小説置き場2

山岳に寺社仏閣に両生類に爬虫類に妖怪に三国志にetcetc

終焉の宴(1)

 水攻め。
 それは、呂布軍に甚大な被害をもたらした。
 陳宮が集めた兵糧。その大部分が水に浸かったのだ。
 兵もなく、兵糧もなく。もはや、持ちこたえられる可能性は零に等しい。
 呂布軍は絶望的な戦に、引きずり込まれていた。

「……そう……くるか……」
 呂布の軍師、陳宮
 呂布軍筆頭武将、高順。
 呂布の義姉、貂蝉
 そして、この軍の主たる呂布
 三騎将や魏延の姿は、なかった。
 一様に、暗い。
 皆、わかっているのだ。今の状況が、どれほど危ういものか。
 そして、打つ手がないことも。

「水……」
 眼前に見えるは大量の水。城にゆっくりと押せ寄せる。
 陳宮の端正な顔が歪んだ。
 下邳城が、少し低いところに建てられているということを思い出したのだ。
 曹操の軍が、少し移動していることにも気がついた。
「いけない! 兵糧が!」
 陳宮が、慌てて兵達に兵糧の移動を命じた。
 高順と貂蝉は声も出せず。
 ただただ、顔を見合わせるばかり。
「もう、間に合わないよう……」
 呂布が、言った。
 水が、城に達した。みるみる、水位が上がっていく。
 それは、人の腰ぐらいまで。
 大量の泥を含んでいた。
「……夢みたい……」
 呂布は、そう、思った。
 悪夢。
 夢なら、早く覚めて。
 そうだよ、夢なんだから。
 本当に、早く速く迅く……
呂布さまあああ!!!」
 陳宮呂布に駆け寄る。
 ふらりと揺れ、寂しい笑みを陳宮に向けると、そのまま倒れたのだ。
呂布様!」
呂布殿!」
 高順と貂蝉も駆け寄る。
「高順殿、華佗殿を!」
「う、うむ!」
呂布さま、しっかり! 駄目! 起きて! 起きなさい!」
呂布……さまあ……」

「ねえ……曹操さん、何にもしてこないね……」
 呂布が困ったよう笑顔を浮かべながら言った。
 返事は、ない。
 陳宮は、拳を握り、血が出るまで握り。
 高順は、唇を噛み締め破り。
 貂蝉は、ただ、窓の外に見える曹操軍を眺めていた。
「……終わったんだね」
「まだです! まだ!」
 陳宮が立ち上がり、机を叩きながら叫んだ。
 誰も、返事をしない。
 くっ、と言うと、静かに座る。
 また、沈黙。
 この一週間、これの繰り返しだった。
 兵糧の大部分は水に浸かり、あと、一ヶ月。一ヶ月分しかない。
 将達には、どうすることも出来ない。
 陳宮の知謀も、高順の指揮能力も、呂布の最強の武も、役に立たない。
 元気なのは、三騎将ぐらいだろうか。
 彼らは、絶えず兵と共にい、鼓舞し続けていた。
呂布様!」
 幼い将が、飛び込んできた。
 魏延、である。
 息を切らし、顔を真っ赤にしていた。元々、呂布の前に立つと赤くなるのだが。
「大変です! そ、そ、そ」
「そ?」
「いいから、少し落ち着け」
「は、はい!――そ、曹操が、呂布様と話がしたいと!」
曹操が、だと!」
「……いこうか」
呂布様……」
「うん、私も、話したかったんだ」

