
金色の棒を担いだ男がどうしようもなく恐ろしくて失禁したことを見抜かれていたのだ。
火羅は、太郎を疑った己を恥じた。
そんなくだらない男を、あの子が好きになるはずがないのにと。
「まずいな……この場所、見覚えがあるぞ」
岩壁。燭台。広い廊下。茨木童子のいる場所に近づいている。そこには、葉子がいるはずだ。
「何とかなりませんか。葉子さんは」
葉子は戦えない。
火羅の為に、尾を失い、黒髪を失い、片腕を失ったのだ。
姫様の為だと笑っていたが、紛うことなく火羅の為だった。そんな葉子が嫌いではなかった。気丈だから、火羅のようには怯えていないだろう。同じ力を失ったはずなのに、これほど差があるのは、誇りを砕かれたか砕かれなかったかの違いだろうか。
あんな母親がいて、あの子は幸せだと思う。
「わかってる、わかってるが」
太郎を立たせる。
脚が使えないのだ。
悔しそうだった。
わざとゆっくりと立たせた。
「妖狼め」
火羅は、苛立たしげな声に背筋を凍らせた。声を発するのではなく、唇を動かすのみで会話を行った。それでも、聞かれていたのか。
金色の棒の男は、腕組みをして、骸を見下ろしていた。
「南は仕事が荒すぎる。私の部下になる者を殺しすぎだ」
南という言葉を聞いて、自分達ではないのだと火羅はほっとした。
と同時に、部下という言葉に引っ掛かった。
「部下になる?」
話をして時間を稼ごうと思った。
戦えなくても出来るだけのことはしよう。勿論、朱桜の為ではなく、あの子や太郎や葉子の為にだ。
「そうさ、私が酒呑童子の名を継いだ暁には……」
問いに反応した。気が昂ぶっているのだろう。案外に饒舌なのかもしれない。
「名を継ぐ? あの大妖を殺すつもり? 本気なの? 本気でそんなことを考えているの?」
酒呑童子の、大妖と呼ばれる者達の怖ろしさは、身に滲みている。
会見を済ませた後に吐いたこともあった。
背中の火傷が疼き始める。
恐ろしさを刻まれているが故に、火羅はあの女に屈服したのだ。大妖を降したあの女の玩具に成り下がり、夜を淫らに喘ぐのだ。
星熊を落とし、男は振り返った。
布の隙間から、憎しみに彩られた瞳が見えた。
「ああ、歴史は繰り返す。父は、先代を殺して王となった。だから私も、同じ事をやるのさ」
「……酒呑童子の子は、一人だけよ」
酒呑童子の子供は、あの忌々しい朱桜だけだ。罪を贖おうとしても一顧だにしない、彩花の寵愛をいいことに我が侭に残酷に振る舞う、幼さという小狡い皮を被った童だけだ。
「いや、違う。王は、私を、母を、捨てた。母がどのような想いを抱いて死んでいったか、私がどのように生きてきたか……朱桜という愛娘、人と鬼の混じり子、私と何が違うというのだ」
それは呪詛だった。
寂しい呪詛だった。
「なぁ、答えろ。お前、王の子は一人と言ったな。では、私は何なのだ! 私はここにいる、ここにこうして立っている!」
鈍い痛み。
倒れ、背中を丸めていた。
殴られたらしい。火羅は、左目を押さえた。痛みの元はそこだった。
暴力の奏でる耳障りな音。誰かが覆い被さっている。太郎だ。身を呈して庇ってくれていた。
太腿の傷を踏みにじられたときも、悲鳴の一つもあげることなく、耐えていた。
「太郎様! 太郎様!」
左目を押さえながら火羅は叫んだ。
「……姫様に、頼まれたからな」
苦笑いしながら、太郎は血を吐いた。
このままでは死んでしまうと思った。
「嫌、駄目!」
「……ああ、いけない。いけないな。殺してしまうところだった。君達を殺しても、意味はないのに」
男が離れた。金色の棒には汚れ一つない。拳が濡れている。何度も殴りつけたのだろう。
「太郎様、太郎様、太郎様」
身を揺すった。反応しなかった。肉塊のようだった。
「殺してしまったのか? すまないね。まったく、私も荒いものだ。他人の噂はするもんじゃない」
死ぬわけがない。
死ぬわけがないのだ。
「駄目よ……死んでは、駄目。生きて」
心臓は動いていた。生きている。血が、息を塞いでいた。
頭を膝の上に乗せ、太郎の口を吸い、それから血を吐いた。
