あやかし姫~猫(8)~
削ぎきれると、思った。
真達羅という妖虎は、自分を捕えられない。
虎面人駆の身体は満身創痍である。
大きな盃を杖代わりにして立つのがやっとに見えた。
「こすい手を使いおって。堂々とわしの前に立たぬか!」
「堂々とは、何だ? お前の得意な戦い方で、俺の不利とわかる戦いをやることか? それがお前の正々堂々なのか? 自分の盤上で戦えとは、随分とこすい手を望むものだ」
「この、小物めが!」
「その小物に嬲られているのは誰だ。喚きながら、逝くがいい」
「がぁあああ! 殺してやる! この地の土地神も、それに供する者達も、全て! 貴様も、逃げた神使も、人の子も!」
土地神を連れて逃れた狛犬、一緒にいる筈の白蝉――知っている。こちらが気づく前に、気づかれていた。小技に長けているようには見えない――むしろ、不得手だと思うが、黒之丞の大切なものを知っていて、戯けたことを言っている。
「だから、殺すのだ」
獰猛な咆哮、一瞬のうちに痩身の男の懐に入り、強烈な突きを放つ。真正面で対応するのは難しい。現に黒之丞は腹部を貫かれている。
黒之丞の薄皮一枚に、必死の形相で襲い掛かっている妖虎を、くつと嘲う。
そして、自身の蜘蛛の脚で、虎の脚を狙った。
何度も脱皮を繰り返して、肌は真新しくなっている。黒之丞は、霧状に吐いた糸に隠れ、滓かに妖気を帯びた自身の薄皮で妖虎を弄んでいた。
こういう、策を好まない相手とは、何度も戦っている。それこそ厭きるほどに――厭きなかったのが、不思議である。
「黒之助は、もっと強い故、か」
膝をついた。
そろそろ、潮時だろう。
「名を、名をきかせろ!」
答える必要があるのだろうか。
「黒之丞」
「黒之丞? 京を騒がせた、三妖怪の一人……天狗の秘宝を奪って、逐電したと聞いていたが、そうか、ただの歳経た蜘蛛の精が、これ程の力を持つというのも納得がいったわ!」
真達羅が、呵々と、大きく哄笑した。
自らを納得させるように、奮い立たせるように。
天狗の秘宝は、黒之助が砕いている。
厭な記憶だ。
そして、腹が立った。力の差を理解しようとしない。これは、自身の力だ。磨きぬいた、黒之丞自らの力だ。
「天狗の秘宝の力で、息巻いているというのだな。よかろう、なれば、わしがこの力を使っても何の卑怯さもあるまい!」
巨大な盃に、赤い酒が満たされている。
禍々しい神気が、溢れ出ていた。黒之丞は、丸い、大きな瞳を見開き、ひたと動きを止めた。
それは、呼吸にして、一拍ほどであろうか。
大妖怪玉藻御前に抗った剛の者が、足を止めた。
何としてでも妨げなければと頭ではわかっていたが、身体はついていかなかった。
「こ狡い蜘蛛よ、その浅はかさを悔いるがいい。こうなっては、止まらぬぞ」
赤い酒を飲み干す。
男の傷が癒える。
白い薄布を纏った偉丈夫。
黄金色の鬣を蓄えている。
男の息は、火焔となっている。足元の草が、次第に枯れ、腐っていく。
その両手に、炎が浮かび上がる。
うねる両の炎は、蛇を模った黄金色の杖になる。
この地の装束ではないと、黒之丞は思った。
大陸渡来の触れ込みの宝物を、何度か見たことがあるが、それとも違う。
唐よりも、もっと向こう――それこそ、天竺や、その果てにあるといわれる国々の装束ではないのか。
「これが、我が宝具、我が力よ」
虎は消えた。
獅子がいる。
蜘蛛の糸で織りなした霧が、燃える。
黒之丞の肌を、赤々とした炎が舐っていく。
「我が名は真達羅、炎と病に抱擁されて死んでいけ」
「鎮守の森で、争い?」
「姫さん?」
「……黒之丞さんが誰かと揉め始めたみたいです」
「あの短気者は。検非違使がいるから気をつけよと伝えたばかりなのに」
