終焉の宴(1)
水攻め。
それは、呂布軍に甚大な被害をもたらした。
陳宮が集めた兵糧。その大部分が水に浸かったのだ。
兵もなく、兵糧もなく。もはや、持ちこたえられる可能性は零に等しい。
呂布軍は絶望的な戦に、引きずり込まれていた。
「……そう……くるか……」
呂布の軍師、陳宮。
呂布軍筆頭武将、高順。
呂布の義姉、貂蝉。
そして、この軍の主たる呂布。
三騎将や魏延の姿は、なかった。
一様に、暗い。
皆、わかっているのだ。今の状況が、どれほど危ういものか。
そして、打つ手がないことも。
「水……」
眼前に見えるは大量の水。城にゆっくりと押せ寄せる。
陳宮の端正な顔が歪んだ。
下邳城が、少し低いところに建てられているということを思い出したのだ。
曹操の軍が、少し移動していることにも気がついた。
「いけない! 兵糧が!」
陳宮が、慌てて兵達に兵糧の移動を命じた。
高順と貂蝉は声も出せず。
ただただ、顔を見合わせるばかり。
「もう、間に合わないよう……」
呂布が、言った。
水が、城に達した。みるみる、水位が上がっていく。
それは、人の腰ぐらいまで。
大量の泥を含んでいた。
「……夢みたい……」
呂布は、そう、思った。
悪夢。
夢なら、早く覚めて。
そうだよ、夢なんだから。
本当に、早く速く迅く……
「呂布さまあああ!!!」
陳宮が呂布に駆け寄る。
ふらりと揺れ、寂しい笑みを陳宮に向けると、そのまま倒れたのだ。
「呂布様!」
「呂布殿!」
高順と貂蝉も駆け寄る。
「高順殿、華佗殿を!」
「う、うむ!」
「呂布さま、しっかり! 駄目! 起きて! 起きなさい!」
「呂布……さまあ……」
「ねえ……曹操さん、何にもしてこないね……」
呂布が困ったよう笑顔を浮かべながら言った。
返事は、ない。
陳宮は、拳を握り、血が出るまで握り。
高順は、唇を噛み締め破り。
貂蝉は、ただ、窓の外に見える曹操軍を眺めていた。
「……終わったんだね」
「まだです! まだ!」
陳宮が立ち上がり、机を叩きながら叫んだ。
誰も、返事をしない。
くっ、と言うと、静かに座る。
また、沈黙。
この一週間、これの繰り返しだった。
兵糧の大部分は水に浸かり、あと、一ヶ月。一ヶ月分しかない。
将達には、どうすることも出来ない。
陳宮の知謀も、高順の指揮能力も、呂布の最強の武も、役に立たない。
元気なのは、三騎将ぐらいだろうか。
彼らは、絶えず兵と共にい、鼓舞し続けていた。
「呂布様!」
幼い将が、飛び込んできた。
魏延、である。
息を切らし、顔を真っ赤にしていた。元々、呂布の前に立つと赤くなるのだが。
「大変です! そ、そ、そ」
「そ?」
「いいから、少し落ち着け」
「は、はい!――そ、曹操が、呂布様と話がしたいと!」
「曹操が、だと!」
「……いこうか」
「呂布様……」
「うん、私も、話したかったんだ」
「出て来るかな」
隻眼の将が言った。
隣には、小柄な武将。
文官風の男もおり、後ろには小柄な武将の護衛とおぼしき大男が二人。
夏惇侯。
荀彧。
許楮、典韋。
そして、曹操。
城まで、二百歩といったところか。
「おーい、曹操どん!」
耳たぶの長い男が水飛沫をあげながら馬を走らせている。
「劉備か。お前を呼んだ覚えはないのだがな」
夏惇侯が、露骨に嫌な顔をした。本能的に、この男を受け付けないのだ。
「つれないこと言わないでさー」
「まあ、いいか。もう、出てくるぞ」
城壁に、少女の姿が現れる。手に、方天画戟を持っている。薄桃色の着物。
鎧は、着ていない。
その顔は、良く知っていた。
曹操が、一瞬顔を背けた。呂布のやつれた顔が、痛ましかったのだ。
「曹操さん!」
呂布が、叫んだ。
「呂布殿!」
曹操も叫ぶ。どちらも、この小さな身体にどうしてこのようなという大声だった。
「頼む、呂布殿! 降伏してくれ!」
「曹操……さん……」
「降伏して、私に仕えてくれ! 呂布殿が騎馬兵、私が歩兵を率いれば、天下に比類なき軍団が出来る! 共に天下を目指そう! 天下を取った暁には」
私の、妻に。
さすがに直球すぎるので、やめておいた。
「二州、いや三州を約束する!」
「曹操どん、呂布さんは」
「黙れ劉備」
劉備が、曹操の圧倒的な迫力に押し黙る。
夏惇侯も荀彧も、曹操に任せる、そう決めているのか、何も言わない。
「曹操さん……私の願いは、一つ。一つ、だけ。みんなの命を、助けて! 何でもするから。私、何でもするから。いくらでも、戦するから! だから、みんなの命を。お願い! 私の命も全部、曹操さんにあげるから! 何でもするから! お願い!」
