長江、燃える(4)
あの方は、笑っておられた。
それを、眩しい想いで見上げていた。
自然と、自分の口にも微笑みが零れていた。
「なあ、祖茂」
「殿、なんでしょうか?」
「孫策、よく、育ってくれたなぁ」
「お父上に、殿に、似られましたな」
孫策の、父。
それは、かの江東の虎、孫堅のこと。
刻は、遡る。
それは、孫策の初陣の日。
「うん。あれは、俺に良く似ている。孫権とは、大違いだ」
「本当に」
「悪いところも、似てしまった……」
「殿?」
「祖茂、頼みたい事があるんだ」
「なんでしょうか? 命を差し出せ、以外なら大抵承りますが?」
「ふん、孫策を、導いてやってくれ」
「私が、ですか? ……韓当や、黄蓋が、いますよ。程普も」
同僚の名をあげた。
「あいつらはなぁ……基本的には、あいつら俺と同じだろ? それじゃあ、駄目だと思うんだ。孫策には、冷静さを、身につけさせたい。それには、お前が一番適任だろう」
「よろしいですが……」
なんだ、これは。
この、胸騒ぎは。
「どうした?」
「いえ……まるで遺言のような口ぶりだったので……」
「バーカ、何が遺言だ。まだピンピンしとるわ」
孫堅がぐるぐると肩を回した。
「そうですな、いや失敬。いつもの殿らしくありませんので」
少年が、駈けてくる。
興奮を、隠しきれなくて。
瞳の輝きが印象的であった。
「なんだそれ……おお、孫策! 見事な初陣だったぞ! 次は劉表だ。そのときも、先鋒を任せるぞ」
「わかった!」
孫堅が、馬を走らせた。
並んで馬を走らせる二人の背中を見送る。
ぼんやりと、陽炎のように消えていく。
それを、祖茂は見つめていた。
大殿。
大殿との約束、
果たせた……
で……しょう…か……
いえ……弟子は、未熟な師を……はるかに……越えて……いき……ま……し……――
「そ、祖茂殿ぉぉぉぉ!!!!!!」
凌統が叫んだ。
もはや、祖茂の瞳は何者も映さず。
血の大輪を咲かせ、動くことなく。
翁が――黄忠が、その薙刀を振るい、着いた血を落とした。
祖茂の手には、折れた刀。
刃が虚しく、散らばっていた。
黄忠の薙刀は、受け止めた祖茂の刀ごと、祖茂の身体を断ち切った。
凌操が、口を歪ませる。
僚友が死んだというのに、声を出す事も出来ない。
金属音は、いまだ止むことなく。
鈴の――甘寧。
強い。
祖茂……。
「……よくも、祖茂殿を!」
「……若いの、命を粗末にするな」
黄忠が、薙刀を背中に戻した。
弓矢を携え腕を組む。傍観の姿勢。
甘寧の戦いを見ようという気になったのだ。
「ば、馬鹿にするな!」
凌統が、黄忠に襲いかかった。
容易く、その槍をかわす。その腹に、蹴りを入れる。
凌統の身体が、船に叩きつけられた。
それで、動けなくなった。
意識は、ある。
黄忠は、ちょっとの間凌統を見ていたが、立ち上がれないのを確認すると、鈴の音の元に視線を戻した。
「鎧を、身につけていないのに……」
少しでも、入れば、終わらせられるのに……
両者が、一旦離れた。
「おっさん、どうして俺が鎧を着けていないかわかるか?」
甘寧がいった。
答えは、ない。
凌操は、息を整えるのに必死だった。
「必要、ないからさ。相手に俺の身体に触れさせない。それなら、鎧はいらんだろ?」
「ああ、そうだな……戯れ言を」
「いや、本気だって。現に、お前は俺に指一本触れてないわけで」
甘寧が、笑った。
嫌な、笑みだ。
この笑いに似たものを、一度見た事がある。
汜水関で、あの武神も、同じような笑みを浮かべていた。
狂気を帯びた笑み。
逃げるか?
