小説置き場2

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長江、燃える(4)

 あの方は、笑っておられた。
 それを、眩しい想いで見上げていた。
 自然と、自分の口にも微笑みが零れていた。
「なあ、祖茂」
「殿、なんでしょうか?」
孫策、よく、育ってくれたなぁ」
「お父上に、殿に、似られましたな」
 孫策の、父。
 それは、かの江東の虎、孫堅のこと。
 刻は、遡る。
 それは、孫策の初陣の日。
「うん。あれは、俺に良く似ている。孫権とは、大違いだ」
「本当に」
「悪いところも、似てしまった……」
「殿?」
「祖茂、頼みたい事があるんだ」
「なんでしょうか? 命を差し出せ、以外なら大抵承りますが?」
「ふん、孫策を、導いてやってくれ」
「私が、ですか? ……韓当や、黄蓋が、いますよ。程普も」
 同僚の名をあげた。
「あいつらはなぁ……基本的には、あいつら俺と同じだろ? それじゃあ、駄目だと思うんだ。孫策には、冷静さを、身につけさせたい。それには、お前が一番適任だろう」
「よろしいですが……」
 なんだ、これは。
 この、胸騒ぎは。
「どうした?」
「いえ……まるで遺言のような口ぶりだったので……」
「バーカ、何が遺言だ。まだピンピンしとるわ」
 孫堅がぐるぐると肩を回した。
「そうですな、いや失敬。いつもの殿らしくありませんので」
 少年が、駈けてくる。
 興奮を、隠しきれなくて。
 瞳の輝きが印象的であった。
「なんだそれ……おお、孫策! 見事な初陣だったぞ! 次は劉表だ。そのときも、先鋒を任せるぞ」
「わかった!」
 孫堅が、馬を走らせた。
 並んで馬を走らせる二人の背中を見送る。
 ぼんやりと、陽炎のように消えていく。
 それを、祖茂は見つめていた。
 大殿。
 大殿との約束、
 果たせた……
 で……しょう…か……
 いえ……弟子は、未熟な師を……はるかに……越えて……いき……ま……し……――



