あやかし姫~跡目争い(21)~
姫様が消えた。
目の前から消えてしまった。
触れることが、出来たのに。
蛇が、食った。
蛇に、食われた。
太郎は、姫様を呑み込んだ大蛇の主を見据えた。
影から這い出た大蛇が、赤い舌を出し入れさせる。
飄々とした翁の表情に対して沸き上がる何かを、太郎は懸命に堪えた。
痛いほどの静謐の中、白髪白眉白髭の翁は、己の影に蛇の頭を引き戻した。
ずぶりと沼に沈むように、蛇は影に消え去った。
少女の姿はどこにもない。
陰も形も声も涙も、匂いすらも、消えてしまった。
「姫様……姫様!」
葉子の叫びが聞こえてきた。
目を血走らせた黒い鬼が、頭領に躍り掛かろうとして、黒之助に押さえられている。
その黒之助の、戒めるような低い声には、朧気な殺気が滲み出ていた。
立ち尽くした鬼達は、事の変幻についていけてないようだ。
木偶の坊のように突っ立って、おろおろと顔を見合わせるばかりであった。
「火羅が姫様と一緒に消えて、姫様がおかしくなって、近づこうとしても出来なくて、それで、それで、頭領が……」
葉子が隻腕で頭領の胸を叩く。
堰を切ったように事の次第を訴える。
哀れなほど狼狽していた。
頭領は、気にする素振りもなく、思案するように顎髭に触れていた。
「あの子を、あたいの子を、どこにやったさよ……まさか頭領、姫様を……そんなこと、ないさね。だって、姫様さよ。あたいの、あたい達の、姫様さよ?」
そう言って、腰を抜かしたように座り込み、頭領の足に縋り付いた。
薄汚れた白い一尾の先っぽが、ちょこんと垂れ下がっていた。
「クロさん、離すですよ……離してほしいですよ」
「離さぬ。頭領が、姫さんを……そんなこと、するはずがない。だから、離さぬ」
自分に言い聞かせるような物言いだった。
そうしなければ、朱桜のやりたいことをしてしまうのだろう。
頭領が何か言いかけ、すぐに口を閉じた。
ふっと、太郎の頭の中が、白くなった。
身を持ち上げる。姫様に触れられた部分が鋭く熱く痛む。
儚い表情が、白い肌にかかる黒い髪が、頭の中を占める。
姫様の声は、切々として、優しかった。
何度も名前を呼んでくれた。
最後は、泣いていた。
笑顔を見せてくれなかった。
笑顔にさせてやれなかった。
頭領の傍に、引き摺るようにして、傷ついた身を寄せた。
「姫様をどこにやった?」
「太郎……誰か、太郎の手当を」
「姫様を、どこにやったんだ」
「手当が先じゃ」
「……言えよ。頭領、早く言えよ」
「それは……」
「言えないのかよ!」
頭領の頭に腕を叩きつけた。
空を切って、姿勢を崩して、朽ちかけた床を打ち砕いた。
本気で頭領の頭を薙ごうとした。
許せなかった。
「返せよ、返してくれよ」
頭領は恩人だ。
恩人でも、姫様が絡めば、話は別だ。
半人半妖の姿で、粘り着くような唸り声をあげた。
「返せ!」
叫んだ。頭領と自分に、叫んだ。
許せないのは、自分だ。
不甲斐ない自分なのだ。
どうしてこうも情けないのだ。
「返せ」
朱桜が、頭領の背後で、言った。
愛らしかった幼子が、凄艶な少女の姿に再び変化している。
黒之助が、鬼の身体ではなく、錫杖を抱えていた。
迷いを消すように頭を振ると、頭領に錫杖の先を突きつけた。
りんと金輪が鳴り、傷を隠すように黒い羽毛が生え始めた。
「お話を、頭領。まさか、姫さんを……殺したのでは、あるまいな」
四人の中では、黒之助が一番落ち着いていた。
葉子のように狼狽も、太郎のように激高も、朱桜のように狂乱も、していなかった。
ぎりぎりの所で、理性を保っていた。
だから、皆が言えないことも言えた。
言って、自分の理性の壁を崩した。
もはや、殺気を隠そうともしなかった。
「彩花、姉様」
朱桜の表情が消えた。
意味がわからないと言うように、首を傾げた。
「黒之助! 変なことを言うんじゃないよ!」
長々と、深々と、頭領は息を吐いた。
「違う。彩花を……そう、封じたのよ。あのままでは、鬼ヶ城も、お前達も、喰らい尽くしてしまうでな。ちゃんと、生きておる。眠っていると、言い換えてもよい」
朱桜が、絶望の淵から戻って来た。
消えた表情に、喜色が満ちた。
太郎も、同じだった。
「これは、あまり良くないのじゃが……他に術がなかった。仕掛けが破られたでな」
頭領は、渋い表情を浮かべると、自分の影に目をやった。
