あやかし姫~跡目争い(11)~
瀧夜叉を口から離した虎熊童子と、美猴王のぶつかり合いが始まった。
彩華の腕が火羅の首に絡みつき、彩華の顎が火羅の肩に乗せられていた。
彩華の顔は何とも可笑しげで、火羅の顔は恐怖で引きつっていた。
「う、ぬ?」
それまで向き合っていた彩華に目もくれず、美猴王は突然の乱入者に向かっていった。
「何じゃ? 妾は蚊帳の外かよ」
彩華はきょとんとすると、拍子抜けしたように火羅を見やった。
火羅は後ろ手をつき、歯を鳴らしながら身体を仰け反らせた。
「火羅? ……ああ、これが、怖いのか」
深い闇と金銀の霧を引き連れて、彩華は火羅に近づいた。
足音はしない。
気配は朧で掴み所がない。
「こ、怖くなんて!」
「怖かったよなぁ。せっかく小さな希望を抱いたというに、これで絶望に変えられたのだから」
彩華の右手に宿る金色の霧と、彩華の左手に宿る銀色の霧からは、九尾の大妖の臭いがした。
火羅は、九尾の大妖の霧の毒に、身体を犯されたことがある。
生きたいと、生きられると、思った時にだ。あの時の絶望は、まだ、身心に残っている。
「ん――心臓が、泣いておるぞ」
胸を、霧から戻った指に、とんと突かれた。
「怖くなんて……ない、私は、怖くなんて」
毒は肌に刻み込まれ、女が触れたがる場所の一つになっている。
「可哀想になぁ、嫌なことを思い出させてしまったなぁ。妾が慰めてやろうか?」
昨日の夜のように――
耳元で、くつりと、笑みが聞こえた。
火羅は、ぞくりとした。
その笑みは、笑みではなかったのだ。
「なぁ、火羅。一つ言っておくぞ……お前は妾の物なのだ。他の誰でもない、妾の物なのだ。そのことをよく覚えておくがいい。太郎に懸想すれば……お前は全てを喪うぞ」
「太郎様に、懸想なん、て」
弁明を拒絶するように、火羅は唇を貪られていた。
「金銀妖瞳の味がする」
虎熊童子も、美猴王も、目に入らなかった。
他の何もかも、目に入らなかった。
火羅は、彩華だけを見ていた。
「火遊びをするでない。お前は、もう、火を使えないのだ。いや……お前は、元々、使えなかったなぁ。妾はしてもいいが、お前はするな。わかるか? お前は妾の奴隷で、妾はお前の主なのだ。お前はただ、妾を楽しませればいいのだ」
太郎と唇を触れ合わせた。
仕方のないことだ。
あのままでは、太郎が死んでしまうと思ったのだ。
「私は、ただ、太郎様を救おうと」
「……また、心臓が泣いた」
酷く冷たい物言いの後、彩華は火羅の後ろに回った。
太郎と朱桜をそっと火羅の両脇に退ける。
火羅は、振り返ることも瞬きすることすらも出来なくなっていた。
肌に虎の紋様が浮き出た鬼は、涎を垂れ流しながら、煌びやかな鎧を纏った猿に襲い掛かった。
西の鬼の四天王としての尊厳も誇りも、虎熊童子のどこにもなかった。
ただの獣である。
狂った獣が、暴れている。
「虎熊ぁ……お前、そんな姿になってしまったのか」
長兄である星熊童子の声も、届くことはなかった。
目の前に餌があるから、喰ろうてやる――補食本能だけが、虎熊童子を突き動かしていた。
牙を、爪を使って、相手を穿とうとしていた。
なまじの妖なら立つことすら出来ないであろう妖気を奔出させながら、直線的な攻撃しか出来ず、全てが避けられていてもなお、その本能に従っていた。
「私の声も聞こえないのか? この兄の姿がわからないのか?」
虎の鬼が吠えた。
金色の肌に無数の黒い点がしがみついている。
点々は、よくよく見やると、全てが全て、小さな小さな美猴王であった。
「虎熊!」
全身にしがみついた美猴王達が、次にとった行動は、貪ることだった。
小さな手が、小さな口が、鬼の肌に、無数の赤い花を浮きあがらせたのだ。
「んふ――」
虎熊が絶叫があげると、彩華の息が熱くなった。
昂ぶっている。
火羅も同じだった。
「獣の本能だけでは、あの猿に勝てぬようだぞ」
「っつ――」
火羅の耳に小さな痛みがはしった。