二度繰り返すと、太郎の呼吸は幾分楽になった。
「太郎様……」
幽かに上下する、胸に縋った。もっと早く再会出来ていたらと思った。ほんの僅かな差だったのだ。信頼できる強い夫として、寄り添うことが出来たのに。
きっと太郎になら、背中の火傷を見せても平気だろう。
陰謀に塗り潰された暗闇の中、一筋の灯火になってくれただろう。
それまでの働きを丸ごと否定され、過去の亡霊に苛まれ、生き人形に堕とされて、絶望に打ち拉がれることも、悦楽に狂うこともなかっただろう。
もう一度、口を吸った。
三人目、いや、四人目だった。
太郎を助けるため。二度目までは、そうだ。三度目は甘い罪の意識があった。昨夜の火照りがさらに甘美なものにした。背徳感が、堪らない。
視線を感じ、火羅は頭を上げた。
白い狼がいた。
小さな女童を背負っている。
その横に――会いたくて、会いたくない、人がいた。
一瞬で、全てが消し飛んだ。甘い気持ちなど、微塵も残らなかった。
「何が、どうなっているのか、わかりませんが……火羅さん、あとできちんと説明して下さいね」
朱桜を抱えると、少し下がった。困っているように見えた。
棒を握った手が、震えている。喜んでいるように思えた。
「多分、そうなのでしょうが……厭ですね、私は」
「これは、違うの、ご、ごめんなさい」
謝っていた。太郎に想いがあるわけではない。そう、これは、助けてくれたお礼に、ただ、それだけで、貴方の想いに泥を塗るような真似をするわけが。
細首を傾げ、にこりとした。とても嫌な笑みだった。よく見ると、全身、妖狼の血で真っ赤だった。
あの女の影がちらついた。
「朱桜――!」
彩花が掌を翳すと、白刃が真っ直ぐに走った。
顎を広げている。
赤々と濡れた、牙と舌。
金色の棒が伸び、深々と喉に刺さり、背中を貫いた。
白刃は、棒で縫われ、宙に固定されても、地面を蹴ろうとした。
次第に痙攣し、動かなくなった。
金色の棒は、式神を殺すだけでは飽きたらず、朱桜を抱いた少女の頬も掠めていた。
長い黒髪を靡かせながら、何事もなかったかのように、彩花はそこに立っていた。
「この二人の知り合いなのかな……その子を、酒呑童子の愛し子を、西の鬼の姫君を、朱桜を、私に渡してくれないか」
「嫌です」
落ち着いていた。式神が、泥のように消えた。姫様の掌に浮かんでいた白刃の字も消えた。
「今は、少し、罪滅ぼしをしたい気分なんだ。朱桜を渡せば、君に、君達に、これ以上手出しはしない」
「私は、朱桜ちゃんの姉です。姉が妹を守るのは当たり前でしょう」
どうして落ち着いていられるのだろうか。
白刃は消えた。太郎は膝の上で意識を失っている。火羅は震え怯えるだけで何も出来ない。何があったのか知らないが、朱桜も戦える状態ではなさそうだ。
欲しいと言うのだから、くれてやればいいのにと、火羅は思った。
姉妹といっても、義理の、無理矢理に結ばされた契りではないか。
私達よりもその女童の方がいいのか。
このままでは皆死んでしまう。
朱桜を捧げて、安穏な暮らしに戻ろう。
まだ、そんなに長い時を過ごしたわけではないけれど、とても心地が良いものだった。
「貴方は……そういう人よね」
だからこそ、大妖に刃向かってでも、助けてくれた。
そんな彩花は、一瞬でも罪深い想いを抱いた私を許してくれるだろうか。
彩花の手に掛かるなら、悪くなかった
「姉? 君は朱桜の、義理の姉なのか?」
「ええ。契りを、結びました」
笑い声をあげながら、顔を隠していた布を剥いた。
「奇遇だね……私も、その子の姉なんだよ」
秀麗な顔をした女は、額に角を生やしていた。
「義理ではなく……真の、姉だ」
鬼の血と妖狼の血が混じった海だ。
肩を貸し、支えてていた太郎に、足を払われたのだ。
「どうして……」
そう呟かずにはいられなかった。
見捨てられたのだと思った。足手まといにしかならないから、見捨てられた。
太郎も一緒に血の海に浸っている。
彩花にもらった衣が赤い。
「早く立ってくれよ」
