あやかし姫~跡目争い(36)~
「なるほど、これは興味深いですね」
中肉中背の亡者の後ろに、男が一人立っていた。
周囲の亡者は、忙しなく動いているというのに、冷笑を浮かべる男に目を向ける事もしなかった。
三つに分かれた亡者達。その一つの中心である。鬼や狸も、堅く阻まれ、ここまで達する事が出来ていない。
「どちらが効くのか――そう思案していたのですが、この国の呪の方が効果的なようです。一つ、勉強になりました。苦労してここまで来た甲斐があったというものです」
ありがとうございますと頭を下げる晴明に、その亡者は顔を向けようとした。
相貌に刻まれた傷痕に、長い戦歴を伺える亡霊の身体は、じっとりと濡れていた。
水気を帯びているのは一人だけである。
一帯の亡者は、この男をのぞき、具足も屍体も土にまみれていた。
「苦労ついでと言ってはなんですが……貴方に一つ、尋ねたい事があるのですよ」
ああ、そのままにと晴明が言うと、首を向けようとしていた亡者の動きが止まった。
いつも通りの小馬鹿にした物言いに、飄々とした笑みのまま。
戦場にあっても、味方が苦戦していても、晴明の表面は変わらない。
ただ、亡者の背に置いた指先から、汗がしたたり落ちていた。
「何故、貴方は、あの方に従うのです?」
その囁きに、亡者は戸惑いを見せた。
亡者が動かした視線の先に、鬼の女と争う偉丈夫の姿がある。
互角の戦いに、晴明も、亡者も、しばし目を奪われた。
「なるほど、あの方は偉大でありましょう。まさしく英傑でありましょう。しかし、貴方も、貴方が率いる精鋭達も……あの方に従うべきなのでしょうか」
周囲の亡者達が、晴明の言葉に耳を澄まそうとするかのように、動きを止めた。
波紋のように、静止する亡者は広がっていった。
「さぁ、私の問いに、答えて頂きますよ――あの滅びを迎えてなお、あの方に従い続けるのですか? 貴方も、貴方の戦友も、誰のために戦い続けたのですか?」
晴明は、言葉を与えた。
万能の力が込められているものではない。鬼姫には何の効果もないだろう。あの英傑にも効かないだろう。
ただ――この男には、効くと見た。
命を賭ける価値が、この問いかけにはあると思った。
楚と書かれていた軍旗の一つが、はたりと落ちた。
一つ、また一つ、軍旗が落ちた。
亡者達は、地に伏した軍旗に目を落とした。
そうして、誰かが、軍旗の一つを手に持った。
新しい旗を、手に持った。
沙羅は謝りたかっただけである。
彩花がなぜここにいるか考えるよりも謝りたかった。
強力な術を使おうとした彩花がいて、誰かに――葉子に似ている知らない女の人がいて、微笑を浮かべる火羅がいた。、
「ひ、火羅さん……元気? 火羅さんも、ごめんなさい」
悔いていた。
悔い続けていた。
火羅の力になれなかったことを。
彩花の力になれなかったことを。
故郷に戻り、みんなを説得しようとしたけれど、無理だった。
彩花のことを知らないくせに、火羅のことだって本当は知らないくせに、誰も耳を傾けてくれなかった。
変わり者だと嘲笑われ、そのうち気味悪がられるようになって、ついには牢に入れられて、鬱々と過ごしている内に、あの日がやってきた。
牢が壊れ、どうしたのだろうと外に出ると、見知らぬ妖がみんなを襲っていた。
強くて――とても強くて、沙羅は逃げるしかなかった。
子供達の手をとって、悲鳴を背に、逃げた。
子供達の手をとったのは、多分、あの人の手伝いをしていたからだろう。
誰も彼も自分のことに精一杯で、弱い子供達を気に掛けたのは沙羅だけだった。
逃げて、隠れて、誰かが助けに来てくれるのを待って、そうして彩花が現れた。
「沙羅ちゃん……沙羅ちゃん、か。近くの川に棲み着いた、河童の娘。なるほど」
「さ、彩花、ちゃん?」
「わかる?」
「わ、わかる? 何がわかるの?」
「私がどんなに心細かったか……私がどれだけ怖かったか、沙羅ちゃんに、わかる?」
「……ごめんなさい」
「ご、ごめんなさい、私、私も、彩花ちゃんの」
「どうして、出てきたの?」
「それは、謝り、たくて」
「……そう。でも、いらない」
見た事のない笑みを、彩花は浮かべた。
「沙羅ちゃんも、後ろにいる虫けらも、私は、いらない。私が欲しいものじゃない」
「誰?」
そう、沙羅は言った。
彩花が唇を尖らせた。
「彩花です」
「彩花ちゃんじゃない。彩花ちゃんは、そんなこと、言わない」
「私に、謝りたかったんじゃないの?」
「……許してくれないのは、いい。私の知っている彩花ちゃんなら、そう言うかもしれない。でも、む、虫けらとは、言わない!」
古寺の小妖達全てに名前をつけ、穏やかに賑やかに暮らしていた彩花の言葉とは思えなかった。
「彩花、じゃない? 彩花は、そんなこと、言わないの?」
笑みが崩れた。
沙羅は固まった。
彩花は時々、怖い表情を見せた。
彩花ではない、誰かの表情。
この、表情だ。
「私は彩花だよ?」
あの人を――彩華を喰らって、彩花は一人になったんだよ。
「彩華」
火羅が呟いた。
葉美が、うんと視線を向けた。
葉美にとって、河童の娘がどうなろうが取るに足らぬこと、つまりは茶番に過ぎなかった。
どうやら二人は知り合いのようだ。
九尾と事を構えた際、仲違いしたらしい。
そして、この娘は、殺そうとしている。
一見、感情の赴くまま振る舞っているようで、どこかがおかしいと思った。
ぎこちなく、嘘くさいのである。
姉に競り勝った直後の自分のようだ。
九州を手にしようとした玉藻御前のようだ。
河童の娘を見たとき、人の娘は表情を消した。どんな感情を発露すればいいのか戸惑っているようだった。
「お前……知り人のようだから、泣きもするか」
病の従者のために医者を求め、一人で飛び込んできた姿を思い出した。
あの時も火羅は泣いていた。
つい最近のことなのに、遠くのことに思えた。
「いなくなっちゃえ」
そう、彩花が言った。
沙羅は、動けなかった。
動かなかった。
後ろには、子供達が身を潜めている。
「こ、子供達を守るのは、先生の努めだよね――月心さん」
また、あの場所に戻りたかった。
頭巾だって、小川の底に置いてきた。
好きだった。
ごめんなさいと、沙羅は言った。
彩花の指先に集った黒い火が爆ぜた。
「いなくなってくれた?」
火。
黒い火。
消し飛んだ。
白い塊が、河童の娘の上に乗っていた。
黒い火の粉が舞い散る中、金に、銀に、二つの強い光があった。
双眸である。
金銀妖瞳である。
葉美は、畏れを抱いた。
妖怪が忌み嫌う眼の色だ。
「あ、ああ――逢いたかった、逢いたかったよぉ」
――太郎さん。
満面の笑みを湛えた少女は、そう、言った。
「会いたかったよ、姫様」
妖狼は、そう、応えた。