それも、一手。悪くはない。息子を連れて、逃げる。
生き残れば、勝ち。
そう、言った。
だが……背中を、見せられるか?
逃げられるか?
息子の、前で?
「……参る」
凌操の槍先が、ぴたりと止まった。狙うは、心の臓。
甘寧がその笑みをとめる。
ああ、まだまだだと凌操は思った。
漆黒の戦姫と言われた彼女は、笑いながら、死を振りまいた。
それに比べれば、目の前の男は可愛いものだ。
まだ、染まりきっていない。
死、そのものに、なっていない。
あれは、恐ろしく、美しかった。
彼女の姿を、思考から除く。
神経を、集中させる。
これで、終わらせる。
この一突きに、全てをかける。
――水滴穿つ、一筋の光――
「神、槍」
凌操が、動いた。
槍が、生き物のように、甘寧に伸びる。
ガッ、っと、火花が散った。
凌操が、笑った。
真っ赤。
勝った。
次は、黄忠。
大殿の、敵を……
思考が途切れる。
あれ?
どうした、息子よ、どうして、泣いている?
泣くな。
俺は、大殿が死んだときも……
いや、泣いたなぁ……
「ちっ……」
甘寧が、舌打ちした。
その腕に、傷が。
腕だけ、だった。
捌いた、のだ。
槍を捌き、そのまま返す刀で、凌操を斬った。
「やるじゃ、ねえか……」
「お見事」
黄忠が、手を叩いた。
「は……これで、俺はまた一歩強くなったわけだ」
「む?」
「そういうことだろう? こいつは、強かった。俺はこいつに勝った。だから、俺はこいつより強くなった」
「ふーむ」
「こいつ、じゃない……」
凌統が、よろよろと立ち上がった。燃えるような目で、二人を見ていた。
血に染まった二人と、血に染められた二人を。
「凌操……覚えておけ……俺の、俺の父上だ!」
「そうか……悪い事したなぁ」
甘寧が頭を掻いた。
「誇りに思っていいぞ。お前の親父、強かったよ」
「貴様!」
凌統が、動いた。
それは、ゆっくりとであった。
黄忠の蹴りが、凌統の動きを縛っていた。
槍を叩き落とし、甘寧が首をぎゅっと握ると片手で持ち上げた。
「あぐ……こ、ころ……」
「馬鹿、言うなよ。殺さねえよ」
「おま……」
「俺は、甘寧。鈴の、甘寧。よく覚えておけ。これが敵の名、敵の顔だ。頭に灼きつけろ、忘れるな。憎しみを抱いてこれから生きろ。そして、俺を殺しに来い。強くなって、殺しに来い」
そう言うと、投げ捨てた。
一声呻くと、凌統は、気を失った。
甘寧が、己の傷の血を、舐めた。
「生かす、か?」
「ああ、こいつは強くなる。強くなって、俺を殺しに来る。それを、俺が喰らう」
「ふむ……お主の糧とするか」
「ああ。いい目だ。憎しみに囚われた目。こういう奴は、強くなるんだ」
「そんなに、強くなりたいのか?」
黄忠が、尋ねた。
甘寧が、きょとんとした。それから、当たり前だというように、何度も頷いた。
「当たり前だ。じいさんもそうだろ?」
「儂はなぁ……年だし、いやはや、上には上がおるでな」
「よく、言うぜ。天下に名高い豪傑――関羽、張飛、許楮、典韋、太史慈、孫策、顔良、文醜……みんな、みんな、俺が喰ってやる。そして」
「呂布殿、か」
「そうだよ。まだ、俺はそこまでに至ってない。まぁ、ゆっくりとやっていくさ。いつか必ず呂布に辿り着き、その強さを喰らってやる」
「儂は、含まれておらんのだな」
「何でだ? 仲間だろ?」
不思議そうに、言った。
「なるほど……そろそろ、引き揚げるか」
黄忠がきびきびと動き出した。
「ああ」
甘寧が、後を追う。
二人の亡骸に、軽く会釈した。