金色の棒を携えた男は、星熊童子を引きずり、二人を従えていた。
太郎と目が合った。怖ましい妖瞳。笑っている。
何と迅く掌を返すのだろう。同じだ。真紅の妖狼の姫君であったころと、同じだ。
信じれば裏切られる。父親とて敵になる。火羅が逃げ出した世界の住人。太郎も、そうだったのか。
「臭い消し」
太郎が、そう口を動かした。
金色の棒を担いだ男がどうしようもなく恐ろしくて失禁したことを見抜かれていたのだ。
火羅は、太郎を疑った己を恥じた。
そんなくだらない男を、あの子が好きになるはずがないのにと。
「まずいな……この場所、見覚えがあるぞ」
岩壁。燭台。広い廊下。茨木童子のいる場所に近づいている。そこには、葉子がいるはずだ。
「何とかなりませんか。葉子さんは」
葉子は戦えない。
火羅の為に、尾を失い、黒髪を失い、片腕を失ったのだ。
姫様の為だと笑っていたが、紛うことなく火羅の為だった。そんな葉子が嫌いではなかった。気丈だから、火羅のようには怯えていないだろう。同じ力を失ったはずなのに、これほど差があるのは、誇りを砕かれたか砕かれなかったかの違いだろうか。
あんな母親がいて、あの子は幸せだと思う。
「わかってる、わかってるが」
太郎を立たせる。
脚が使えないのだ。
悔しそうだった。
わざとゆっくりと立たせた。
「妖狼め」
火羅は、苛立たしげな声に背筋を凍らせた。声を発するのではなく、唇を動かすのみで会話を行った。それでも、聞かれていたのか。
金色の棒の男は、腕組みをして、骸を見下ろしていた。
「南は仕事が荒すぎる。私の部下になる者を殺しすぎだ」
南という言葉を聞いて、自分達ではないのだと火羅はほっとした。
と同時に、部下という言葉に引っ掛かった。
「部下になる?」
話をして時間を稼ごうと思った。
戦えなくても出来るだけのことはしよう。勿論、朱桜の為ではなく、あの子や太郎や葉子の為にだ。
「そうさ、私が酒呑童子の名を継いだ暁には……」
問いに反応した。気が昂ぶっているのだろう。案外に饒舌なのかもしれない。
「名を継ぐ? あの大妖を殺すつもり? 本気なの? 本気でそんなことを考えているの?」
酒呑童子の、大妖と呼ばれる者達の怖ろしさは、身に滲みている。
会見を済ませた後に吐いたこともあった。
背中の火傷が疼き始める。
恐ろしさを刻まれているが故に、火羅はあの女に屈服したのだ。大妖を降したあの女の玩具に成り下がり、夜を淫らに喘ぐのだ。
星熊を落とし、男は振り返った。
布の隙間から、憎しみに彩られた瞳が見えた。
「ああ、歴史は繰り返す。父は、先代を殺して王となった。だから私も、同じ事をやるのさ」
「……酒呑童子の子は、一人だけよ」
酒呑童子の子供は、あの忌々しい朱桜だけだ。罪を贖おうとしても一顧だにしない、彩花の寵愛をいいことに我が侭に残酷に振る舞う、幼さという小狡い皮を被った童だけだ。
「いや、違う。王は、私を、母を、捨てた。母がどのような想いを抱いて死んでいったか、私がどのように生きてきたか……朱桜という愛娘、人と鬼の混じり子、私と何が違うというのだ」
それは呪詛だった。
寂しい呪詛だった。
「なぁ、答えろ。お前、王の子は一人と言ったな。では、私は何なのだ! 私はここにいる、ここにこうして立っている!」
鈍い痛み。
倒れ、背中を丸めていた。
殴られたらしい。火羅は、左目を押さえた。痛みの元はそこだった。
暴力の奏でる耳障りな音。誰かが覆い被さっている。太郎だ。身を呈して庇ってくれていた。
太腿の傷を踏みにじられたときも、悲鳴の一つもあげることなく、耐えていた。
「太郎様! 太郎様!」
左目を押さえながら火羅は叫んだ。
「……姫様に、頼まれたからな」
苦笑いしながら、太郎は血を吐いた。
このままでは死んでしまうと思った。
「嫌、駄目!」
「……ああ、いけない。いけないな。殺してしまうところだった。君達を殺しても、意味はないのに」
男が離れた。金色の棒には汚れ一つない。拳が濡れている。何度も殴りつけたのだろう。
「太郎様、太郎様、太郎様」
