あやかし姫~跡目争い(18)~
だらりと涎を垂れ流す彩華が、ぎろりと彩花に目線を据えた。
口を大きく開け放し、獣のような牙を剥き出しにしている。
彩花だけを見ていて、火羅が入れる隙間はない――はずなのに、縋るような視線を感じる。
太郎様を、葉子さんを、呼ばなければ――そう思うのだけれど、身体が動かない。
朱桜でもいい。
耐えられない。
大切な友人が、惨殺される。
「う、あ」
「喰ぅ……餌に、妾の糧に」
彩花は肝の据わった娘だ。
同じ顔の妖物を、何ほどもなく眺めていた。
驚きも、恐怖も、ない。
淡々としていた。覚悟を決めたように思えた。
いなくなる、覚悟だ。
あの時も、そうだった。
あの時は、彩華が助けた。
火羅は、決められなかった。
決められるわけがなかった。
比べてはならないと理解していたのに、そのことを酷く恐れていたのに、何故目の前でそうなるのか。
これも彩華の戯れなのか。
そうやって私を弄ぼうというのか。
玩具の新しい遊び方なのか。
身体を委ねた。
何だってするし、何だってしてきた。
だから、だから、止めてほしい。
優しくされた。
二人に、優しくされた。
嬉しかった。
最初は嫌いだったけど、今では……今では、大切だと思えるようになった。
「に、逃げ」
「……火羅ぁ? 妾を……裏切るの?」
首が捻れに捻れた。
何て顔で私を見るのだ。
何て声を私に向けるのだ。
暴君が、どうしてそんな顔で、奴隷を見るのだ。
私を、私は弱い、従者も救えない、何も、何も出来ない。
西の妖狼を守れなかったし、誇りも自分で打ち砕いた。
太郎なら、きっと、彩花を。
彩華が彩花の目の前に、ゆらりと移るや、その柔肌に噛みつこうとした。
何気ない仕草で向けられた彩花の掌が、火羅に助けを求めているようで、叫びも出来ない己を呪った。
手を掴もうとして、彩華の背中が見えて、どうにも動けなかった。
「あ?」
吹き飛んだ。
彩華の右胸が、右腕ごと。
飛び散ったのは、赤い赤い血。
火羅の身体も生温く濡らした。
「あ……あ?」
彩花は触れただけだ。
すっと、彩花の細い指に、触れられた場所が、爆砕した。
「なん……じゃと?」
彩華がくるりと、止まりかけの独楽のようによろめき、火羅に身体を向けた。
視線をあちこちに動かし、唇の端から血を流し、ふっと膝折り崩れ落ちた。
傲慢さと狂喜が消え、代わりに驚愕と恐怖が表情を埋め尽くしていた。
「ああ、うん……美味しいよ」
彩花と眼が合った。
「美味しいね」
そんなことを、彩花は言った。
どこまでも続く碧闇が、その背後で踊っていた。
冷たく、楽しげに、見下ろしていた。
この世は弱肉強食で、強い者が弱い者を制す。
知っている。
知っていた。
知り尽くしていた。
彩花だったのだ。
彩華ではなかった。
「嫌じゃ……嫌じゃ、嫌じゃ!」
駄々っ子のように吠えた彩華の左腕が白い虎になり、金色の猿の右腕が生え、足が狼の後ろ脚に変じ、そうして火羅の身体を抱えて、緑色の結界にぶち当たった。
結界に阻まれた彩華は全身から煙を出しているのに、火羅は痛みも何もなくて、彩花が手を伸ばしていて――痛々しくて弱々しい表情を見て、火羅は伸ばしかけた手を、彩華の首に回した。
「大丈夫よ……ごめんね」
結界が破れた。
脱兎のように、一度も振り返ることなく、彩華は逃げていく。
隻眼の白虎を、九尾の大妖を、逆徒の鬼を、金色の妖猿を打ち払った姿はどこにもなく、幼子のように泣きながら遁走する少女は、ひっしと火羅を抱き締めていて、心地よくて、後ろめたくて、幸せだった。