「そ、祖茂殿ぉぉぉぉ!!!!!!」
 凌統が叫んだ。
 もはや、祖茂の瞳は何者も映さず。
 血の大輪を咲かせ、動くことなく。
 翁が――黄忠が、その薙刀を振るい、着いた血を落とした。
 祖茂の手には、折れた刀。
 刃が虚しく、散らばっていた。
 黄忠薙刀は、受け止めた祖茂の刀ごと、祖茂の身体を断ち切った。
 凌操が、口を歪ませる。
 僚友が死んだというのに、声を出す事も出来ない。
 金属音は、いまだ止むことなく。
 鈴の――甘寧
 強い。
 祖茂……。
「……よくも、祖茂殿を!」
「……若いの、命を粗末にするな」
 黄忠が、薙刀を背中に戻した。
 弓矢を携え腕を組む。傍観の姿勢。
 甘寧の戦いを見ようという気になったのだ。
「ば、馬鹿にするな!」
 凌統が、黄忠に襲いかかった。
 容易く、その槍をかわす。その腹に、蹴りを入れる。
 凌統の身体が、船に叩きつけられた。
 それで、動けなくなった。
 意識は、ある。
 黄忠は、ちょっとの間凌統を見ていたが、立ち上がれないのを確認すると、鈴の音の元に視線を戻した。
「鎧を、身につけていないのに……」
 少しでも、入れば、終わらせられるのに……
 両者が、一旦離れた。
「おっさん、どうして俺が鎧を着けていないかわかるか?」
 甘寧がいった。
 答えは、ない。
 凌操は、息を整えるのに必死だった。
「必要、ないからさ。相手に俺の身体に触れさせない。それなら、鎧はいらんだろ?」
「ああ、そうだな……戯れ言を」
「いや、本気だって。現に、お前は俺に指一本触れてないわけで」
 甘寧が、笑った。
 嫌な、笑みだ。
 この笑いに似たものを、一度見た事がある。
 汜水関で、あの武神も、同じような笑みを浮かべていた。
 狂気を帯びた笑み。
 逃げるか?
 それも、一手。悪くはない。息子を連れて、逃げる。
 生き残れば、勝ち。
 そう、言った。
 だが……背中を、見せられるか?
 逃げられるか?
 息子の、前で?
「……参る」
 凌操の槍先が、ぴたりと止まった。狙うは、心の臓。
 甘寧がその笑みをとめる。
 ああ、まだまだだと凌操は思った。
 漆黒の戦姫と言われた彼女は、笑いながら、死を振りまいた。
 それに比べれば、目の前の男は可愛いものだ。
 まだ、染まりきっていない。
 死、そのものに、なっていない。
 あれは、恐ろしく、美しかった。
 彼女の姿を、思考から除く。
 神経を、集中させる。
 これで、終わらせる。
 この一突きに、全てをかける。
 ――水滴穿つ、一筋の光――
「神、槍」
 凌操が、動いた。
 槍が、生き物のように、甘寧に伸びる。
 ガッ、っと、火花が散った。
 凌操が、笑った。
 真っ赤。
 勝った。
 次は、黄忠
 大殿の、敵を……
 思考が途切れる。
 あれ?
 どうした、息子よ、どうして、泣いている?
 泣くな。
 俺は、大殿が死んだときも……
 いや、泣いたなぁ……
「ちっ……」
 甘寧が、舌打ちした。
 その腕に、傷が。
 腕だけ、だった。
 捌いた、のだ。
 槍を捌き、そのまま返す刀で、凌操を斬った。
「やるじゃ、ねえか……」
「お見事」
 黄忠が、手を叩いた。
「は……これで、俺はまた一歩強くなったわけだ」
「む?」
「そういうことだろう? こいつは、強かった。俺はこいつに勝った。だから、俺はこいつより強くなった」
「ふーむ」
「こいつ、じゃない……」
 凌統が、よろよろと立ち上がった。燃えるような目で、二人を見ていた。
 血に染まった二人と、血に染められた二人を。
凌操……覚えておけ……俺の、俺の父上だ!」
「そうか……悪い事したなぁ」
 甘寧が頭を掻いた。
「誇りに思っていいぞ。お前の親父、強かったよ」
「貴様!」
 凌統が、動いた。
 それは、ゆっくりとであった。
 黄忠の蹴りが、凌統の動きを縛っていた。
 槍を叩き落とし、甘寧が首をぎゅっと握ると片手で持ち上げた。
「あぐ……こ、ころ……」
「馬鹿、言うなよ。殺さねえよ」
「おま……」
「俺は、甘寧。鈴の、甘寧。よく覚えておけ。これが敵の名、敵の顔だ。頭に灼きつけろ、忘れるな。憎しみを抱いてこれから生きろ。そして、俺を殺しに来い。強くなって、殺しに来い」
 そう言うと、投げ捨てた。
 一声呻くと、凌統は、気を失った。
 甘寧が、己の傷の血を、舐めた。
「生かす、か?」
「ああ、こいつは強くなる。強くなって、俺を殺しに来る。それを、俺が喰らう」
「ふむ……お主の糧とするか」
「ああ。いい目だ。憎しみに囚われた目。こういう奴は、強くなるんだ」
「そんなに、強くなりたいのか?」
 黄忠が、尋ねた。
 甘寧が、きょとんとした。それから、当たり前だというように、何度も頷いた。
「当たり前だ。じいさんもそうだろ?」
「儂はなぁ……年だし、いやはや、上には上がおるでな」
「よく、言うぜ。天下に名高い豪傑――関羽張飛、許楮、典韋太史慈孫策顔良文醜……みんな、みんな、俺が喰ってやる。そして」
呂布殿、か」
「そうだよ。まだ、俺はそこまでに至ってない。まぁ、ゆっくりとやっていくさ。いつか必ず呂布に辿り着き、その強さを喰らってやる」
「儂は、含まれておらんのだな」
「何でだ? 仲間だろ?」
 不思議そうに、言った。
「なるほど……そろそろ、引き揚げるか」
 黄忠がきびきびと動き出した。
「ああ」
 甘寧が、後を追う。
 二人の亡骸に、軽く会釈した。
 
 

 孫策の本隊が壊滅した先陣に追いついたのは、二人が立ち去った後であった。