小説置き場2

山岳に寺社仏閣に両生類に爬虫類に妖怪に三国志にetcetc

あやかし姫~跡目争い(34)~

 それは餓えていた。
 だから嬉しかった。
 何故ここにいるのかわからない。
 何故命じられたのかわからない。
 主と名乗る慇懃な男は、この地の妖怪を狩れと命じ、虎の化け物を共に付けた。
 自分に命じる事が出来るのは叔父だけである。
 そう思い、道中、主に従えといった不快な化け物を、縊り殺してやった。
 呆気なく死んだ翼ある虎の化け物では、餓えを満たす事は出来なかった。
 宙に浮かぶ城と向き合い、眼窩に灯る仄かな蒼白い光を静かに揺らす。
 その城が吐き出すであろう軍勢を静かに待つ。
 皮がなく、肉がなく、朽ちかけた鎧に包まれた骨の身体。
 濃緑色の息を吐き、地面を搔く骨の馬も、鎧に包まれていた。
 久しく忘れていた愉悦を噛み締める。
 大きく顎を開き、声にならぬ声をあげる。
 かたかたかたと、骨が鳴る。
 そう、これだ、これだけが、身の内より湧き出る激しい飢餓を、消す事が出来る。
 また、かたかたかたと、骨が鳴った。
 変わらぬはずの、頭蓋骨の表情が、変わった。
 
 
 
「九州は随分と様変わりしたな」
「……変わりすぎです。一体何がどうなっているのですか?」
 化け狸の金長が言った。
 見慣れぬ植物が生い茂り、遠くの空も土も禍々しく色合いを変えている。
 正しく、異境であった。
「そんなこと、俺が知るか。それより、嫌に静かだな」
 あっさりと上陸できて、酒呑童子は拍子抜けしていた。
 手荒い歓迎があるだろうと覚悟していたのである。
 九尾の話では、数多の妖がいるはずなのだ。
「大妖に恐れを成した、なんてことはないよな。玉藻御前を襲ったのだし」 
「生きているのでしょうか」
「……さあな」
 玉藻御前の安否はわからない。
 銀毛の一族の頭もである。
 金毛の一族の頭は緒戦で死んだようだ。口惜しいと、逃れた者達が言っていた。
「九尾以外の妖達も、人も、神も、どうなっているのやら」
 土地神の気配がない。
 人の気配もない。
 いや、あるにはある。
 ない交ぜになっているのだ。
 このつかみ所のなさを、酒呑童子はよく知っていたが、口にはしなかった。
 鈴鹿御前も同じように感じているだろう。
「……そう、神もだ。出雲の奴らはどうして動かないのだ。この国の支配者を自認するあいつらが、この光景を知らぬわけがなかろう。威信を示すためとのたまい、嬉々として出てくるのがあいつらだろう?」
「敵の出方を窺っているのでは?」
「そんな殊勝な奴らかよ」
「ですね」
「そもそも、敵って、誰だ?」
「……わかりません」
「厄介、だな。少しは何か掴めたのか?」
「おぼろげながら」
 音なく歩み寄った若い男に、酒呑童子は片眉を上げた。
 振り向き、どなたですかと問うた金長に、晴明だよと酒呑童子は言った。
「……本人のお出ましとは珍しい。鵺とやり合った時も出てこなかったではないか」
 目を離すと消えてしまいそうなほど存在感の薄い男であった。
 霞や霧や雲のようなつかみ所のなさである。
 耳の垂れた兎を抱え、男は特徴のない顔に、微笑を散らしていた。
「鵺は、恐ろしく強いという点を除けば、簡単な事件でありましたので。都の陰の気が形を成す事は、わかっていたことです」
「お前の出番はなかったと」
「私は楽をしたいのですよ」
 兎がこほんと咳をした。
「……これは?」
 金長は訝しげである。
 胡散臭い男だものなと酒呑童子は思った。
 この男の姿を見たのは随分と久し振りである。
 子供の頃から怪しげで、長じてより怪しくなった。
 付き合いのある自分ですら胡散臭いと思うのである。金長さにとっては、如何ほどのものであろうか。
「大変面倒ですね。ええ、とても。さて、説明の前に、質問を一つ。酒呑童子殿は、女媧という神を知っていますか?」
女媧? ああ、唐の神だったか?」
「さすがは西の鬼の王、大変良くできました。少し楽ができます。女媧という女神は、厄介でしてねぇ。私とは、少々縁がありまして。この地の異変は、その神の力によるものです」
「異国の神が相手か」
「神の力、そう言ったはずです。神と力は、別に考えればよろしい。力を使っているのは、狐ですよ」
「……苛々する」
「どうして狐とわかるのです?」
「どうしてって、私は半分狐ですから。どうしてもわかってしまうのですよ」
 そう晴明が言ったので、尋ねた金長は唖然とした。
「都で吹聴されている噂です。一応、有名なんですがねぇ」
「え、噂」
「どちらでしょうねぇ」
 金長は、狐の尾を目で探ったが、それらしきものは見つけられなかった。
「異国の女神の力を、異国の狐が使って、九州をこの有様にしたと?」
「もう一つ、要因があります。そのおかげで、とても面倒です」
「なんだ?」
「出雲に封じられているはずの、あの方の力を、感じます」
 晴明が、狐のように眼を細めた。
「出雲に封じていたあの方を奪われたとあっては、誇り高い天津神は動けませんよ。動けば奪われたと認める事になる。そんな情けない事を認める事は出来ない。だから、動かない。見て見ぬ振りをする。真実に目を背け、幻想に浸る。真を嘘と呼び、嘘を真と呼ぶ。彼らは数多の失態を侵してしまった」
「……待て。何だ、それは?」
「貴方の、貴方と鬼姫のよく知る御方が、出雲と一戦交えたときに、事は起こっていたようですよ。そこからして、失態なのです。わざわざ半ば眠っている御方を引っ張り出す事はなかった」
 酒呑童子の脳裏に、翁の姿が過ぎった。
「……何が起きるのだ?」
「何でも起こせるでしょうねぇ」
 そう言うと、
「だから、とても面倒です」
 欠伸を噛み殺し、固まってしまった酒呑童子と金長の表情を見比べた。
「あのような事も平然と起こる」
 大地を埋め尽くす、骸の軍勢。
 楚という字が刻まれた旗が、喊声をあげるように翻っていた。
 
