小説置き場2

山岳に寺社仏閣に両生類に爬虫類に妖怪に三国志にetcetc

あやかし姫~跡目争い(終)~

 当て所なく彷徨い、過ぎ去る時を見送った。
 何事にも関心を持たず、酒を酌み交わした諏訪の大神が追いやられた時も、同じ源から生まれた土蜘蛛が数を減らした時も、胸に湧き出る感慨はなく、枯れた姿のまま放浪を重ねた。
 神は栄え、人は増え、気づけば自分の身体の上に、数多の命が生み出されていた。
 いや、それはもう、自分の身体ではなかった。化身であったのは遥か昔、同族たちが柱を名乗り、自分はその役目を終えたていのだ。
 ふと目に入った川で垢を流し、どれだけ彷徨ったのかと指折り数えた。
 水面に映る見覚えのない顔。
 白眉に白鬚、肌には皺、その姿は髑髏のようであった。
 他の兄弟たちも、幾年ぶりに目を覚まし、口々に好きなことを言い合った。舌はもつれ、言葉は怪しい、それでも、はっきりと聞いた久々の言葉。
 兄弟たちと、姿の見えぬ末の妹に声をかけ、いないのだと思い出した。
 末の妹が、あの海神に付き、酒に細工をしたと知り、逃げるように出雲を後にしたのだと思い出した。
 もはや哂うしかあるまいと、兄弟たちと語りあった。
 どうして彷徨いだしたのか、その理由さえ忘れていたのだ。
 顕現こそしなかったが、長年の汚れを落とすには、その川は小さすぎた。
 あまりの汚れの量に、怒り狂った川の主を、ついつい八つ裂きにしてしまった。
 どうしたものかと考えていると、人の行列が現れた。随分と飾り立てていて、輿の娘は泣いていた。聞けば、川の主に子供を捧げにきたという。
 ちっぽけな川の分際で、生意気にも氾濫を興し、その度に人身御供を求めたのだという。
 主は殺したばかりである。誤魔化し、宥め、言い包め、この祭事に意味はないと納得させた。枯木のような姿も、役に立った。厳しい修行を重ねたと、自嘲すると、平伏したのだ。
 仕舞いの喜劇は、川の主の屍を利用した。嵐の夜、八つ裂きにした蛇を、今度は両断するだけである。
 それから、彷徨う気がなくなったので、小高い山の頂きにあった寺に住むようになった。真新しいが、主はいなかった。聞けば、わざわざ招かれた徳の高い僧侶は、川の主を鎮めようとして失敗したそうだ。
 僧侶が何なのか、その時初めて知った。
 寺に住むようになったからといって、何をするでもなかった。
 たまに遊びに来ていた贄の娘は、大きくなり、子を成し、老いて亡くなった。亡くなる前の日まで、娘は寺を訪れていた。次の日、娘の子が来て、亡くなったことを告げた。
 唯一、手入れをしてくれていた贄の娘がいなくなったので、寺は荒れ放題となった。
 蔦は絡まり苔は茂り、気づけば放置していた器物に魂が宿り、古寺は小妖達の巣窟となった。もしかしたら、その前からいたのかもしれない。しかし、娘がいなくなってから、急に増えたのは確かである。
 喧騒に耳を傾けることなく、うつらうつらと過ごしていると、古寺に狐が迷い込んだ。
 異国の血が混じった狐は怪我をしていて、何より疲れていた。
 気紛れに怪我を癒してやった。すぐに出ていくと思ったが、何故か狐は住み着いた。住み着いて、あれこれと世話を焼くようになった。それを咎める筋合いでもないので、好きにさせた。
 狐は、自分に興味を惹かせたかったのか、色々と語って聞かせた。あの娘のようだと思った。一体、どんな世の中になっているのだろうと、あの娘の話を聞いて村を訪ねたように、昔の知己を尋ねるようになった。
 世の中は変わっていた。
 変わらないものもあった。
 狐の次は、狼が迷い込んだ。狐は、狼の瞳を見て嫌がったが、構わず世話をしてやった。
 狼も何故か住み着いた。話し相手が増えるのは狐にとってよいことだろうと思った。狐は、散々二人が良いと言っていたが、結局は狼に根負けしていた。
 いきなり、憮然とした烏天狗が現れ、目の前に書状を突き付けた。
 狼と烏天狗がじゃれ合っている間、狐と一緒に書状に目を通した。大天狗の直々の頼み、暴れ者を改心させてほしいという。
