あやかし姫~蟲火(1)~
静かに本を読んでいる二人。
すらすらと、読み進める少女。
雪のような白い肌に、長い長い黒髪が、艶やかに。
薄い藍色に、壱羽の揚羽が描かれた着物を身につけて。
ゆっくりと、随分と薄い本をめくっていく若い男。
無造作な髪、犬のような雰囲気。
ともすれば、字をなぞっていく視線がとまる。
その度に、ちらちらと少女を気にしながら、ほふっと溜息をついて、「読み飛ばして」いた。
男は、残りが少なくなってきているのを確認すると、少し微笑んだ。
すぐに、きっと唇を閉じる。
それでも、喜びは隠しようもなくて。
あと、少し。
あと、ちょっと。
風がその部屋を通った。少女が、部屋から見える庭に目をやった。
風が少女の長い髪を揺らす。
ふるっと、少女が震える。
そっと立ち上がると、戸を閉めた。
少女が、座り直す。
足の裏を、少し揉んだ。
男が、ぱちんと本を閉じた。
「……終わった……」
そういうと、本を放り投げ、ごろっと寝っ転がる。
もう一度、
「終わった」
と呟いた。うーんと伸びを一つすると、
「姫様、読み終わった!」
起きあがり、少女にそう話しかけた。
赤い銀杏が描かれたしおりを挟み、読んでいた本をぱたんと閉じると、
「はいはい、それで太郎さん、どれだけ読み飛ばしたんですか?」
そう、いった。
太郎が、ちえっ、というと、
「えっとだな……」
本を拾うと、まず、こことこことこことここだろう、っと、姫様に見せた。
「……まあまあ、かな、うん」
「まだまだ、あるんだけど……」
しょんぼりと、いった。
「わかってますよー」
「こんなところでしょうか?」
姫様がいった。
「お、おお……」
額を抑えながら太郎が答えた。
「大丈夫ですか?」
「……あれだ、こういうの、知恵熱って言うんだっけ?」
「そうですね」
姫様が、その手で太郎の額を扇いでやる。
ぽん、と白い煙をたてると、太郎は大きな大きな真っ白い狼の姿に。
それが太郎の本当の姿。
この姿の方が楽、なのだ。
余計な力を使わずにすむ。
全身を大きく震わせると、あむっと、大きく口を開け、そして閉めた。
「……しんどい」
「お疲れ様です」
ころっと、また横になった。
姫様は、そんな太郎をじーっと眺めていた。
その視線に気がつくと、太郎が口を開いた。
「……なに?」
「へ? あ、はい?」
姫様、急に話しかけられたので、ちょっと慌てる。
「いやさ、なに?」
「なにがですか?」
「なにか、言いたい事あるんじゃないの?」
そう、妖狼がいった。
その金銀妖瞳に、姫様の姿が映る。
「……別に……」
「ふーん」
ぷいっと、視線を外した。
「ちょっと、気になる事があるだけで……」
「気になる事?」
姫様、言って良いものかどうか、ちょっと迷う。
妖狼が、じいっと姫様を見る。
姫様、視線を妖狼に戻す。
「……じゃあ……太郎さん、月心さんのこと、嫌い?」
「はあ?」
「太郎さん、月心さんのところへ行くと、いつも月心さんを睨んでるっていうか……うーん」
なんだろう……なんて、言えば良いんだろう……
「……まとまら、ないなあ……」
「別に」
そう、素っ気なくいった。
「そうなの? じゃあ、好き?」
「好きでも、嫌いでも、ねえな。どうでも、いい。子供と遊ぶのは飽きないから、あそこにいくのは嫌いじゃないけど」
「ふうん……」
しげしげと、妖狼の大きな目を覗き込んだ。
妖狼が、瞬きする。
「お茶、飲んでくるね」
姫様が、いった。
「へーい」
姫様が、部屋を出ていく。
廊下側の戸を開ける。寺の庭とは反対。
「さてと……」
器用に前足で戸を開け、庭に出ようと。
秋の風が、また部屋に入り込んだ。
日向ぼっこがしたくなったのだ。
大きな顔を、部屋からだした。
そこで妖狼は、鼻をひくひくと動かした。
「……なんの、匂いだ?」
庭にいるのは、皆見知った妖達。
はて、と。
首を、こきこきと鳴らす。
お昼寝中の妖達の間をすり抜け、庭をうろうろ。
「ちぃ……気になる……蟲?」
何かが、落ち葉をかさりと踏み締めた。
匂いが、強くなる。
背後。
さっきは、何もなかったのに。ちゃんと、確認したのに。
虫達の音が、やんだ。
鼓動が激しくなった。
犬神、妖猿。
泣いている姫様の顔。
妖狼が、振り返ると同時にその匂いの元に飛びかかった。
「太郎さん、駄目ー!!!」
姫様が、大きな声を出した。
なに!