噛まれたのだ。
首筋を執拗に這う彩華の舌に、必死に堪えていた火羅は、耳を攻められ、ついに喘ぎ声をあげた。
「彩花殿、彩花殿、どうか、弟を助けて下さい!」
「は?」
「あのままでは、虎熊が」
「何故じゃ? 何故妾がそのようなことを?」
火羅の襟を掻き分けた彩花の指が、毒の痕のざらざらとした感触を楽しむように、その胸をまさぐり始めた。
「妾の獲物を横取りしようとしたのは、あの鬼じゃろう? 好きにさせてやればよい」
そもそも、妾は、彩花ではない。
妾は……妾は、彩華ぞ。
「いや、同じか。同じよな。根は、同じよ」
「彩花殿!」
「うるさい」
「彩華……駄目」
星熊童子の身体が、彩華の身体から伸びた闇に包まれた。
どんと鈍い音がして、星熊童子は壁に叩きつけられ、眼と鼻と口から血を溢れさせながら、ゆっくりと床に崩れ落ちた。
「主殿、主殿、気をしっかり持つぜよ」
「美猴王、お前、あの鬼は、あの女は」
瀧夜叉の喉に開いた二つの穴から、息が漏れた。
「鬼は、あの様ぜよ。見えるか?」
「さすがだね」
虎の鬼は、全身を毟られていた。
「お前に最初から任せればよかったのか? 茨木童子の時も、そうだった。結局お前が」
「わしは、主殿のことを、気に入ってるぜよ。主殿の御心のままに振る舞えばいいぜよ」
「私は……自分の手で、事を成したい」
「主殿は、よくやってるぜよ」
「自分の手で……妹を、殺したい。あれは私の妹だ。腹違いの妹なんだ。黒夜叉なんて、知るものか」
「火羅……どこか遠くへ行こうか。どこか遠くで、二人で暮らそうか。その方が良いじゃろう。お前、わかっているのだろう? 彩花といつまでも一緒には、いられないと」
「貴方は、っつ、貴方は、」
「火羅だけは、妾を選んでくれるよな?」
「どうして、私は、貴方にとって」
何度も尋ねた。
答えは決まっている。
「……玩具」
彩華の濡れた指が、離れていく。
「玩具」
「美猴王!」
「おうぜよ!」
「くふ……楽しい」
濡れた指を舐めながら、彩華は妖艶に微笑んだ。
彩華の腕が火羅の首に絡みつき、彩華の顎が火羅の肩に乗せられていた。
彩華の顔は何とも可笑しげで、火羅の顔は恐怖で引きつっていた。
「う、ぬ?」
それまで向き合っていた彩華に目もくれず、美猴王は突然の乱入者に向かっていった。
「何じゃ? 妾は蚊帳の外かよ」
彩華はきょとんとすると、拍子抜けしたように火羅を見やった。
火羅は後ろ手をつき、歯を鳴らしながら身体を仰け反らせた。
「火羅? ……ああ、これが、怖いのか」
深い闇と金銀の霧を引き連れて、彩華は火羅に近づいた。
足音はしない。
気配は朧で掴み所がない。
「こ、怖くなんて!」
「怖かったよなぁ。せっかく小さな希望を抱いたというに、これで絶望に変えられたのだから」
彩華の右手に宿る金色の霧と、彩華の左手に宿る銀色の霧からは、九尾の大妖の臭いがした。
火羅は、九尾の大妖の霧の毒に、身体を犯されたことがある。
生きたいと、生きられると、思った時にだ。あの時の絶望は、まだ、身心に残っている。
「ん――心臓が、泣いておるぞ」
胸を、霧から戻った指に、とんと突かれた。
「怖くなんて……ない、私は、怖くなんて」
毒は肌に刻み込まれ、女が触れたがる場所の一つになっている。
「可哀想になぁ、嫌なことを思い出させてしまったなぁ。妾が慰めてやろうか?」
昨日の夜のように――
耳元で、くつりと、笑みが聞こえた。
火羅は、ぞくりとした。
その笑みは、笑みではなかったのだ。
「なぁ、火羅。一つ言っておくぞ……お前は妾の物なのだ。他の誰でもない、妾の物なのだ。そのことをよく覚えておくがいい。太郎に懸想すれば……お前は全てを喪うぞ」
「太郎様に、懸想なん、て」
弁明を拒絶するように、火羅は唇を貪られていた。
「金銀妖瞳の味がする」
虎熊童子も、美猴王も、目に入らなかった。
他の何もかも、目に入らなかった。
火羅は、彩華だけを見ていた。
