紀霊伝ノ4~紀霊の憂鬱~
大きな、風呂だった。
どこの有名旅館なのかと毎度のことながら半ば呆れて感心する。
湯船から湯をすくい、一浴びしてから、身体を洗う。
ふと、その手をとめ、鏡に映る自分の顔をぼおっと眺めた。
鏡に映る右目を見る。
鏡に映る右目の刀傷を、そっとなぞった。
運命とは、不思議なものだと、紀霊は思った。
一月前までは、その日の食事にも困っていた。
住むところもなく、もう少しで、野盗に身を落としていたかもしれない。
それが、今では衣住食きちんと満たされている。
こんなこと、想像、できなかった。
「運命とは、不思議なものだ」
そう、いった。
父は、今の私を見たら、どう、言うだろう。
あの人は、私のことを好きではなかった。
そう、思う。
口にしたことは、一度もない。
それでも、肌で感じられた。
父は武術者であった。
三尖刀をそれなりに使うことが出来た。
それなり、だった。
酒場の用心棒が、関の山。
その程度の腕。
物心ついたときから、父は私に武術を叩き込んだ。
そのころには、母は既に亡かった。
自分の夢、亡き母の夢――武術の腕で、取り立てられる――を、私に託すために。
だが、私は女だった。
女の身で、武術で名を成した者はほとんどいない。
そのため、どうしても軽んじられてしまう。
母が、そうだったという。
父よりも数段上だったが、仕官することは出来なかった。
よっぽどの人物が現れない限り、この風潮は変わらないだろう。
……だから、男として育てられた。
武術の腕は、父をはるかに凌いだ。
人に教える才能は父にはあったのだ。
もしかしたら、田舎で小さな道場を営む方が、父には良かったのかもしれない。
これが最後と仕官を求め、破れた父は、病に倒れた。
気力が、なかったのだろう。
長くは持たなかった。
遺言もなにも、なかった。
それから、なんとか、生きてきた。
袁術様を助けたのは、偶然だった。
なんとなく、だった。
それで、仕官出来るとは思わなかった。
それも、天下に名だたる名門中の名門、袁家に。
袁術様は、自分を気に入ってくれた……ようだ。
よく、わからない。
私のことは、男と思っている。
それは、間違いない。
それで、いい。
このことは、秘密にしておけばいい。
それに……袁術様をどんな形であれ、裏切りたくはない。
「……あ?」
頭を振ると、湯を浴びた。
我ながら、今のは間抜けな声だと思う。
あの方は、仕えるべき主人だ。それだけだ。
湯船に、浸る。
心地よかった。頭の上に、タオルを載せた。
やっぱり、ここは広い。
ちょっと泳いでみる。
アヒルのおもちゃがあったので、戯れてみた。
「…………!」
「…………!」
声?
着替え場?
こんな時間に? 一体、誰が……
「兄上、私は一人で入ると……」
「いいじゃないか、袁術!」
「まったく……おや? 明かりが……」
この声、袁術様と袁紹様! まだ、お入りになっていなかったのか!
出、出口は……一つだけ……
マズイ。
ガラガラっと入り口が開けられた。
え、袁術様!