 師弟が何かよくわからなかったが、二人の争いを一喝すると、烏天狗は平伏した。
 怠惰な時を四人で過ごし、そしてあの子がやってきた。
「どうでもよいことじゃの」
 そう、どうでもよいことだった。
 狐――葉子がどうなろうと、狼――太郎がどうなろうと、烏天狗――黒之助がどうなろうと、どうでもよいことのはずだった。
 まして、僅かばかりの時を過ごしただけのあの娘など。
 しかし、葉子も太郎も黒之助も、あの娘と暮らし、変わっていった。
 そう、冷ややかに眺めていたはずの自分も、変わっていった。
 末の妹が切望し、あの娘が嬉しそうに語り、狐が寂しそうに話していたもの。
 姫様として、手に入れてしまった。
「怖い子じゃ、恐ろしい子じゃ――可愛い子じゃ。全く、のぉ」
「頭領……」
「さて、お前は……どの、彩花じゃ」
「古寺で育った、彩花です」
「じゃろうなぁ」
 
 
 
 翁が倒れていた。
 頭領だった。
 玉藻御前もいた。
 二人だけだった。
 争いの跡があった。
 まだ新しい凄まじい痕跡だった。
 言いたいことがあった。それが何だったのか、姫様にはよく思い出せなかった。
 ただ、大きな声で、意味をなさぬ言葉をあげた。
「終わったの、ですか」
 頭領は戦ったのだ。自分との戦いで傷を負ったのに、無理を押して戦ったのだ。
「肝心の黒狐に逃げられてしもうたよ。今のわしでは止めを刺しきれなんだ。もう一息――二息だったかの」
「どこにそいつは逃げたんだ? そいつが頭領をこんな目にあわしたんだろう……ぶっ殺してやる」
 太郎が息巻いていた。
「太郎には関係あるまい」
「ああ!? 大有りだろうがよ! あんたには、言いたいことがある山ほどある、山ほどあるが……あんたは俺の命の恩人なんだよ」
「薄い縁じゃ」
「薄くねえよ、薄いわけあるかよ」
「葉子も黒之助も何か言いたそうじゃの?」
「それは、姫様に任すさよ……無事でよかった。貴方が無事で、本当によかった」
「頭領には、まだまだ教わりたいことがあります」
 葉子が泣きだした。黒之助は仏頂面で喜色をかみ殺していた。
「お主はどうじゃ? 恨んでおるのではないか?」
 姉に、頭領は言った。
「恨まれたいのか? なら、恨んでやるぞ? ……今はどうでもよい。恨みがあるなら、さっさと晴らしておる」
「頭領……帰りましょう。いえ、私が言うのは、おこがましいことだと思います。私が頭領を傷つけてしまった。私なんかを育てなければ、こんなことにはならなかった」
「お前達がいてくれたおかげで、面白き世になったのは間違いない。礼を言わねばなるまいよ。あやつらの考えがずっとわからなかったが、お前がいて、お前達がいて、少し、わかったように思う」 
 後悔するなよと、頭領は太郎に言った。
「そもそも、おこがましいのは彩花の物言いじゃな。それはちと傲慢ぞ。古寺に戻ってから……覚悟せい」
「……はい」
「八霊様……それで、チィはどこへ行かれましたか?」
陰陽頭か。酒呑童子も面倒な奴を連れてきおって」
「此度の件にはお上が大変な興味を抱いております。勿論、妖怪風情の争いですので、放っておくのが筋なのですが……そんなことより、大国主命は何処に?」
「それよ。彼奴と一緒に逃げられた」
 頭領はこともなげに言ったが、鬼ヶ城から降り立った面々は色めき立った。
「あんた、何しれっと言ってるんだぞ!? あれは駄目だぞ! あれは……良くないぞ」
「困りましたね……大変に困りました。あちらの神の力とこちらの神の力が混ざるということですか」
「封印を解く力なぞ、あの狐にはあるまい。それぐらいには傷つけた」
 視線を向けられた玉藻御前が、疲れた表情で頷いた。手と足と首に枷をつけられ、満足に話すこともできないようだ。いい気味だと思う自分が姫様は少し嫌だった。
 そして、自分も火羅を傷つけたのだと思い直し、そんな資格はないのだと思った。
 本当に嫌な人間である。
「さすがは八岐大蛇」