姫様は、胸騒ぎがした。
葉子が、本当にさねぇと、のんびりと言った。
太郎が、怪訝そうな表情を浮かべる。
居間ではゆったりとした空気が流れている。それが、姫様の焦燥感を煽った。
「黒之助さん、見に行っていただけませんか?」
「む? 拙者には何も感じませぬし、姫さんが心配することの程ではござらぬよ。大方、羽矢風の命殿と戯れているのでござろう」
「ちょっと、そんな怖い顔をしてどうしたのよ?」
「彩花姉様、どうしたのですか?」
彩花の背を何かが這いずった。
これだけの妖気のぶつかり合いを、心配しなくてもいいとは、黒之助の言葉とは思えなかった。
いや、黒之助だけではない。
朱桜や火羅も、何も感じていないようだ。
「違う、感じられなくなっているのですか。そんなことが」
朱桜を見やり、小首を傾げる幼子に、姫様は戸惑った。
「どうした、姫様、そんなに慌てて」
「黒之丞さん、すぐに黒之丞さんのところへ」
猫、か。あの猫が関係があるのか。わからない。わからなくても動くしかない。
頭領と姉はいないが、ここにいるのは、頼りになる家族。
黒之丞だって、沙羅だって、姫様にとっては家族なのだ。
「どうした、黒之助。何処かへ出かけるのか?」
なずな、である。
何時も無関心かつ無表情な白天狗も、居間に流れる戸惑いの空気を感じ取ったらしい。
「うむ、姫さんが、黒之丞が揉めているから様子を見てこいとな」
「揉めている? 糸が鳴ったのか?」
「糸は鳴っていないが」
社と古寺は離れているため、黒之丞の糸を使って連絡が出来るようにしていた。
それがあったと、黒之助が言う。糸は静かなものだった。
「妙な夢を見て、気がたっているのではないか。気持ちを落ち着かせた方がいい」
なずなが、穏やかに言った。
姫様は、意外に思った。なずなは壁を作って暮らしていると常々思っていた。
朱桜が意外そうな顔をしている。
心境の変化があったのかもしれない。
しかし、それを詮索する余裕はなかった。
「どうか、お願いします。様子を見てくるだけでいいのです」
「黒之助、姫様に頭を下げさせるとはどういう了見だ、殺すぞ」
「ちょっと、あたいの大事な娘に何してくれてんのさぁ?」
「黒之助様、見損なったのですよ?」
黒之助は、小妖達からも巻き起こる罵詈雑言に、一瞬怒気を露わにしたが、病身のためまだ床にあり、その上で頭を下げ続けている姫様の手前、すぐに呑みこんだ。
「わかったわかった、わかったでござるよ」
「私も行こう。別に構わないのだろう?」
「では、姫さん、我ら二人で様子を見に行くでござるよ」
黙って、頷く。
姫様は、立ち去る二人の姿を追いながら、古寺の叫びを聞いていた。
それは、頭領と一緒に古寺へ術式を施した姫様だからこそ、聞くことが出来たのかもしれない。
妖怪同士の争いがあっても一晩で元へ戻る再生術を初め、様々に折り重なった術の数々――それ自体が一つの妖怪といえる存在、そう、マヨヒガと呼べる存在にまでなった古寺の軋む音が、姫様の頭の中で警鐘を鳴らした。
もはや疑う余地はない。
危機がある。迫っているのではない。
もう、傍に在るのだ。自身の力は衰えた。姉である彩華と別れた上に、その根源の力――三人目の姫様と呼べる存在は微睡みの中にいる。
それでも感じることができた。予知に等しい知覚は、姫様の力の中で尤も強く顕現している。
だから、姫様は頭を上げた。
庭の向こうに何か恐ろしいものがあった。
太郎が唸り、姫様の前に躍り出る。
その口に、居間に飛び込んできた矢を銜えていた。猛然と、凄まじい形相で庭の向こうを見据える。
遠くにある一本の松の木の上で、少女が一人、小さな矢を構えていた。
