あやかし姫~朱桜の花嫁修行~
星熊童子の視線が止まるのに合わせて、その典雅な歩みも止まった。
目を止めたのは、難しい顔を付き合わせている秀麗な男達。
そっくりの顔立ちでありながら、一方は穏やか、一方は冷ややかと、正反対の印象を見る者に与えるだろう。
西の鬼を治める偉大な双子。
「どう、なさいました?」
「おう、いや、な……」
「星熊か」
王も、茨木も、苦虫を噛み潰したような顔である。
王の久しく見ぬ弱気な表情に、冷静なこと林の如しと謳われるさしもの星熊童子も、知らず掌に汗を滲ませていた。
「お前には関係ないことだ」
「ええ」
「お、王! 茨木童子様まで! この星熊、微力ながらも誠心誠意を尽くしてお二方に長年お仕えしてきたというのに、その言い草はあんまりではありませんか! お二方の難事は、我ら四つ子、ひいては西の鬼全ての難事! 知恵及ばぬとも、力及ばぬとも、何かしらのお役に立ってみせます!」
「うわ……面倒くせぇ」
「確かに、少々うざいですな」
「……ぶわっ!」
星熊は、泣いた。
これまで培ってきた自分の拠り所ががらがらと崩れた。
面倒くさいとは何事か! もう、お役目を全て放り出してとんずらしてやろうか。思えば、報われぬこのとない日々であった。弟達はよく揉め事を起こし、仲裁したらしたで憎まれ口を叩かれ、酒呑童子の尻拭いをやり、茨木童子が傷を負って仕事を減らすようになるとその分星熊に回される、はては子供の送迎役。
ふざけるなと叫びたい。何だ最後の送り迎えって。それが西の鬼の重鎮の仕事か。確かに、王の娘は可愛らしい。可愛らしいが、可愛らしいのだが、それは可愛いんだ、うん。
親馬鹿と叔父馬鹿なのもわかる気がする、とびっきりの可愛さだ。
雪妖の巫女のように明るいだけではなく、どこか憂いを帯びているのがまたいいのだ。
道中、一つも口を利いてくれないけれど。
あの聡明な人の娘や、零落した妖狼の娘とは、たくさん口を利くのに。
見ているだけでもいいのだけれど、やっぱり話はしてみたいわけで。
「だ、大丈夫か、星熊?」
「はぁ……」
東へ行っちゃおうかな。そうすれば、弟達の面倒を見なくていいし。
これでも西の実力者だ。大獄丸や俊宗なら高く評価してくれるだろう。
問題は、東の鬼姫である。あの女は危険すぎる。ちょっとしたことで機嫌を損ね、山を穿ち川を砕き豊かな原野を生ある者の姿が一つもないようにするという。
理不尽な主という点では、うちの王と甲乙付けがたい。
美人だが。
鬼妻だが、それはもう、美人だ。絶世の美女だ。誰が射止めるのか、国中の妖達が賭けに熱中したほどにだ。
朱桜と鈴鹿御前、なるほどこの勝負は、個人の趣味が大きく物を言うだろう。
「父ー上、叔父ー上、出来ましたですよー」
素早く思考を巡らし、東西の鬼姫を秤にかけていると、朱桜が二人の後ろから出てきた。
何だか間抜けな光景だったのだなとつい笑みを零してしまうのは、朱桜の徳というものだろうか。
輝くばかりの愛くるしい笑みに目を奪われていると、しゅんといきなり光が消えた。
そう星熊が感じたのは、朱桜の笑顔が死人のように固まったからだ。
もじもじとしだした朱桜は、伏し目がちに、
「出来ました」
と、先程の弾けんばかりの声とはうって変わった小さな声を出したのだった。
「お、おう、出来たか」
「出来たのか」
驚愕であった。
この衝撃は、二人に邪険にされたことよりも激しく鬼の脳髄を揺らした。
朱桜にも邪魔者扱いされるのか――死にたい。