泣きながら、言う。泣きじゃくりながら、言う。
懇願、哀願。
切なる、願い。
だが、答えは無情であった。
「それは、無理だ……」
「曹操さん!」
「前にも、伝えたはずだ。陳宮の首だけは、差し出してもらうと。あれは、私を裏切った」
顔を背けながら言った。
情の部分では、助けたい。陳宮は、嫌いではないのだ。その才を、高く買ってもいる。
裏切りも、些細なことだと思っていた。
だが、陳宮が生きている限り、自分に呂布を扱えないと知っているのだ。
いつ、また謀反するかわからない。
どちらかだけなら、自分と巧くいく。その自信が曹操にはある。
だが、二人ともとなると……必ず、自分に牙を向く。
どちらか片方、片方だけ――そして曹操は、呂布を選んだ。
「曹操さん……どうして………お願い……」
「すまない、呂布殿。これだけは、譲れないのだ」
「わかった……決裂だね」
「呂布殿! 頼む!」
「駄目だよ……」
呂布の姿が、見えなくなる。
最後まで、泣いていた。
曹操が、踵を返す。
皆、後に続く。
劉備が、にやりとしていた。
「呂布様、曹操の勧告蹴ったらしいな」
「そんだけ、大事ってことか……」
「だろうな」
「あ、あの、持ってきました!」
「お、よしよし、いい子だ」
「……これ、何に使うんですか?」
「あー、ま、大事なこと」
呂布が、曹操の降伏を受け入れなかったことはすぐに城内に広まった。
そのころから、陳宮は自室に籠もり、酒を浴びるようになった。酒類は、大量にあるのだ。
呂布も自室。義妹である張遼のベッドで寝ころんでいた。
高順と貂蝉は、二人で何かを書いていた。
将の姿は、兵達になく。
それでも、呂布軍の士気は落ちてはいなかった。皆、気持ちは一つだったから。
「どうだ、出来るか?」
「は! 命に代えても!」
「うん、その意気だ」
「頑張れよ」
「行ってきます!」
蠢動する物が一つ。
それは、手負いの呂布軍の躯の中で、静かに静かに大きくなっている。
静かに静かに網を張り巡らせている。
今にも食われんとする、断末魔の悲鳴をあげる獣の中で、静かに静かに産声をあげようとしていた。
それは、呂布軍に甚大な被害をもたらした。
陳宮が集めた兵糧。その大部分が水に浸かったのだ。
兵もなく、兵糧もなく。もはや、持ちこたえられる可能性は零に等しい。
呂布軍は絶望的な戦に、引きずり込まれていた。
「……そう……くるか……」
呂布の軍師、陳宮。
呂布軍筆頭武将、高順。
呂布の義姉、貂蝉。
そして、この軍の主たる呂布。
三騎将や魏延の姿は、なかった。
一様に、暗い。
皆、わかっているのだ。今の状況が、どれほど危ういものか。
そして、打つ手がないことも。
「水……」
眼前に見えるは大量の水。城にゆっくりと押せ寄せる。
陳宮の端正な顔が歪んだ。
下邳城が、少し低いところに建てられているということを思い出したのだ。
曹操の軍が、少し移動していることにも気がついた。
「いけない! 兵糧が!」
陳宮が、慌てて兵達に兵糧の移動を命じた。
高順と貂蝉は声も出せず。
ただただ、顔を見合わせるばかり。
「もう、間に合わないよう……」
呂布が、言った。
水が、城に達した。みるみる、水位が上がっていく。
それは、人の腰ぐらいまで。
大量の泥を含んでいた。
「……夢みたい……」
呂布は、そう、思った。
悪夢。
夢なら、早く覚めて。
そうだよ、夢なんだから。
本当に、早く速く迅く……
「呂布さまあああ!!!」
陳宮が呂布に駆け寄る。
ふらりと揺れ、寂しい笑みを陳宮に向けると、そのまま倒れたのだ。
「呂布様!」
「呂布殿!」
高順と貂蝉も駆け寄る。
「高順殿、華佗殿を!」
「う、うむ!」
「呂布さま、しっかり! 駄目! 起きて! 起きなさい!」
「呂布……さまあ……」
「ねえ……曹操さん、何にもしてこないね……」
呂布が困ったよう笑顔を浮かべながら言った。
返事は、ない。
陳宮は、拳を握り、血が出るまで握り。
高順は、唇を噛み締め破り。
貂蝉は、ただ、窓の外に見える曹操軍を眺めていた。
「……終わったんだね」
「まだです! まだ!」
陳宮が立ち上がり、机を叩きながら叫んだ。
誰も、返事をしない。
くっ、と言うと、静かに座る。
また、沈黙。
この一週間、これの繰り返しだった。
兵糧の大部分は水に浸かり、あと、一ヶ月。一ヶ月分しかない。