「火遊びをするでない。お前は、もう、火を使えないのだ。いや……お前は、元々、使えなかったなぁ。妾はしてもいいが、お前はするな。わかるか? お前は妾の奴隷で、妾はお前の主なのだ。お前はただ、妾を楽しませればいいのだ」
太郎と唇を触れ合わせた。
仕方のないことだ。
あのままでは、太郎が死んでしまうと思ったのだ。
「私は、ただ、太郎様を救おうと」
「……また、心臓が泣いた」
酷く冷たい物言いの後、彩華は火羅の後ろに回った。
太郎と朱桜をそっと火羅の両脇に退ける。
火羅は、振り返ることも瞬きすることすらも出来なくなっていた。
肌に虎の紋様が浮き出た鬼は、涎を垂れ流しながら、煌びやかな鎧を纏った猿に襲い掛かった。
西の鬼の四天王としての尊厳も誇りも、虎熊童子のどこにもなかった。
ただの獣である。
狂った獣が、暴れている。
「虎熊ぁ……お前、そんな姿になってしまったのか」
長兄である星熊童子の声も、届くことはなかった。
目の前に餌があるから、喰ろうてやる――補食本能だけが、虎熊童子を突き動かしていた。
牙を、爪を使って、相手を穿とうとしていた。
なまじの妖なら立つことすら出来ないであろう妖気を奔出させながら、直線的な攻撃しか出来ず、全てが避けられていてもなお、その本能に従っていた。
「私の声も聞こえないのか? この兄の姿がわからないのか?」
虎の鬼が吠えた。
金色の肌に無数の黒い点がしがみついている。
点々は、よくよく見やると、全てが全て、小さな小さな美猴王であった。
「虎熊!」
全身にしがみついた美猴王達が、次にとった行動は、貪ることだった。
小さな手が、小さな口が、鬼の肌に、無数の赤い花を浮きあがらせたのだ。
「んふ――」
虎熊が絶叫があげると、彩華の息が熱くなった。
昂ぶっている。
火羅も同じだった。
「獣の本能だけでは、あの猿に勝てぬようだぞ」
「っつ――」
火羅の耳に小さな痛みがはしった。
噛まれたのだ。
首筋を執拗に這う彩華の舌に、必死に堪えていた火羅は、耳を攻められ、ついに喘ぎ声をあげた。
「彩花殿、彩花殿、どうか、弟を助けて下さい!」
「は?」
「あのままでは、虎熊が」
「何故じゃ? 何故妾がそのようなことを?」
火羅の襟を掻き分けた彩花の指が、毒の痕のざらざらとした感触を楽しむように、その胸をまさぐり始めた。
「妾の獲物を横取りしようとしたのは、あの鬼じゃろう? 好きにさせてやればよい」
そもそも、妾は、彩花ではない。
妾は……妾は、彩華ぞ。
「いや、同じか。同じよな。根は、同じよ」
「彩花殿!」
「うるさい」
「彩華……駄目」
星熊童子の身体が、彩華の身体から伸びた闇に包まれた。
どんと鈍い音がして、星熊童子は壁に叩きつけられ、眼と鼻と口から血を溢れさせながら、ゆっくりと床に崩れ落ちた。
「主殿、主殿、気をしっかり持つぜよ」
「美猴王、お前、あの鬼は、あの女は」
瀧夜叉の喉に開いた二つの穴から、息が漏れた。
「鬼は、あの様ぜよ。見えるか?」
「さすがだね」
虎の鬼は、全身を毟られていた。
「お前に最初から任せればよかったのか? 茨木童子の時も、そうだった。結局お前が」
「わしは、主殿のことを、気に入ってるぜよ。主殿の御心のままに振る舞えばいいぜよ」
「私は……自分の手で、事を成したい」
「主殿は、よくやってるぜよ」
「自分の手で……妹を、殺したい。あれは私の妹だ。腹違いの妹なんだ。黒夜叉なんて、知るものか」
「火羅……どこか遠くへ行こうか。どこか遠くで、二人で暮らそうか。その方が良いじゃろう。お前、わかっているのだろう? 彩花といつまでも一緒には、いられないと」
「貴方は、っつ、貴方は、」
「火羅だけは、妾を選んでくれるよな?」
「どうして、私は、貴方にとって」
何度も尋ねた。
答えは決まっている。
「……玩具」
彩華の濡れた指が、離れていく。
「玩具」
「美猴王!」
「おうぜよ!」
「くふ……楽しい」
濡れた指を舐めながら、彩華は妖艶に微笑んだ。