「そういうわけでの、落ち着け、酒呑童子」
「……いいだろう」
姿を見せた鬼の王が、朱桜の背中を軽く叩いた。
身を縮めた鬼の子が、じわじわと涙を貯めていた。
「……いいのかな? 俺も、少し怒っているよ。あの子は……いい子だからな。恩義もある」
「お主」
「迷うな。とても、迷う。太郎の気持ちが、よくわかるのだ」
また、朱桜の背中を叩いた。
「生きてるさね、あの子は、生きてるさよね」
「うむ、生きておるよ。しばらくは、会えぬが」
錫杖を下ろした黒之助が、どかりと胡座を搔き、床に目を落とした。
納得しているようには見えなかった。
唇を微かに震わせてていた。
「そう、あれを捕まえれば、いいだけのことよ」
「頭領、信じていいんだよな……俺、姫様のこと、大切だから……好きだから、何するかわかんねぇよ」
「儂を、脅すか?」
太郎の傷口に触れながら、頭領が言った。面白がるような笑みが、微かに浮かんでいた。
「もう、子ではないのじゃな」
善い、善いと、頭領は言った。
少し、寂しそうだった。
「さぁて……」
女の足下には、大きな鷲の死骸があった。
腹を裂かれ、腸を引き出されている。
女の唇が真っ赤なのは、鷲の血肉を啜っているからだ。
「神の血肉も、悪くないわ」
顔を上げ、喉を鳴らしながら、彩華が言った。
舞い降りてきたこの社の神を、殺したのだ。
「んふ……くふ」
やはり、土地神がいた。
交渉しようとした火羅に、問答無用と襲いかかった。
危うく難を逃れると、彩華が怒り狂っていた。
「火羅」
傍に寄れと、女が手招きした。
火羅は、尻餅をついていた。彩華に突き飛ばされたお陰で、難を逃れたのだ。
「もっと似合う衣がいるか。飾りは、どうしようか? 楽しいな、おい。こんな、あの娘の色の衣ではなく、妾の色の衣が必要よな」
女の手が彩花のくれた帯に掛かる。
それから、火羅と目を合わせ、見る見ると気弱げになった。
「その表情も……悪くない」
目を逸らした女が、悲しそうに、そう呟いた。
火羅は、彩華の汚れた手を押しとどめ、自分で帯を解きやった。
「貴女のその表情も、悪くないわよ」
そう言ってやると、自嘲するように唇を吊り上げた。
目の前から消えてしまった。
触れることが、出来たのに。
蛇が、食った。
蛇に、食われた。
太郎は、姫様を呑み込んだ大蛇の主を見据えた。
影から這い出た大蛇が、赤い舌を出し入れさせる。
飄々とした翁の表情に対して沸き上がる何かを、太郎は懸命に堪えた。
痛いほどの静謐の中、白髪白眉白髭の翁は、己の影に蛇の頭を引き戻した。
ずぶりと沼に沈むように、蛇は影に消え去った。
少女の姿はどこにもない。
陰も形も声も涙も、匂いすらも、消えてしまった。
「姫様……姫様!」
葉子の叫びが聞こえてきた。
目を血走らせた黒い鬼が、頭領に躍り掛かろうとして、黒之助に押さえられている。
その黒之助の、戒めるような低い声には、朧気な殺気が滲み出ていた。
立ち尽くした鬼達は、事の変幻についていけてないようだ。
木偶の坊のように突っ立って、おろおろと顔を見合わせるばかりであった。
「火羅が姫様と一緒に消えて、姫様がおかしくなって、近づこうとしても出来なくて、それで、それで、頭領が……」
葉子が隻腕で頭領の胸を叩く。
堰を切ったように事の次第を訴える。
哀れなほど狼狽していた。
頭領は、気にする素振りもなく、思案するように顎髭に触れていた。
「あの子を、あたいの子を、どこにやったさよ……まさか頭領、姫様を……そんなこと、ないさね。だって、姫様さよ。あたいの、あたい達の、姫様さよ?」
そう言って、腰を抜かしたように座り込み、頭領の足に縋り付いた。
薄汚れた白い一尾の先っぽが、ちょこんと垂れ下がっていた。
「クロさん、離すですよ……離してほしいですよ」
「離さぬ。頭領が、姫さんを……そんなこと、するはずがない。だから、離さぬ」
自分に言い聞かせるような物言いだった。
そうしなければ、朱桜のやりたいことをしてしまうのだろう。
頭領が何か言いかけ、すぐに口を閉じた。
ふっと、太郎の頭の中が、白くなった。
身を持ち上げる。姫様に触れられた部分が鋭く熱く痛む。
儚い表情が、白い肌にかかる黒い髪が、頭の中を占める。
姫様の声は、切々として、優しかった。
何度も名前を呼んでくれた。
最後は、泣いていた。