何事!
どうした!
っと、妖達が跳ね起きる。
姫様の悲鳴に、葉子や黒之助も駆け寄ってくる。
妖狼が大顎を開け、鋭い牙を光らせながら、姫様をゆっくり振り返った。
姫様が裸足で庭に降りる。
「なんてことを……」
姫様が口を押さえた。
そこに、子供がへたっと座り込んでいた。
男の子。黄色い石のついた首飾りをつけていた。
がくがくと、震えている。
姫様がちょっとでも遅かったら、太郎の牙に襲われていたろう。
「太郎さん、なにを!」
「……」
姫様が、その子を自分の後ろに隠した。
妖狼が、うなだれる。尾が、しなだれる。
「太郎さん!」
「……いや……そのう……こんなはずじゃあ……」
「なに、なに考えてるの! こんな幼い子供に襲いかかるなんて!」
「う……」
姫様の、長い髪の先が一瞬宙を向いた。
姫様の怒気に、妖狼が、一瞬怯えを見せた。
右手をあげ、姫様が妖狼の頬めがけて勢いよく振り下ろした。
目をつぶる。
妖狼も、妖達も。
「駄目ー!」
男の子の声。
姫様に正面から抱きついて。
あれ、っと姫様が。
確かに、背後にやったのにと。
その手が、とまった。
しゃんと、鈴の音が鳴った。
錫杖が、男の子に突きつけられて。
葉子の鋭い爪も、男の子の喉元に。
黒之助と葉子が、その子供を見下ろしながら姫様の両隣に。
男の子は、ぐすぐすと姫様に顔をつけたまま、泣いていて。
「……と、とりあえず、二人ともおろして下さい……」
うーんと顔を見合わせると、葉子と黒之助は、男の子から手を、ひいた。
敵意が、全く感じられないのだ。
「えっと……」
「これは?」
男の子は、姫様から顔を離した。
姫様の着物に涙の痕が。
葉子が、それを見てあちゃ~といった。
男の子は、姫様の手を掴むと、ごしごし目をこすりながら太郎に近づき、その大きな尻尾を引っ張って、
「なか、よし、なかよし」
そう、いった。
「えーっと……はぃ?」
姫様の声。
紅葉が、一葉、二葉、と、風に乗って落ちていく。
蟋蟀、鈴虫、松虫……
秋の虫達が、一斉にその音を奏でだした。
すらすらと、読み進める少女。
雪のような白い肌に、長い長い黒髪が、艶やかに。
薄い藍色に、壱羽の揚羽が描かれた着物を身につけて。
ゆっくりと、随分と薄い本をめくっていく若い男。
無造作な髪、犬のような雰囲気。
ともすれば、字をなぞっていく視線がとまる。
その度に、ちらちらと少女を気にしながら、ほふっと溜息をついて、「読み飛ばして」いた。
男は、残りが少なくなってきているのを確認すると、少し微笑んだ。
すぐに、きっと唇を閉じる。
それでも、喜びは隠しようもなくて。
あと、少し。
あと、ちょっと。
風がその部屋を通った。少女が、部屋から見える庭に目をやった。
風が少女の長い髪を揺らす。
ふるっと、少女が震える。
そっと立ち上がると、戸を閉めた。
少女が、座り直す。
足の裏を、少し揉んだ。
男が、ぱちんと本を閉じた。
「……終わった……」
そういうと、本を放り投げ、ごろっと寝っ転がる。
もう一度、
「終わった」
と呟いた。うーんと伸びを一つすると、
「姫様、読み終わった!」
起きあがり、少女にそう話しかけた。
赤い銀杏が描かれたしおりを挟み、読んでいた本をぱたんと閉じると、
「はいはい、それで太郎さん、どれだけ読み飛ばしたんですか?」
そう、いった。
太郎が、ちえっ、というと、
「えっとだな……」
本を拾うと、まず、こことこことこことここだろう、っと、姫様に見せた。
「……まあまあ、かな、うん」
「まだまだ、あるんだけど……」
しょんぼりと、いった。
「わかってますよー」
「こんなところでしょうか?」
姫様がいった。
「お、おお……」
額を抑えながら太郎が答えた。
「大丈夫ですか?」
「……あれだ、こういうの、知恵熱って言うんだっけ?」
「そうですね」
姫様が、その手で太郎の額を扇いでやる。
ぽん、と白い煙をたてると、太郎は大きな大きな真っ白い狼の姿に。
それが太郎の本当の姿。
この姿の方が楽、なのだ。
余計な力を使わずにすむ。
全身を大きく震わせると、あむっと、大きく口を開け、そして閉めた。
「……しんどい」
「お疲れ様です」
ころっと、また横になった。