孫策の本隊が壊滅した先陣に追いついたのは、二人が立ち去った後であった。
それを、眩しい想いで見上げていた。
自然と、自分の口にも微笑みが零れていた。
「なあ、祖茂」
「殿、なんでしょうか?」
「孫策、よく、育ってくれたなぁ」
「お父上に、殿に、似られましたな」
孫策の、父。
それは、かの江東の虎、孫堅のこと。
刻は、遡る。
それは、孫策の初陣の日。
「うん。あれは、俺に良く似ている。孫権とは、大違いだ」
「本当に」
「悪いところも、似てしまった……」
「殿?」
「祖茂、頼みたい事があるんだ」
「なんでしょうか? 命を差し出せ、以外なら大抵承りますが?」
「ふん、孫策を、導いてやってくれ」
「私が、ですか? ……韓当や、黄蓋が、いますよ。程普も」
同僚の名をあげた。
「あいつらはなぁ……基本的には、あいつら俺と同じだろ? それじゃあ、駄目だと思うんだ。孫策には、冷静さを、身につけさせたい。それには、お前が一番適任だろう」
「よろしいですが……」
なんだ、これは。
この、胸騒ぎは。
「どうした?」
「いえ……まるで遺言のような口ぶりだったので……」
「バーカ、何が遺言だ。まだピンピンしとるわ」
孫堅がぐるぐると肩を回した。
「そうですな、いや失敬。いつもの殿らしくありませんので」
少年が、駈けてくる。
興奮を、隠しきれなくて。
瞳の輝きが印象的であった。
「なんだそれ……おお、孫策! 見事な初陣だったぞ! 次は劉表だ。そのときも、先鋒を任せるぞ」
「わかった!」
孫堅が、馬を走らせた。
並んで馬を走らせる二人の背中を見送る。
ぼんやりと、陽炎のように消えていく。
それを、祖茂は見つめていた。
大殿。
大殿との約束、
果たせた……
で……しょう…か……
いえ……弟子は、未熟な師を……はるかに……越えて……いき……ま……し……――
「そ、祖茂殿ぉぉぉぉ!!!!!!」
凌統が叫んだ。
もはや、祖茂の瞳は何者も映さず。
血の大輪を咲かせ、動くことなく。
翁が――黄忠が、その薙刀を振るい、着いた血を落とした。
祖茂の手には、折れた刀。
刃が虚しく、散らばっていた。
黄忠の薙刀は、受け止めた祖茂の刀ごと、祖茂の身体を断ち切った。
凌操が、口を歪ませる。
僚友が死んだというのに、声を出す事も出来ない。
金属音は、いまだ止むことなく。
鈴の――甘寧。
強い。
祖茂……。
「……よくも、祖茂殿を!」
「……若いの、命を粗末にするな」
黄忠が、薙刀を背中に戻した。
弓矢を携え腕を組む。傍観の姿勢。
甘寧の戦いを見ようという気になったのだ。
「ば、馬鹿にするな!」
凌統が、黄忠に襲いかかった。
容易く、その槍をかわす。その腹に、蹴りを入れる。
凌統の身体が、船に叩きつけられた。
それで、動けなくなった。
意識は、ある。
黄忠は、ちょっとの間凌統を見ていたが、立ち上がれないのを確認すると、鈴の音の元に視線を戻した。
「鎧を、身につけていないのに……」
少しでも、入れば、終わらせられるのに……
両者が、一旦離れた。
「おっさん、どうして俺が鎧を着けていないかわかるか?」
甘寧がいった。
答えは、ない。
凌操は、息を整えるのに必死だった。
「必要、ないからさ。相手に俺の身体に触れさせない。それなら、鎧はいらんだろ?」
「ああ、そうだな……戯れ言を」
「いや、本気だって。現に、お前は俺に指一本触れてないわけで」
甘寧が、笑った。
嫌な、笑みだ。
この笑いに似たものを、一度見た事がある。
汜水関で、あの武神も、同じような笑みを浮かべていた。
狂気を帯びた笑み。
逃げるか?