 
 
「窮奇が死んだ、だと。ふむ、手駒が次々となくなっていく。どうだ、姉上。我の手駒になってはくれぬか?」 
「……」
「可愛い弟が頼んでいるというのに、無視を決め込むか」
 山ほどもある大きな獣が、向かい合っている。
 金毛と銀毛が、日の光を鮮やかに反射していた。
 傷ついた巨大な狐が、蹲っていた。
 同じほどに巨大な狐が、嗤いながら言った。
「愚かな……」
「愚か?」
「あの女の力を借りるとは、そこまで堕ちたか。あの女が妲己様に何をしたか、忘れたのか? 妲己様の、首を刎ねられたお三方の亡骸に、お前は泣いて縋ったではないか」
 傷ついた狐――玉藻御前の瞳に、憤怒の色が灯った。
 身動ぎし、苦痛で顔を歪める。
 その身体のあちこちには、紫色の痣――葉子の傷痕に残る色が広がっていた。
「確かに、我ら姉弟を育ててくれた三姉妹が死んだのは、女媧のせいよ」
 懐かしむような声に、玉藻御前は唇を剥いた。
 その声の何処にも、憎悪を感じられなかったのだ。 
「だがなぁ、あの女神の力は、忌々しいが、素晴らしいのだよ。あの女神の力を借り、美侯王を創ってみたのだが、これが良くできていてなぁ。それではと四凶や面陵王を創ってみたが、どうも物足りぬ。所詮は、紛い物なのだ。良くできていたが、何、姉上の眷属を打ち倒すぐらいなら造作もないが、姉上を打ち倒すことまでできはしない。それでは――駄目なのだよ。我は、この借り物の力を、真にしたいのだよ」
「……お前は、馬鹿だ。足ることを、知らぬ」
「金咬を失って、自分で考えられる手頃な手駒がいないのだ。色々と役には立ったが、どこで死んだのやら……姉上を殺して手駒にすることもできるのだよ」
「やればいい」
 玉藻御前は、目を瞑った。
「私はお前を止められなかった。肝心なときに役に立たなかった。だがな、私の可愛い愚かな弟よ。過ぎたる力は身を滅ぼす……この世の不文律だ」
「我の創る世界にも、その言葉は残しておこう」