姫様は、そんな太郎をじーっと眺めていた。
その視線に気がつくと、太郎が口を開いた。
「……なに?」
「へ? あ、はい?」
姫様、急に話しかけられたので、ちょっと慌てる。
「いやさ、なに?」
「なにがですか?」
「なにか、言いたい事あるんじゃないの?」
そう、妖狼がいった。
その金銀妖瞳に、姫様の姿が映る。
「……別に……」
「ふーん」
ぷいっと、視線を外した。
「ちょっと、気になる事があるだけで……」
「気になる事?」
姫様、言って良いものかどうか、ちょっと迷う。
妖狼が、じいっと姫様を見る。
姫様、視線を妖狼に戻す。
「……じゃあ……太郎さん、月心さんのこと、嫌い?」
「はあ?」
「太郎さん、月心さんのところへ行くと、いつも月心さんを睨んでるっていうか……うーん」
なんだろう……なんて、言えば良いんだろう……
「……まとまら、ないなあ……」
「別に」
そう、素っ気なくいった。
「そうなの? じゃあ、好き?」
「好きでも、嫌いでも、ねえな。どうでも、いい。子供と遊ぶのは飽きないから、あそこにいくのは嫌いじゃないけど」
「ふうん……」
しげしげと、妖狼の大きな目を覗き込んだ。
妖狼が、瞬きする。
「お茶、飲んでくるね」
姫様が、いった。
「へーい」
姫様が、部屋を出ていく。
廊下側の戸を開ける。寺の庭とは反対。
「さてと……」
器用に前足で戸を開け、庭に出ようと。
秋の風が、また部屋に入り込んだ。
日向ぼっこがしたくなったのだ。
大きな顔を、部屋からだした。
そこで妖狼は、鼻をひくひくと動かした。
「……なんの、匂いだ?」
庭にいるのは、皆見知った妖達。
はて、と。
首を、こきこきと鳴らす。
お昼寝中の妖達の間をすり抜け、庭をうろうろ。
「ちぃ……気になる……蟲?」
何かが、落ち葉をかさりと踏み締めた。
匂いが、強くなる。
背後。
さっきは、何もなかったのに。ちゃんと、確認したのに。
虫達の音が、やんだ。
鼓動が激しくなった。
犬神、妖猿。
泣いている姫様の顔。
妖狼が、振り返ると同時にその匂いの元に飛びかかった。
「太郎さん、駄目ー!!!」
姫様が、大きな声を出した。
なに!
何事!
どうした!
っと、妖達が跳ね起きる。
姫様の悲鳴に、葉子や黒之助も駆け寄ってくる。
妖狼が大顎を開け、鋭い牙を光らせながら、姫様をゆっくり振り返った。
姫様が裸足で庭に降りる。
「なんてことを……」
姫様が口を押さえた。
そこに、子供がへたっと座り込んでいた。
男の子。黄色い石のついた首飾りをつけていた。
がくがくと、震えている。
姫様がちょっとでも遅かったら、太郎の牙に襲われていたろう。
「太郎さん、なにを!」
「……」
姫様が、その子を自分の後ろに隠した。
妖狼が、うなだれる。尾が、しなだれる。
「太郎さん!」
「……いや……そのう……こんなはずじゃあ……」
「なに、なに考えてるの! こんな幼い子供に襲いかかるなんて!」
「う……」
姫様の、長い髪の先が一瞬宙を向いた。
姫様の怒気に、妖狼が、一瞬怯えを見せた。
右手をあげ、姫様が妖狼の頬めがけて勢いよく振り下ろした。
目をつぶる。
妖狼も、妖達も。
「駄目ー!」
男の子の声。
姫様に正面から抱きついて。
あれ、っと姫様が。
確かに、背後にやったのにと。
その手が、とまった。
しゃんと、鈴の音が鳴った。
錫杖が、男の子に突きつけられて。
葉子の鋭い爪も、男の子の喉元に。
黒之助と葉子が、その子供を見下ろしながら姫様の両隣に。
男の子は、ぐすぐすと姫様に顔をつけたまま、泣いていて。
「……と、とりあえず、二人ともおろして下さい……」
うーんと顔を見合わせると、葉子と黒之助は、男の子から手を、ひいた。
敵意が、全く感じられないのだ。
「えっと……」
「これは?」
男の子は、姫様から顔を離した。
姫様の着物に涙の痕が。
葉子が、それを見てあちゃ~といった。
男の子は、姫様の手を掴むと、ごしごし目をこすりながら太郎に近づき、その大きな尻尾を引っ張って、
「なか、よし、なかよし」
そう、いった。
「えーっと……はぃ?」
姫様の声。
紅葉が、一葉、二葉、と、風に乗って落ちていく。
蟋蟀、鈴虫、松虫……
秋の虫達が、一斉にその音を奏でだした。