笑顔を見せてくれなかった。
笑顔にさせてやれなかった。
頭領の傍に、引き摺るようにして、傷ついた身を寄せた。
「姫様をどこにやった?」
「太郎……誰か、太郎の手当を」
「姫様を、どこにやったんだ」
「手当が先じゃ」
「……言えよ。頭領、早く言えよ」
「それは……」
「言えないのかよ!」
頭領の頭に腕を叩きつけた。
空を切って、姿勢を崩して、朽ちかけた床を打ち砕いた。
本気で頭領の頭を薙ごうとした。
許せなかった。
「返せよ、返してくれよ」
頭領は恩人だ。
恩人でも、姫様が絡めば、話は別だ。
半人半妖の姿で、粘り着くような唸り声をあげた。
「返せ!」
叫んだ。頭領と自分に、叫んだ。
許せないのは、自分だ。
不甲斐ない自分なのだ。
どうしてこうも情けないのだ。
「返せ」
朱桜が、頭領の背後で、言った。
愛らしかった幼子が、凄艶な少女の姿に再び変化している。
黒之助が、鬼の身体ではなく、錫杖を抱えていた。
迷いを消すように頭を振ると、頭領に錫杖の先を突きつけた。
りんと金輪が鳴り、傷を隠すように黒い羽毛が生え始めた。
「お話を、頭領。まさか、姫さんを……殺したのでは、あるまいな」
四人の中では、黒之助が一番落ち着いていた。
葉子のように狼狽も、太郎のように激高も、朱桜のように狂乱も、していなかった。
ぎりぎりの所で、理性を保っていた。
だから、皆が言えないことも言えた。
言って、自分の理性の壁を崩した。
もはや、殺気を隠そうともしなかった。
「彩花、姉様」
朱桜の表情が消えた。
意味がわからないと言うように、首を傾げた。
「黒之助! 変なことを言うんじゃないよ!」
長々と、深々と、頭領は息を吐いた。
「違う。彩花を……そう、封じたのよ。あのままでは、鬼ヶ城も、お前達も、喰らい尽くしてしまうでな。ちゃんと、生きておる。眠っていると、言い換えてもよい」
朱桜が、絶望の淵から戻って来た。
消えた表情に、喜色が満ちた。
太郎も、同じだった。
「これは、あまり良くないのじゃが……他に術がなかった。仕掛けが破られたでな」
頭領は、渋い表情を浮かべると、自分の影に目をやった。
「そういうわけでの、落ち着け、酒呑童子」
「……いいだろう」
姿を見せた鬼の王が、朱桜の背中を軽く叩いた。
身を縮めた鬼の子が、じわじわと涙を貯めていた。
「……いいのかな? 俺も、少し怒っているよ。あの子は……いい子だからな。恩義もある」
「お主」
「迷うな。とても、迷う。太郎の気持ちが、よくわかるのだ」
また、朱桜の背中を叩いた。
「生きてるさね、あの子は、生きてるさよね」
「うむ、生きておるよ。しばらくは、会えぬが」
錫杖を下ろした黒之助が、どかりと胡座を搔き、床に目を落とした。
納得しているようには見えなかった。
唇を微かに震わせてていた。
「そう、あれを捕まえれば、いいだけのことよ」
「頭領、信じていいんだよな……俺、姫様のこと、大切だから……好きだから、何するかわかんねぇよ」
「儂を、脅すか?」
太郎の傷口に触れながら、頭領が言った。面白がるような笑みが、微かに浮かんでいた。
「もう、子ではないのじゃな」
善い、善いと、頭領は言った。
少し、寂しそうだった。
「さぁて……」
女の足下には、大きな鷲の死骸があった。
腹を裂かれ、腸を引き出されている。
女の唇が真っ赤なのは、鷲の血肉を啜っているからだ。
「神の血肉も、悪くないわ」
顔を上げ、喉を鳴らしながら、彩華が言った。
舞い降りてきたこの社の神を、殺したのだ。
「んふ……くふ」
やはり、土地神がいた。
交渉しようとした火羅に、問答無用と襲いかかった。
危うく難を逃れると、彩華が怒り狂っていた。
「火羅」
傍に寄れと、女が手招きした。
火羅は、尻餅をついていた。彩華に突き飛ばされたお陰で、難を逃れたのだ。
「もっと似合う衣がいるか。飾りは、どうしようか? 楽しいな、おい。こんな、あの娘の色の衣ではなく、妾の色の衣が必要よな」
女の手が彩花のくれた帯に掛かる。
それから、火羅と目を合わせ、見る見ると気弱げになった。
「その表情も……悪くない」
目を逸らした女が、悲しそうに、そう呟いた。
火羅は、彩華の汚れた手を押しとどめ、自分で帯を解きやった。
「貴女のその表情も、悪くないわよ」
そう言ってやると、自嘲するように唇を吊り上げた。