小説置き場2

山岳に寺社仏閣に両生類に爬虫類に妖怪に三国志にetcetc

あやかし姫~旅の人(16)~

 障気が、漂い始めていた。それは、さっきまではなかったもの。
 あの茨木童子ほどではない。それでも、十分に強い。
 腐れを、招いている。
 犬神が歩いたところ、紫に変色した道が出来ていく。 
 犬神が一つ歩みを進めるたびに、葉子が一歩下がっていく。
「なんでいるのよ……なんで……」
 炎が、消えかかる。太郎が、黒之助に「どうする?」と訊いた。
「まじいぞ。葉子、駄目だ」
「葉子殿、しっかりなされよ!」
「だって……」
 三匹の中で、葉子は一番弱い。
 格でいえば三匹は同じぐらい。少し、黒之助が抜けているか。
 太郎はそのことを決して認めないのだが。
 彼女には、気の弱いところがあった。
 普段の彼女は、勝ち気。
 それは、弱さを秘めた強がりで。
 太郎と黒之助は、そのことをよく知っている。長いつき合いなのだ。
「太郎! そこの荷物をよこせ!」
 黒之助が叫んだ。
「ああ!?」
「いいから、早く!」
「ったく、これか!」
 太郎が傍らの袋――黒之助が古寺からしょってきた――をくわえ、黒之助に放り投げる。
 黒之助は袋を受け取ると、その包みをとった。
 中には、巻物、小刀、木の枝、一房の髪。
 小刀をもつ。
 それから、目を瞑り、低い声で呪言を唱え始めた。
「……くく……」
 吠える。犬神の歩みが早くなった。
 呪言は続く。それは、犬神があと一歩で黒之助に辿り着く、その瞬間に囁き終えられ。
 犬神が、なにかにぶつかった。空間がきしむ。
 薄い光。それに、遮られたのだ。
「……黒、結界か?」
「ああ。これで少し時間を、稼ぐぞ」
 ぐるりと、三匹を取り囲むように薄い光の膜が張られている。
 犬神が、ゆっくりとそれに触れる。
 じゅっと音がした。
 既に、笑みは消えていて。
「黒ちゃん、すごい!」
 葉子が、いった。狐火が、勢いを強める。
 ぴょんと、黒之助に飛びついた。
「黒、どれぐらい保つ?」
「それなりには、な」
 犬神が、ぐるぐると廻る。何度も、場所を変えて体当たりする。
 衝撃は、三匹にも月心にも伝わって。
「どうすんだ、閉じこもってよ」
「……月心殿、このものは時間が経てば去るのですな?」
「あ……はい。今まではそうでした」
 唖然として、妖達の争いを見ていた月心、急に話しかけられ面くらい。
 こくこくと必要以上に首を縦に動かした。
「家を――いや、借り家ですが――を揺らすのは、いつも限られた時間でした」
「となれば」
「そこに閉じこもって……時が経つのを、待つかあ……」
 犬神がいった。
 ぶつかるのを、やめた。
「気にくわんが、そうだ」
「黒之助……」
「そう、唸るな。拙者の最強の技も葉子殿の最強の技もきかなかったのだ。一旦こうやってやり過ごすのも悪くなかろう」
「……そうだよ……そうしようよ!」
「お主が役に立たないのが計算外であったな」
「……それは、悪かった」
 恥じるように妖狼がちょっとうつむいた。
「……たしか……こうだったな……」
 犬神が何かを唱え始める。太郎にも葉子にも、何を言っているのかわからない。
 もちろん、月心にも。
 黒之助だけが、わかった。それを聞いて、血相を変えていた。
「いかん!」
 慌てて木の枝をもつ。甘い良い香りがした。
 黒之助も、なにかを唱え始めた。
 互いに言葉を紡ぎ合う。朗々と響き合う。
 何をやっているのか、太郎にも葉子にも月心にもさっぱりわからない。
 ただ、黒之助が真剣なのはわかる。
「黒之助?」