ばっと、紀霊が背中を向けた。
「誰か、いるのか?」
袁紹が、顔を出した。
「うーん? 湯煙に人影があるね」
「ブクブクブク……」
「?」
「?」
「は、はい」
「ん、紀霊か。入るぞ」
「え、いや、んん、その」
「?」
「ど、どうぞ……」
と、とにかくやりすごさないと……
二人が……いや、もっぱら袁紹様が袁術様に話しかけている。
袁術様、さっき体付きを拝見したが、よく鍛えられていたな……って、何を考えているんだ私は……
死にそう……
「でさぁ、曹操の奴非道いんだよ。花嫁泥棒、僕のせいにするんだからね! 顔良と文醜が助けてくれなかったらどうなっていたか!」
「……いいじゃないですか、花嫁、無事に恋人と逃げられたんだし」
「まあ、ね」
はぅ……頭が、ぼぉっとするぅ……ガマンガマン。
「紀霊、ちょっと話に入ってきたら?」
「い、いえ、遠慮するであります?」
「疑問?」
袁術が、言った。
「え、遠慮します、はい……」
「……」
うわー、袁術様の視線が背中越しに痛いよー ;△;
「そろそろ、はいろっか」
「はいはい」
チャプンと音がした。
ザブザブとお湯が鳴る。
う、うまく、逃げられないかな。
げ、限界が……
入り口に……
「……あ」
「ん」
振り返ると、主がそこに。タオルで金魚を作っている。袁紹は、あひるで遊んでいた。
主と目があった。
もろに、あってしまった。
のぼせた頭が、さらにのぼせる。
袁術が、顔を近づけてきた。
顔を下に向けることしか出来なかった。
「お前、顔赤いぞ? 大丈夫か?」
「……だ、大丈夫です」
「やっぱり、傷、消えないな。ごめんな」
顔を、あげた。
笑み。
この方は、いつも怒っているような顔をしていた。
たまに、困ったような笑みを浮かべるときが、あった。
「い、いえ……」
「紀霊、長風呂なんだね」
袁紹がジョボンと袁術を沈めながら言った。
「あ、はい」
ジタバタしている袁術様。
だ、大丈夫なのでしょうか?
「プハァ!!! な、なにすんだゴラァ!!!」
「あはは」
二人、おいかけっこ。
ぷっと、知らず知らずに笑いが零れた。
この二人、仲の良い兄弟だと、思う。
主は、いつも否定するが。
そのまま、二人は外に出た。
ありがたい……まだ、気が抜けないが。
多分、バレテナイ……よね。
「……助かった……ブクブクブク」
「あー、紀霊?」
急に、入り口が開いた。
「ブグファ! ゴボ! ゴボ!」
「……大丈夫か?」
「はい!」
「……これから、タマの散歩に行こうと思うんだ。済まないが」
「あ、お供します」
「うん。あ、兄上! 俺のアロエヨーグルト!」
「ふふ~ん」
「クタバレ、この花嫁泥棒!!!」
「あはは~♪」
……あ、嵐は、去ったか……
本当、大変でした……
そうそう、タマは、あの犬の名前です。
……の、のぼせたぁ……
えっと……後悔は、してない。
多分。
以外と袁家の出番が多くなってきたな~
どこの有名旅館なのかと毎度のことながら半ば呆れて感心する。
湯船から湯をすくい、一浴びしてから、身体を洗う。
ふと、その手をとめ、鏡に映る自分の顔をぼおっと眺めた。
鏡に映る右目を見る。
鏡に映る右目の刀傷を、そっとなぞった。
運命とは、不思議なものだと、紀霊は思った。
一月前までは、その日の食事にも困っていた。
住むところもなく、もう少しで、野盗に身を落としていたかもしれない。
それが、今では衣住食きちんと満たされている。
こんなこと、想像、できなかった。
「運命とは、不思議なものだ」
そう、いった。
父は、今の私を見たら、どう、言うだろう。
あの人は、私のことを好きではなかった。
そう、思う。
口にしたことは、一度もない。
それでも、肌で感じられた。
父は武術者であった。
三尖刀をそれなりに使うことが出来た。
それなり、だった。
酒場の用心棒が、関の山。
その程度の腕。
物心ついたときから、父は私に武術を叩き込んだ。
そのころには、母は既に亡かった。
自分の夢、亡き母の夢――武術の腕で、取り立てられる――を、私に託すために。
だが、私は女だった。
女の身で、武術で名を成した者はほとんどいない。
そのため、どうしても軽んじられてしまう。
母が、そうだったという。
父よりも数段上だったが、仕官することは出来なかった。
よっぽどの人物が現れない限り、この風潮は変わらないだろう。
……だから、男として育てられた。
武術の腕は、父をはるかに凌いだ。
人に教える才能は父にはあったのだ。
もしかしたら、田舎で小さな道場を営む方が、父には良かったのかもしれない。
これが最後と仕官を求め、破れた父は、病に倒れた。
気力が、なかったのだろう。
長くは持たなかった。
遺言もなにも、なかった。
それから、なんとか、生きてきた。
袁術様を助けたのは、偶然だった。
なんとなく、だった。
それで、仕官出来るとは思わなかった。
それも、天下に名だたる名門中の名門、袁家に。
袁術様は、自分を気に入ってくれた……ようだ。
よく、わからない。
私のことは、男と思っている。
それは、間違いない。
それで、いい。
このことは、秘密にしておけばいい。
それに……袁術様をどんな形であれ、裏切りたくはない。
「……あ?」
頭を振ると、湯を浴びた。
我ながら、今のは間抜けな声だと思う。
あの方は、仕えるべき主人だ。それだけだ。
湯船に、浸る。
心地よかった。頭の上に、タオルを載せた。
やっぱり、ここは広い。
ちょっと泳いでみる。
アヒルのおもちゃがあったので、戯れてみた。
「…………!」
「…………!」
声?