長い髪に、赤い飾り――鶏冠が、見える。
その後ろに、雄々しい角を生やした男がいる。
額に二本、さらに頭の横に、水牛の様な太い角を生やしていた。
太郎が矢を噛み砕く。
矢は明らかに、姫様の身体を、狙っていた。
薄紫色に染まった鏃は、毒が塗られている一目でわかった。
「何を、何を、するですか?」
太郎の次に動いたのが、朱桜である。ゆらゆらと立ち上がると、焦点の合わぬ目で、何かを呟き始めた。
それは、呪詛であった。
怨嗟の言葉を、延々と投げかける。
そして――朱桜の操る、黒い影が、次の矢を塞いだ。
「ああ、これは……殺すしかないですよぉ」
童髪の幼子の形を脱ぎ去り、艶やかな少女の姿に変化した朱桜は、妖狼に負けない獰猛な形相を浮かべた。
「敵、さかね?」
「敵でしょう」
小妖達が逃げ惑う。
葉子が銀毛九尾を広げ、火羅の瞳が真紅に染まった。
先手をとられたと、姫様は思った。
古寺の山の結界が侵されている。
「彩花さん、ぼーっとしてないで、私達の後ろに隠れて。今のあなたは、人の子とそう変わらないのよ」
そう、油断なく目をやりながら、火羅が言った。
「もう、彩華さんは、肝心な時に役に立たないんだから。いいわ、力だったら有り余っているもの。見事……あなたを守って見せるから、うん、その時は、少し褒めてもらえると、嬉しいわね」
ちゃんと褒めてよと、火羅は言った。
私は、あなたにだって、褒めてほしいんだからと。
「えっと、とりあえず、朱桜さんから身を守ればいいのかしら?」
「外したな、迷企羅」
「外した。虚をついたと思ったのに」
少女の二の矢も、防がれている。一の矢を防がれたのも、久々だった。仕事で、二の矢まで防がれたことは、ない。
「招杜羅殿、いいのか、勝手に始めても」
背後に立っていた男に、声をかける。
「かまわぬだろう。現に、真達羅法師が始めている。久々の大仕事が、前のように容易いとあっては興ざめと思ったが、どうしてなかなか活の良い連中だ。摩虎羅の言うことも、尤だといえる」
「摩虎羅の情報は、いつも正確」
「いい顔で、見ている」
迷企羅の狙いは人の子であった。摩虎羅の話では、人の子が、この集団の頭らしい。半信半疑だが、周囲の者達が色めき立つのを見て、納得がいった。
「頭が亡くなれば、集団は脆い。あの娘は私が仕留める。暗殺は、私の仕事」
「勝手に始めるノ、良くなイ」
気配なく、佇んでいた。
そこに何時から在ったのか、今もそこに在るのかすらわからないほど、存在は希薄である。
「頞儞羅こそ、勝手に始めているではないか」
「違ウ。これハ、主君に頼まれタ。二人のように、勝手にやっテいることでなイ」
洋頭の陰陽師が、静かに言った。
「因達羅も着いタヨ。摩虎羅を可愛がってル」
癖のある調子は、異国の響きがあった。
「既に、始まっているのだ」
豊かに蓄えた顎鬚に触れながら、招杜羅は言った。
「皆の衆も、相違ないな」
招杜羅。
摩虎羅。
因達羅。
安底羅。
頞儞羅。
迷企羅。
伐折羅。
それは、天部の神々、護法を司る十二神将の名を冠する者達。
それぞれ、種族も由来も別であるが、一つの集団として、都で名を成した者達。
そして、かってこの地を治めていた蛟――波夷羅の仇討ちを企てる者達。
「好いのかい、副頭目?」
因達羅の身体に絡まり、頬を擦りつけていた半人半蛇の女が言う。
安底羅母様と、くすぐったそうに因達羅が呟いた。
「親方様の許可は得ている。存分に、蹂躙せよ。波夷羅の仇は、全て屠れ。一族郎党、慈悲はいらぬ。犯すも殺すも、方法は問わぬ」
古寺から凄まじい勢いで飛んできた黒い闇の塊を片手で払い、
「なに、向こうもそのつもりのようだ」
そう、招杜羅はこともなげに言った。