 おそるおそる、太郎が尋ねた。
「あやつ――結界崩しを――仕掛けてきおった!――」
 紡ぎながら、合間合間に太郎への返事を。
「くくく……このようなことも、一応は、出来る……」
 確かに、犬神は唱えていた。結界崩しの呪を、唱えていた。
 それでいて、言葉を投げかけた。
 まるで、二人いるような。
「なんで……あんた言葉を……」
 葉子が、言った。それには答えなかった。
 黒之助は、焦っていた。その手に持つ神木の枝の力を借りても、相手の力のほうが強いのだ。
 ひしひしと押されていく。ともすると、結界を崩されそうになる。
 これほどとは思っていなかった。
 甘く見すぎたと、後悔していた。
「葉子殿!――太郎殿!――そやつに話しかけてくれ!」
「はあ!? 何言い出すんだ黒!?」
「このままでは――もたん――頼む、邪魔を」
「そういう、ことか……といっても」
「え、あたし!? 急に言われても……じゃ、じゃあね……ちょっと、まってよ!」
 妖二匹、戸惑いを隠せず。頭を捻るも、咄嗟のことに言葉が出ず。
 月心が、独り呟いた。
「……なぜ、私を襲うのですか?」
 そう言った。
「なぜ、私を?」
「……初めて、言葉を交わすなあ……月心よお……」
 犬神の声が響く。
 黒之助がしめたと。
 犬神の呪言。その力が弱まったのだ。
 月心の問いに、気をとられている。
 盛り返すところまでには、至っていない。だが、幾分ましになったのは事実で。
「ええ」
「答えて……やろうか……?」
 犬神が、嘲笑う音を響かせて。
 互いに目を合わす。
 月心は、絡み合った視線をそらさなかった。
 しっかりまっすぐ、見据えていた。
「……よかろう……」
 考えてみれば妙な話。
 わざわざ、なぜこのような力のない人間を襲うのか。
 それも、一年間、襲う刻はきちっと決めて。
 奇妙なこと。
 三匹とも、深くは考えていなかった。
 太郎も黒之助も、喧嘩が出来ると喜んで。
 葉子は、疑問には思っていたが、今は余裕がなくて。
「ふふ……」
「笑ってないでとっとと答えなよ!」
「力ある九尾よ……そう、急くな……」
 なんだ? と、太郎は思った。
 犬神が、自然に、月心に向けられた視線を外したのだ。
 一瞬のことであった。一瞬。
 それは、間違いなく紛れもなく古寺のある山の方角。
 姫様の顔が、頭に浮かんだ。
 大事ないはず。
 そう、己に言い聞かせる。
 姫様には、関係ない。それに、頭領がいるのだ。
 だが……胸のうちが、千々に千切れ、狂いだした。
「……月心……お前の父にいわれてなあ……」
「はあ!?」
 葉子と黒之助が同時に声をあげた。
 みるみる、月心の顔が青ざめる。
 父が、と、犬神が発した言葉を繰り返す。
「……烏天狗……揺らぎ過ぎよ……」
「くっ!」
 呪を唱える事を忘れていた。
 慌ててまた唱え始める。
 葉子が、
「月心……」
 と、言った。
「金銀妖瞳の妖は、あまり驚いていないようだな……」
 つまらなそうに言った。
 太郎には、犬神の発した言葉など、もはやどうでもよかった。
 古寺のことが、気になって、気になって。
「月心の『父親』が命じたのだろうと」
 父親。
 その言葉には、力が込められていた。
 己と、重ね合わせたのかもしれない。
「そんなことはどうでもいい! お前、古寺に何かしたか!?」
「な、なにいってんのさ!?」
 葉子が、悲鳴に似た声をだした。
「古寺……ああ、あれか。いいな、妖狼……」
 ひっ、っと、葉子が悲鳴をあげた。
 犬神の、赤い目が、
「した」
 そう言って笑っていたから。
「勘が……いいなあ……」