「ごめんね……大丈夫よ」
口を大きく開け放し、獣のような牙を剥き出しにしている。
彩花だけを見ていて、火羅が入れる隙間はない――はずなのに、縋るような視線を感じる。
太郎様を、葉子さんを、呼ばなければ――そう思うのだけれど、身体が動かない。
朱桜でもいい。
耐えられない。
大切な友人が、惨殺される。
「う、あ」
「喰ぅ……餌に、妾の糧に」
彩花は肝の据わった娘だ。
同じ顔の妖物を、何ほどもなく眺めていた。
驚きも、恐怖も、ない。
淡々としていた。覚悟を決めたように思えた。
いなくなる、覚悟だ。
あの時も、そうだった。
あの時は、彩華が助けた。
火羅は、決められなかった。
決められるわけがなかった。
比べてはならないと理解していたのに、そのことを酷く恐れていたのに、何故目の前でそうなるのか。
これも彩華の戯れなのか。
そうやって私を弄ぼうというのか。
玩具の新しい遊び方なのか。
身体を委ねた。
何だってするし、何だってしてきた。
だから、だから、止めてほしい。
優しくされた。
二人に、優しくされた。
嬉しかった。
最初は嫌いだったけど、今では……今では、大切だと思えるようになった。
「に、逃げ」
「……火羅ぁ? 妾を……裏切るの?」
首が捻れに捻れた。
何て顔で私を見るのだ。
何て声を私に向けるのだ。
暴君が、どうしてそんな顔で、奴隷を見るのだ。
私を、私は弱い、従者も救えない、何も、何も出来ない。
西の妖狼を守れなかったし、誇りも自分で打ち砕いた。
太郎なら、きっと、彩花を。
彩華が彩花の目の前に、ゆらりと移るや、その柔肌に噛みつこうとした。
何気ない仕草で向けられた彩花の掌が、火羅に助けを求めているようで、叫びも出来ない己を呪った。
手を掴もうとして、彩華の背中が見えて、どうにも動けなかった。
「あ?」
吹き飛んだ。
彩華の右胸が、右腕ごと。
飛び散ったのは、赤い赤い血。
火羅の身体も生温く濡らした。
「あ……あ?」
彩花は触れただけだ。
すっと、彩花の細い指に、触れられた場所が、爆砕した。
「なん……じゃと?」
彩華がくるりと、止まりかけの独楽のようによろめき、火羅に身体を向けた。
視線をあちこちに動かし、唇の端から血を流し、ふっと膝折り崩れ落ちた。
傲慢さと狂喜が消え、代わりに驚愕と恐怖が表情を埋め尽くしていた。
「ああ、うん……美味しいよ」
彩花と眼が合った。
「美味しいね」
そんなことを、彩花は言った。
どこまでも続く碧闇が、その背後で踊っていた。
冷たく、楽しげに、見下ろしていた。
この世は弱肉強食で、強い者が弱い者を制す。
知っている。
知っていた。
知り尽くしていた。
彩花だったのだ。
彩華ではなかった。
「嫌じゃ……嫌じゃ、嫌じゃ!」
駄々っ子のように吠えた彩華の左腕が白い虎になり、金色の猿の右腕が生え、足が狼の後ろ脚に変じ、そうして火羅の身体を抱えて、緑色の結界にぶち当たった。
結界に阻まれた彩華は全身から煙を出しているのに、火羅は痛みも何もなくて、彩花が手を伸ばしていて――痛々しくて弱々しい表情を見て、火羅は伸ばしかけた手を、彩華の首に回した。
「大丈夫よ……ごめんね」
結界が破れた。
脱兎のように、一度も振り返ることなく、彩華は逃げていく。
隻眼の白虎を、九尾の大妖を、逆徒の鬼を、金色の妖猿を打ち払った姿はどこにもなく、幼子のように泣きながら遁走する少女は、ひっしと火羅を抱き締めていて、心地よくて、後ろめたくて、幸せだった。
「ごめんね……大丈夫よ」