着替え場?
こんな時間に? 一体、誰が……
「兄上、私は一人で入ると……」
「いいじゃないか、袁術!」
「まったく……おや? 明かりが……」
この声、袁術様と袁紹様! まだ、お入りになっていなかったのか!
出、出口は……一つだけ……
マズイ。
ガラガラっと入り口が開けられた。
え、袁術様!
ばっと、紀霊が背中を向けた。
「誰か、いるのか?」
袁紹が、顔を出した。
「うーん? 湯煙に人影があるね」
「ブクブクブク……」
「?」
「?」
「は、はい」
「ん、紀霊か。入るぞ」
「え、いや、んん、その」
「?」
「ど、どうぞ……」
と、とにかくやりすごさないと……
二人が……いや、もっぱら袁紹様が袁術様に話しかけている。
袁術様、さっき体付きを拝見したが、よく鍛えられていたな……って、何を考えているんだ私は……
死にそう……
「でさぁ、曹操の奴非道いんだよ。花嫁泥棒、僕のせいにするんだからね! 顔良と文醜が助けてくれなかったらどうなっていたか!」
「……いいじゃないですか、花嫁、無事に恋人と逃げられたんだし」
「まあ、ね」
はぅ……頭が、ぼぉっとするぅ……ガマンガマン。
「紀霊、ちょっと話に入ってきたら?」
「い、いえ、遠慮するであります?」
「疑問?」
袁術が、言った。
「え、遠慮します、はい……」
「……」
うわー、袁術様の視線が背中越しに痛いよー ;△;
「そろそろ、はいろっか」
「はいはい」
チャプンと音がした。
ザブザブとお湯が鳴る。
う、うまく、逃げられないかな。
げ、限界が……
入り口に……
「……あ」
「ん」
振り返ると、主がそこに。タオルで金魚を作っている。袁紹は、あひるで遊んでいた。
主と目があった。
もろに、あってしまった。
のぼせた頭が、さらにのぼせる。
袁術が、顔を近づけてきた。
顔を下に向けることしか出来なかった。
「お前、顔赤いぞ? 大丈夫か?」
「……だ、大丈夫です」
「やっぱり、傷、消えないな。ごめんな」
顔を、あげた。
笑み。
この方は、いつも怒っているような顔をしていた。
たまに、困ったような笑みを浮かべるときが、あった。
「い、いえ……」
「紀霊、長風呂なんだね」
袁紹がジョボンと袁術を沈めながら言った。
「あ、はい」
ジタバタしている袁術様。
だ、大丈夫なのでしょうか?
「プハァ!!! な、なにすんだゴラァ!!!」
「あはは」
二人、おいかけっこ。
ぷっと、知らず知らずに笑いが零れた。
この二人、仲の良い兄弟だと、思う。
主は、いつも否定するが。
そのまま、二人は外に出た。
ありがたい……まだ、気が抜けないが。
多分、バレテナイ……よね。
「……助かった……ブクブクブク」
「あー、紀霊?」
急に、入り口が開いた。
「ブグファ! ゴボ! ゴボ!」
「……大丈夫か?」
「はい!」
「……これから、タマの散歩に行こうと思うんだ。済まないが」
「あ、お供します」
「うん。あ、兄上! 俺のアロエヨーグルト!」
「ふふ~ん」
「クタバレ、この花嫁泥棒!!!」
「あはは~♪」
……あ、嵐は、去ったか……
本当、大変でした……
そうそう、タマは、あの犬の名前です。
……の、のぼせたぁ……
えっと……後悔は、してない。
多分。
以外と袁家の出番が多くなってきたな~