人と鬼の混じり子にして、ただ一人の王の子という難しい立場を思いやり、不器用ながら精一杯の好意を見せてきたつもりである。
そろそろ自分にだって、人見知りせず挨拶してくれてもいい頃合いではないのか。
本当に逐電してしまおうか。
「朱桜、頑張りました」
台所で料理していた朱桜を、二人は待っていたらしい。
「そうだ、星熊童子にも食べさせてやれ」
「うむ、俺達二人だけで食べてしまうのも勿体ない。ここはまず、星熊童子に味見してもらおうじゃないか」
「え、でも……自信、ないです」
「そんなことでどうする。彩花ちゃんに料理をあげたいんだろう?」
「彩花様やクロさんや光君に……」
朱桜が夢見るように視線を漂わせ、二匹の鬼が悪鬼羅刹を食い散らさんばかりの凄まじい形相になった。
ぎりぎりぎり。
「そ、そうだな。彩花ちゃんやあの巫女にな」
牙をかき鳴らしながら、酒呑童子が言った。
ぎりぎりぎり。
「彩花ちゃんや葉子にな」
牙をかき鳴らしながら、茨木童子が言った。
「では、あの、あの、ほ、星熊童子さん、その、つ、つまらない物ですが」
朱桜が、かたかたかたと、震える手で器を差し出した。
「……私に」
小さな土鍋を受け取る。
蓋を開けると、甘やかな湯気が顔を覆った。
「お粥……」
「その、はい、お粥、です。ど、どうぞ、です」
「ぶわっ!」
「ど、どうしたですか!? お、お腹痛いですか?」
「いえ、か、感激して……」
ああ、もう!
東に逐電しようとか、思いません!
一生貴方様に付いていきます!
この上目遣い、反則でしょう!
「で、では、頂きます」
よいしょ、もぐもぐ、ご、ごくん?
「こ、これは!?」
声が、聞こえた。
美味いと言えー美味いと言えー美味いと言えー美味いと言えー美味いと言えー美味いと言えー美味いと言えー美味いと言えー美味いと言えー。
怨嗟に似ていた。
「び、美味、です」
甘い……甘過ぎだー、甘甘だー、甘甘甘だー。
「よ、よかったですよー」
「そうか、気に入ったか、星熊」
「よし、気に入ったなら、一気に食べてしまえ」
「食べるよな?」
「朱桜の手料理だぞ? 鬼冥利に尽きるだろう」
胸が、胸焼けが!
み、水!
いつ砂丘に来てしまったのだ!
舌が、舌が、狂う!
頭がお花畑に!
「うわぁ、星熊童子さん、おかわりもありますですよ! 父上の分も叔父上の分も、よそってきます!」
「あ、うん」
「え、うん」
「ごふっ、ごっふ」
喉に張り付いた魔性のお粥にえづいていると、背中を焦がすような殺気を感じた。
「星熊……朱桜のいる前で、そんな仕草をしてみろ、殺すぞ」
「皮を剥いで、塩をすり込んで、因幡の白兎のように狂い死にさせてやる」
「……鬼だ」
「不味いな」
「ちょっとこれは……私の舌には合いませんね」
「黒之丞さん、白蝉さん!」
涙目になった朱桜は、黙々と口に運ぶ黒之助に目を向けた。
「拙者はこのお粥、好きだが?」
にっと笑みを浮かべたのは一瞬。
無表情に器を置いた黒之丞と、困ったように箸を上下させる白蝉に、朱桜は口を尖らせた。そうしないと、泣いてしまいそうだった。
黒之丞が、悪かったかなと呟いた。
黒之助が片眉を上げ、白蝉が器を取り落としそうになるほど珍しい、反省の弁だった。
もう一口、黒之丞が食べ、白蝉も、一口だけ含んだ。
「い、いいのですよ……気休めなんて、いらないのですよ。あの女の言うことが、正しかったのです……もっと、頑張るですよ、クロさん、本当のことを言ってほしいのですよ」
「ん――おかわり」
「……はい!」