「八岐大蛇? この方が、須佐之男命に征伐されたあの大蛇?」
「ええ、そうですよ。草薙の剣をお貸ししたのが、初めての出会いでしょうか」
「征伐ではないがの」
 頼光と綱姫を見て、頭領は苦笑した。
「これだけの面々がいれば片付けるのは容易かろう。老人は去るとするかの」
「いや、容易くはあるまいよ」
 彩華は、言うと同時に姫様と火羅を庇った。
 姫様は、黒い大きな狐を見た。
 狐というには随分と歪だった。
 無数の屍を体内に宿し、樹木に絡まれた、醜悪な姿。
 金色の瞳と銀色の瞳が鮮やかに光っている。
 鬼ヶ城のてっぺんに現れた狐が一吠えすると、酒呑童子が色を成した。
 衝撃が起きる。幾重にも衝撃が起こる。鬼ヶ城が消し飛んだ。
 その光景を、太郎の腹の下、粉々に砕け散る彩華の結界の中で見た。
 朱桜が瘴気で壁を作り、衝撃を押し殺す。太郎の身体が浮き上がりそうになった。
「どこにあんな力の源が」
「あ、あそこには、光君たちが、白月ちゃんだって、いっぱい、いっぱい」
「葉美!?」
「……義兄上?」
 鬼ヶ城がなくなった。
「沙羅ちゃん? 稲荷君? 光君? 白月ちゃん? 大獄丸様? 桐壷さん? ……嘘」
 西の鬼に、四国の化け狸、九尾の残党。
 あの城には、たくさんの妖怪達がいたのだ。
「おう。危なかったな、おい」
「お城がなくなったよ?」
「本当じゃのぉ」
 皆の無事な姿を、呆気にとられていた姫様は見やった。
「まとになると思って空にしていたが……城がなくなったと知ったら星熊が泣く」
酒呑童子様」
「父上様!」
「壊されたのは外側だけだ。それにしても……随分と醜悪だな。まるで彩花ちゃんのようだ」
「何と、彩花姉様に失礼なのです!」
 朱桜が憤りの声をあげた。
「……ずっと思っていたことだ。彩花ちゃんは、醜悪で、愛らしい。あれは、醜悪なだけだな」
「九尾の狐、大国主命、ああ、そうか。項羽を喰ったのか。私の手で殺したかったけど、仕方がないから代わりに殺すぞ」
 鈴鹿御前が呟いた。夫と義兄が恭しく捧げた刀を掴み、鬼姫の名に恥じぬ力を発した。
鈴鹿、武運を」
「無茶はしないでおくれ」
「ふふぅん、まだ、見たいものもあるし、無茶はしないぞ」
 そう、桐壷を見て、鈴鹿御前は言った。
 大獄丸に寄り添う桐壷の姿に、姫様は察するものがあった。
「あれを鎮めて此度の件も仕舞い、よい旅路でありました。これで人の世はますます栄えましょう」
「……お前は嫌な奴だ」
 綱姫が言った。
「はて、私が好い奴であったことがありましょうや」
 晴明が十二の式神を従え、綱姫が童子切を構えた。
「朱桜……は、聞かぬよなぁ」
「叔父上様と、彩花姉様と、そして、そして……恨みを晴らさずにはおれませぬ」
「さすがは我が娘よ」
「朱桜ちゃん……また、遊ぶんだよ。嘘ついたら針千本だからね」
「わしも後ろで応援するからの! 頑張るんじゃぞ!」
「あはは」
 朱桜は、姫様を見やった。寂しそうに笑うと、光と白月に頷いた。
 鬼の親子が背中合わせになる。
 一匹は醜く、一匹は美しく、そして、とても似ていた。 
「狸は、静観か」
「いえ、結界を張ります。貴方達狐の尻拭いとは、どうにも気が進みませぬが……そうしなければ、この地も危うい。ただでさえ不安定だというのに」
「それは、稲荷か」
「妻の義弟だそうですよ」
「女の子に見えるが?」
「そうしないと、まずいのです」
「もはや、私には関係ないか。弟の後始末を他人に押し付けた私に、九尾をまとめる資格はない」 
「おや、貴方は面の皮が厚いと思いましたが」
「そうではない……それに、あの時点で譲ってしまえばよかったのだ」
 狸が鼓を打つ。
 九尾の狐が力なく嘆いた。
「何か考えがあるのか?」
「姫様、何を考えている?」
 彩華と太郎が言った。
「……姉様、太郎さん、あの方には勝てません」
「はっきりと言うたな」
 彩華は哂ったが、目が真剣だった。多分わかっているのだ。双子である。同じ体に長くいた。
 いや、自分よりもずっと聡いのだ。