それも、一手。悪くはない。息子を連れて、逃げる。
生き残れば、勝ち。
そう、言った。
だが……背中を、見せられるか?
逃げられるか?
息子の、前で?
「……参る」
凌操の槍先が、ぴたりと止まった。狙うは、心の臓。
甘寧がその笑みをとめる。
ああ、まだまだだと凌操は思った。
漆黒の戦姫と言われた彼女は、笑いながら、死を振りまいた。
それに比べれば、目の前の男は可愛いものだ。
まだ、染まりきっていない。
死、そのものに、なっていない。
あれは、恐ろしく、美しかった。
彼女の姿を、思考から除く。
神経を、集中させる。
これで、終わらせる。
この一突きに、全てをかける。
――水滴穿つ、一筋の光――
「神、槍」
凌操が、動いた。
槍が、生き物のように、甘寧に伸びる。
ガッ、っと、火花が散った。
凌操が、笑った。
真っ赤。
勝った。
次は、黄忠。
大殿の、敵を……
思考が途切れる。
あれ?
どうした、息子よ、どうして、泣いている?
泣くな。
俺は、大殿が死んだときも……
いや、泣いたなぁ……
「ちっ……」
甘寧が、舌打ちした。
その腕に、傷が。
腕だけ、だった。
捌いた、のだ。
槍を捌き、そのまま返す刀で、凌操を斬った。
「やるじゃ、ねえか……」
「お見事」
黄忠が、手を叩いた。
「は……これで、俺はまた一歩強くなったわけだ」
「む?」
「そういうことだろう? こいつは、強かった。俺はこいつに勝った。だから、俺はこいつより強くなった」
「ふーむ」
「こいつ、じゃない……」
凌統が、よろよろと立ち上がった。燃えるような目で、二人を見ていた。
血に染まった二人と、血に染められた二人を。
「凌操……覚えておけ……俺の、俺の父上だ!」
「そうか……悪い事したなぁ」
甘寧が頭を掻いた。
「誇りに思っていいぞ。お前の親父、強かったよ」
「貴様!」
凌統が、動いた。
それは、ゆっくりとであった。
黄忠の蹴りが、凌統の動きを縛っていた。
槍を叩き落とし、甘寧が首をぎゅっと握ると片手で持ち上げた。
「あぐ……こ、ころ……」
「馬鹿、言うなよ。殺さねえよ」
「おま……」
「俺は、甘寧。鈴の、甘寧。よく覚えておけ。これが敵の名、敵の顔だ。頭に灼きつけろ、忘れるな。憎しみを抱いてこれから生きろ。そして、俺を殺しに来い。強くなって、殺しに来い」
そう言うと、投げ捨てた。
一声呻くと、凌統は、気を失った。
甘寧が、己の傷の血を、舐めた。
「生かす、か?」
「ああ、こいつは強くなる。強くなって、俺を殺しに来る。それを、俺が喰らう」
「ふむ……お主の糧とするか」
「ああ。いい目だ。憎しみに囚われた目。こういう奴は、強くなるんだ」
「そんなに、強くなりたいのか?」
黄忠が、尋ねた。
甘寧が、きょとんとした。それから、当たり前だというように、何度も頷いた。
「当たり前だ。じいさんもそうだろ?」
「儂はなぁ……年だし、いやはや、上には上がおるでな」
「よく、言うぜ。天下に名高い豪傑――関羽、張飛、許楮、典韋、太史慈、孫策、顔良、文醜……みんな、みんな、俺が喰ってやる。そして」
「呂布殿、か」
「そうだよ。まだ、俺はそこまでに至ってない。まぁ、ゆっくりとやっていくさ。いつか必ず呂布に辿り着き、その強さを喰らってやる」
「儂は、含まれておらんのだな」
「何でだ? 仲間だろ?」
不思議そうに、言った。
「なるほど……そろそろ、引き揚げるか」
黄忠がきびきびと動き出した。
「ああ」
甘寧が、後を追う。
二人の亡骸に、軽く会釈した。
孫策の本隊が壊滅した先陣に追いついたのは、二人が立ち去った後であった。