「出て来るかな」
 隻眼の将が言った。
 隣には、小柄な武将。
 文官風の男もおり、後ろには小柄な武将の護衛とおぼしき大男が二人。
 夏惇侯。
 荀彧。
 許楮、典韋
 そして、曹操
 城まで、二百歩といったところか。
「おーい、曹操どん!」
 耳たぶの長い男が水飛沫をあげながら馬を走らせている。
劉備か。お前を呼んだ覚えはないのだがな」
 夏惇侯が、露骨に嫌な顔をした。本能的に、この男を受け付けないのだ。
「つれないこと言わないでさー」
「まあ、いいか。もう、出てくるぞ」
 城壁に、少女の姿が現れる。手に、方天画戟を持っている。薄桃色の着物。
 鎧は、着ていない。
 その顔は、良く知っていた。
 曹操が、一瞬顔を背けた。呂布のやつれた顔が、痛ましかったのだ。
曹操さん!」
 呂布が、叫んだ。
呂布殿!」
 曹操も叫ぶ。どちらも、この小さな身体にどうしてこのようなという大声だった。
「頼む、呂布殿! 降伏してくれ!」
曹操……さん……」
「降伏して、私に仕えてくれ! 呂布殿が騎馬兵、私が歩兵を率いれば、天下に比類なき軍団が出来る! 共に天下を目指そう! 天下を取った暁には」
 私の、妻に。
 さすがに直球すぎるので、やめておいた。
「二州、いや三州を約束する!」
曹操どん、呂布さんは」
「黙れ劉備
 劉備が、曹操の圧倒的な迫力に押し黙る。
 夏惇侯も荀彧も、曹操に任せる、そう決めているのか、何も言わない。
曹操さん……私の願いは、一つ。一つ、だけ。みんなの命を、助けて! 何でもするから。私、何でもするから。いくらでも、戦するから! だから、みんなの命を。お願い! 私の命も全部、曹操さんにあげるから! 何でもするから! お願い!」
 泣きながら、言う。泣きじゃくりながら、言う。
 懇願、哀願。
 切なる、願い。
 だが、答えは無情であった。
「それは、無理だ……」
曹操さん!」
「前にも、伝えたはずだ。陳宮の首だけは、差し出してもらうと。あれは、私を裏切った」
 顔を背けながら言った。
 情の部分では、助けたい。陳宮は、嫌いではないのだ。その才を、高く買ってもいる。
 裏切りも、些細なことだと思っていた。
 だが、陳宮が生きている限り、自分に呂布を扱えないと知っているのだ。
 いつ、また謀反するかわからない。
 どちらかだけなら、自分と巧くいく。その自信が曹操にはある。
 だが、二人ともとなると……必ず、自分に牙を向く。
 どちらか片方、片方だけ――そして曹操は、呂布を選んだ。
曹操さん……どうして………お願い……」
「すまない、呂布殿。これだけは、譲れないのだ」
「わかった……決裂だね」
呂布殿! 頼む!」
「駄目だよ……」
 呂布の姿が、見えなくなる。
 最後まで、泣いていた。
 曹操が、踵を返す。
 皆、後に続く。
 劉備が、にやりとしていた。

呂布様、曹操の勧告蹴ったらしいな」
「そんだけ、大事ってことか……」
「だろうな」
「あ、あの、持ってきました!」 
「お、よしよし、いい子だ」
「……これ、何に使うんですか?」
「あー、ま、大事なこと」

 呂布が、曹操の降伏を受け入れなかったことはすぐに城内に広まった。
 そのころから、陳宮は自室に籠もり、酒を浴びるようになった。酒類は、大量にあるのだ。
 呂布も自室。義妹である張遼のベッドで寝ころんでいた。
 高順と貂蝉は、二人で何かを書いていた。
 将の姿は、兵達になく。
 それでも、呂布軍の士気は落ちてはいなかった。皆、気持ちは一つだったから。

「どうだ、出来るか?」
「は! 命に代えても!」
「うん、その意気だ」
「頑張れよ」
「行ってきます!」

 蠢動する物が一つ。
 それは、手負いの呂布軍の躯の中で、静かに静かに大きくなっている。
 静かに静かに網を張り巡らせている。
 今にも食われんとする、断末魔の悲鳴をあげる獣の中で、静かに静かに産声をあげようとしていた。