「勝てるわけがない。在り方は私と同じでも、一つ一つが強すぎる。でも……ばらばらに出来るかもしれない」 
「国造りの力か?」
 太郎は、鋭かった。
 太郎はいつだって、姫様に関わることには鋭かった。
「私の中に残っている国造りの力を大国主命に返します。そうすればあの均衡は崩れる。崩れてしまえば私たちの様に、互いに潰し合うだけです」
 彩華が苦い笑みを浮かべる。
 自身で姫様の中の均衡を崩し、火羅を巻き込んで襤褸のようになったことを思い浮かべたのだろう。
「賭けよなぁ。それに、釣り合いが合わぬのではないか。お前は、妾に……お前」
 争いはすでに始まっている。
 そして味方は不利だった。
 大妖二匹に、大妖に匹敵する鬼の娘と人の剣士、それに陰陽頭が参戦し、化け狸によって有利になる結界の中にいるのにだ。
「これしかないと思います。だから姉様、馬鹿なことは言わないでください。私はまだやりたいことがたくさんありますから。火羅さんと温泉にだって行っていませんしね」
 火羅が口を押えた。
 気づいたのだろう。
 朱桜も気づいている。
 葉子に、首を振った。
「姫様、あいつは放っておいてもいいんじゃないか」
「さっきは頭領の仇を取るって言ってたのに」
「とりてぇよ、だけど、姫様がそんなことしなくても」
「色々と迷惑をかけてしまいましたし……放っておけば私の大切な人々をもっと傷つけるでしょう。それは、絶対に嫌です」
「……背中に、乗るか?」 
「お願いします、太郎さん」
「拙者となずなが道を拓く」
「勝手なことを……昔から黒之助はそうだな」
 黒之助となずなが錫杖を交わし、呪言を唱え始めた。
 黒之助の低音となずなの高音が響き合い、妖気を織り上げていく。
「彩花さん……少し、熱いわよ」
 火羅の目が赤黒く染まっていた。彩華と同じ色の瞳である。
「ちょうどいいですよ、火羅さん」
「そうね、親友のお願いだもの、聞いてあげるわ」
「妹の願いじゃ、叶えぬわけには、いかぬでな」
 彩華が口を挟む。
 意識のない黒狐。
 妖怪であり、神であり、人であり、そのどれでもないもの。
 酒呑童子の醜い現身が、鈴鹿御前の三振りが襲い掛かる。
 式神が十二の術を束ね、綱姫の斬撃がその身体を捉える。
 身悶えすらなくその攻撃を退け、張り巡らされた結界をも砕こうとする黒狐に、数多の錫杖が突き刺さった。
 巨大な炎と黒い瘴気がその反撃を封じ込め、白い九尾と艶やかな少女が先行きとなる。
 一瞬。
 あの存在に触ればよいと、彩花はふんでいた。
「私には過ぎた力です……どうか、お返しします」 
 錫杖を、炎を、瘴気を振り払う。
 白い狐が霧となり、艶やかな少女が変化する。河童の起こした水の流れが金銀妖瞳を眩ませる。
 一筋の、僅かな道であった。
 一匹の蛇が、姫様と太郎を身を挺して庇った。 
「足りない分は、私の命を与えましょう……どうか、鎮まりください」
 そう、足りない。姉に押し付けていた我慢の分だけ足りない。だから自分の身を削る。
 それだけの簡単なことだった。
 姫様が光を押しあてた。
 黒い狐は身震いした。
 それからはらりと崩れ始めた。
 屍が落ちる。
 樹木が枯れる。
 英雄の屍が落ちてゆく。その首を、鈴鹿御前が見事に刎ねた。
 樹木に囚われた荒神を頭領が支え、ただ一人、男が呆然とそこにいた。
「チィ」
「姉上……どうか、助けて。やっと妲己母様を、皆を」
「ごめんね、チィ」
 玉藻御前の爪が、黒衣の男の胸に刺さる。
 狐の弟が、ゆっくりと死んだ。
「ごめんな、チィ」
「やはり、あの娘はこちら側に」
「晴明、やめておけ。あれはあやかし姫……こちら側の娘よ」
 鬼の王が言い、鬼の姫が頷いた。
「そうですか」
 
 
 
 皆の身の振り方を決め、古寺はまた騒がしくなった。
 姉と火羅の住処を決め、稲荷の主従の世話を葉子に任せた。
 姉はすぐにいなくなり、寂しげな火羅を朱桜がからかっていた。
 騒動をある程度収めた頭領は、また姿を消した。姉とは、親しくしているようだ。考え方が似ているのかもと、火羅は言っていた。