身を揺すった。反応しなかった。肉塊のようだった。
「殺してしまったのか? すまないね。まったく、私も荒いものだ。他人の噂はするもんじゃない」
死ぬわけがない。
死ぬわけがないのだ。
「駄目よ……死んでは、駄目。生きて」
心臓は動いていた。生きている。血が、息を塞いでいた。
頭を膝の上に乗せ、太郎の口を吸い、それから血を吐いた。
二度繰り返すと、太郎の呼吸は幾分楽になった。
「太郎様……」
幽かに上下する、胸に縋った。もっと早く再会出来ていたらと思った。ほんの僅かな差だったのだ。信頼できる強い夫として、寄り添うことが出来たのに。
きっと太郎になら、背中の火傷を見せても平気だろう。
陰謀に塗り潰された暗闇の中、一筋の灯火になってくれただろう。
それまでの働きを丸ごと否定され、過去の亡霊に苛まれ、生き人形に堕とされて、絶望に打ち拉がれることも、悦楽に狂うこともなかっただろう。
もう一度、口を吸った。
三人目、いや、四人目だった。
太郎を助けるため。二度目までは、そうだ。三度目は甘い罪の意識があった。昨夜の火照りがさらに甘美なものにした。背徳感が、堪らない。
視線を感じ、火羅は頭を上げた。
白い狼がいた。
小さな女童を背負っている。
その横に――会いたくて、会いたくない、人がいた。
一瞬で、全てが消し飛んだ。甘い気持ちなど、微塵も残らなかった。
「何が、どうなっているのか、わかりませんが……火羅さん、あとできちんと説明して下さいね」
朱桜を抱えると、少し下がった。困っているように見えた。
棒を握った手が、震えている。喜んでいるように思えた。
「多分、そうなのでしょうが……厭ですね、私は」
「これは、違うの、ご、ごめんなさい」
謝っていた。太郎に想いがあるわけではない。そう、これは、助けてくれたお礼に、ただ、それだけで、貴方の想いに泥を塗るような真似をするわけが。
細首を傾げ、にこりとした。とても嫌な笑みだった。よく見ると、全身、妖狼の血で真っ赤だった。
あの女の影がちらついた。
「朱桜――!」
彩花が掌を翳すと、白刃が真っ直ぐに走った。
顎を広げている。
赤々と濡れた、牙と舌。
金色の棒が伸び、深々と喉に刺さり、背中を貫いた。
白刃は、棒で縫われ、宙に固定されても、地面を蹴ろうとした。
次第に痙攣し、動かなくなった。
金色の棒は、式神を殺すだけでは飽きたらず、朱桜を抱いた少女の頬も掠めていた。
長い黒髪を靡かせながら、何事もなかったかのように、彩花はそこに立っていた。
「この二人の知り合いなのかな……その子を、酒呑童子の愛し子を、西の鬼の姫君を、朱桜を、私に渡してくれないか」
「嫌です」
落ち着いていた。式神が、泥のように消えた。姫様の掌に浮かんでいた白刃の字も消えた。
「今は、少し、罪滅ぼしをしたい気分なんだ。朱桜を渡せば、君に、君達に、これ以上手出しはしない」
「私は、朱桜ちゃんの姉です。姉が妹を守るのは当たり前でしょう」
どうして落ち着いていられるのだろうか。
白刃は消えた。太郎は膝の上で意識を失っている。火羅は震え怯えるだけで何も出来ない。何があったのか知らないが、朱桜も戦える状態ではなさそうだ。
欲しいと言うのだから、くれてやればいいのにと、火羅は思った。
姉妹といっても、義理の、無理矢理に結ばされた契りではないか。
私達よりもその女童の方がいいのか。
このままでは皆死んでしまう。
朱桜を捧げて、安穏な暮らしに戻ろう。
まだ、そんなに長い時を過ごしたわけではないけれど、とても心地が良いものだった。
「貴方は……そういう人よね」
だからこそ、大妖に刃向かってでも、助けてくれた。
そんな彩花は、一瞬でも罪深い想いを抱いた私を許してくれるだろうか。
彩花の手に掛かるなら、悪くなかった
「姉? 君は朱桜の、義理の姉なのか?」
「ええ。契りを、結びました」
笑い声をあげながら、顔を隠していた布を剥いた。
「奇遇だね……私も、その子の姉なんだよ」
秀麗な顔をした女は、額に角を生やしていた。
「義理ではなく……真の、姉だ」