将達には、どうすることも出来ない。
陳宮の知謀も、高順の指揮能力も、呂布の最強の武も、役に立たない。
元気なのは、三騎将ぐらいだろうか。
彼らは、絶えず兵と共にい、鼓舞し続けていた。
「呂布様!」
幼い将が、飛び込んできた。
魏延、である。
息を切らし、顔を真っ赤にしていた。元々、呂布の前に立つと赤くなるのだが。
「大変です! そ、そ、そ」
「そ?」
「いいから、少し落ち着け」
「は、はい!――そ、曹操が、呂布様と話がしたいと!」
「曹操が、だと!」
「……いこうか」
「呂布様……」
「うん、私も、話したかったんだ」
「出て来るかな」
隻眼の将が言った。
隣には、小柄な武将。
文官風の男もおり、後ろには小柄な武将の護衛とおぼしき大男が二人。
夏惇侯。
荀彧。
許楮、典韋。
そして、曹操。
城まで、二百歩といったところか。
「おーい、曹操どん!」
耳たぶの長い男が水飛沫をあげながら馬を走らせている。
「劉備か。お前を呼んだ覚えはないのだがな」
夏惇侯が、露骨に嫌な顔をした。本能的に、この男を受け付けないのだ。
「つれないこと言わないでさー」
「まあ、いいか。もう、出てくるぞ」
城壁に、少女の姿が現れる。手に、方天画戟を持っている。薄桃色の着物。
鎧は、着ていない。
その顔は、良く知っていた。
曹操が、一瞬顔を背けた。呂布のやつれた顔が、痛ましかったのだ。
「曹操さん!」
呂布が、叫んだ。
「呂布殿!」
曹操も叫ぶ。どちらも、この小さな身体にどうしてこのようなという大声だった。
「頼む、呂布殿! 降伏してくれ!」
「曹操……さん……」
「降伏して、私に仕えてくれ! 呂布殿が騎馬兵、私が歩兵を率いれば、天下に比類なき軍団が出来る! 共に天下を目指そう! 天下を取った暁には」
私の、妻に。
さすがに直球すぎるので、やめておいた。
「二州、いや三州を約束する!」
「曹操どん、呂布さんは」
「黙れ劉備」
劉備が、曹操の圧倒的な迫力に押し黙る。
夏惇侯も荀彧も、曹操に任せる、そう決めているのか、何も言わない。
「曹操さん……私の願いは、一つ。一つ、だけ。みんなの命を、助けて! 何でもするから。私、何でもするから。いくらでも、戦するから! だから、みんなの命を。お願い! 私の命も全部、曹操さんにあげるから! 何でもするから! お願い!」
泣きながら、言う。泣きじゃくりながら、言う。
懇願、哀願。
切なる、願い。
だが、答えは無情であった。
「それは、無理だ……」
「曹操さん!」
「前にも、伝えたはずだ。陳宮の首だけは、差し出してもらうと。あれは、私を裏切った」
顔を背けながら言った。
情の部分では、助けたい。陳宮は、嫌いではないのだ。その才を、高く買ってもいる。
裏切りも、些細なことだと思っていた。
だが、陳宮が生きている限り、自分に呂布を扱えないと知っているのだ。
いつ、また謀反するかわからない。
どちらかだけなら、自分と巧くいく。その自信が曹操にはある。
だが、二人ともとなると……必ず、自分に牙を向く。
どちらか片方、片方だけ――そして曹操は、呂布を選んだ。
「曹操さん……どうして………お願い……」
「すまない、呂布殿。これだけは、譲れないのだ」
「わかった……決裂だね」
「呂布殿! 頼む!」
「駄目だよ……」
呂布の姿が、見えなくなる。
最後まで、泣いていた。
曹操が、踵を返す。
皆、後に続く。
劉備が、にやりとしていた。
「呂布様、曹操の勧告蹴ったらしいな」
「そんだけ、大事ってことか……」
「だろうな」
「あ、あの、持ってきました!」
「お、よしよし、いい子だ」
「……これ、何に使うんですか?」
「あー、ま、大事なこと」
呂布が、曹操の降伏を受け入れなかったことはすぐに城内に広まった。
そのころから、陳宮は自室に籠もり、酒を浴びるようになった。酒類は、大量にあるのだ。
呂布も自室。義妹である張遼のベッドで寝ころんでいた。
高順と貂蝉は、二人で何かを書いていた。
将の姿は、兵達になく。
それでも、呂布軍の士気は落ちてはいなかった。皆、気持ちは一つだったから。
「どうだ、出来るか?」
「は! 命に代えても!」
「うん、その意気だ」
「頑張れよ」
「行ってきます!」
蠢動する物が一つ。
それは、手負いの呂布軍の躯の中で、静かに静かに大きくなっている。
静かに静かに網を張り巡らせている。
今にも食われんとする、断末魔の悲鳴をあげる獣の中で、静かに静かに産声をあげようとしていた。