 二人とも謀が大好きで陰険なのですと言った朱桜には、きつく言い含めておいた。
「戻ってきたのですね」
 庭の見える居間に、姫様は身を横たえていた。
「戻ってきたんだよ」
 太郎が、布団の中で、手をしっかり握ってくれていた。
 人の気配を感じ、太郎は手を離そうとしてきたが、姫様は離さなかった。
 村の小川には、河童の一党が住むようになった。沙羅は、自分の正体を月心に明かした。月心は、とうの昔に気づいていて、何を今さらと呆れていた。
「ひーめーさーま! 見てよ、このめんこい子を」
 葉子は、その隻腕に、姪を抱いた。
 何日かに一遍、便りが届いている。今日も葉子は、その報せを姫様に見せにきた。
「葉美に似て美人になるか、木助に似て凛々しくなるか、どっちにしろ可愛い姪さね」
 あの騒動の中、木助は生きていた。今は九尾の残党を率いている。
 そういえば、姉は、火羅の望み――西の妖狼がどうしていくのか見届けるために、九州に向かったようだ。表舞台に立たないと決めても、行く末は気になるようだ。父親が儚くなっていても、火羅はこの古寺に戻ってきた。それでも、生き残っていた同胞に、未練は残していた。
「葉子殿、姫さんの近くで騒がしくするなとあれほど」
「クロちゃんの方が煩いさよ」
「お前ら二人ともだ」
 黒之助は古寺に残った。
 なずなさんもこちらに来た。近くの山に住み始めている。早速、白鷲の化身として、村の人たちに崇められているようだ。不本意だと言っていたが、黒之丞さんいわく、満更でもないらしい。
「はぁ? 何さね太郎のくせに」
「そうであるな、太郎殿のくせに……全く姫さんの保護者面をして」
「……保護者じゃねぇし」
 太郎が、うつむいた。
「俺と姫様は……えっと、なんだその顔! お前らあっち行け!」
 二人の凄く悪い顔を見てしまった。
 それから、凄く怖い火羅さんと朱桜ちゃんの顔を。
「火羅さん、朱桜ちゃん?」
「お薬の時間なのです。この間抜けが手を出さなければ、もっと早く準備できたのに」
「何よ、棚に届かないでいたから、手伝ってあげたのに」
「届きましたよーですよー」
「ぴょんぴょん、跳ねていたくせに。もう少し背を伸ばしなさい、このお子様」
 薬は気休めである。
 大して効くわけでもないが、それで皆の気が済むならと飲んでいた。
「どうですか?」
「少し、楽になりました」
「……よかったのですよ」
「朱桜ちゃんは、こっちにいて大丈夫なの?」
「彩花姉様の傍にいた方がいいと、父上様が判断したのです。だから私は堂々とここにいるです」
 弱体化著しい西の鬼は、東の鬼とある交渉を重ねていた。それがまとまると、朱桜はあまり古寺に来れなくなる……鈴鹿御前様や酒呑童子様はよく来ていたから、そうでもないか。
「いい、彩花さんは調子を崩されてるの。私が遊んであげるから静かにしなさい」
「嫌です、黒之助さんと遊んでもらいます」
「この!?」
「火羅、姫様の傍で暴れないの」
「だって、葉子さん」
「駄目さよ」
 声なく、笑う。
 退屈しない。
「ねぇ、葉子さん……あの人は」
「チィ様のこと?」
「寂しかったのでしょうか」
「そう、玉藻御前様は、言っていたさよ」
「そうですか」
 少し、あの人の記憶に触れた。
 少しだけである。
 真っ直ぐだった。
 その真っ直ぐさだけは、感心した。家族を取り戻そうという、想いだけは。
 大嫌いで、本当に大嫌いで……そこだけは感心した。
 ただ一心に、異国の地で謀を巡らしたあの九尾に、感心した。
「私も、同じことをするかな」
 いや、するだろう。
「皆さんは駄目ですよ」
 笑いながら言ったが、誰も頷いてくれなかった。
「よ、弱気にならないでよ」
「弱気になっては駄目なのですよ」
 ああ、そうか。
 そうだろうな。
「幸せ、ですね」
 そう、姫様は言った。
 庭に残った残雪を見ながら、姫様は静かに残されたものを噛み締める。    
 太郎と絡めた姫様の指が、解かれることはなかった。