長江、燃える(5)
祖茂とは、長く長く一緒にいた。
師、であった。
父が死んでから、家族以外で最も長く自分と一緒にいた。
静かな男であった。
よく、袁術の下で鬱屈としていた自分をたしなめた。
その言い方は、水のように、炎のように、掴み所がなかった。腹が立つ事もあった。
それでも、最後には不思議と気が安らいだ。
父の友人であったという。
母は、祖茂の姿にいつも複雑な視線を送っていた。
祖茂は、学問をよく修めていた。並の文官よりはるかに優れていた。
専ら武芸だけを学んだ自分にも進めた。
祖茂に勧められたものはほとんど読まなかったが、孫子だけは貪るように読んだ。
それには、父の書き込みと祖茂の書き込みがしてあった。
剣も、なかなかの腕だった。人に教えるほどではなかったが。
「こればっかりは……」
立ち会いを申し込むと、恥ずかしそうにそう言っていた。
師で、あった。
間違いなく、そう言える。
胸を張って言える。
「祖茂……ゆっくりと休め。親父に、よろしくな」
立て膝をつく。顔に、手をやる。
目を、閉じさせる。
こんなに白いものが混じっていたのかと、その髪をみて、ふと思った。
父が死ぬ前は、黒々としていた。
刃が散らばっている。
床が赤い。
紅い液体を、孫策は指に絡ませた。
船団の動きを止めさせた。
先鋒が壊滅したのだ。生き残った者の話ではあっという間だったという。
たった二人に、壊滅させられた。
祖茂が、討たれた。
もう一人。
それは孫策のすぐ傍らにいる。
凌操が、討たれた。
血の河に沈む凌操の亡骸――それに、一人の少年がしがみついている。
ただ、しがみつき、虚ろな視線を宙に漂わせていた。
祖茂から、離れる。運べと、短く指示を送る。黄蓋・韓当・程普が、泣きながら祖茂を運んでいった。
周瑜・太史慈が、自分を見ている。
自分は、凌統を見ていた。
同じだと、思った。
自分と、同じだと。
「凌統――」
返事は、なかった。
だが、凌統の指に、さらに力が込められた。
「どうする? ずっと、しがみついたままか?」
いやいやと、首を横に振った。
「別れは、済んだか?」
いやいやと、凌統は首を横に振った。
「そうだな。そう、だよな。当たり前、だよな。俺も、そうだった。戻ってきた親父の亡骸に、一晩中しがみついていた」
返事は、なかった。なくても、よかった。
「すまない、凌統」
「殿が謝ること、ないです。これは、俺の責任です」
凌統が、口を開いた。
振り返る。
瞳が、漆黒に染まっていた。
「俺がもっと強ければ、こうはならなかった。もっと、強ければ。俺の、責任です」
孫策は、何も言わなかった。その瞳を見ていた。
似ていると、思った。
戦場でのあの人の瞳に。
「凌統」
「はい」
「狂気に、飲み込まれるな。それを操ってこそ、だ」
俺も、飲み込まれかけた。
それは、言わなかった。
「……」
凌統は小さく一礼をした。
「凌統。その怪我ではもう戦はできまい。二人の亡骸と一緒に、一度帰れ。いいな?」
「はい」
返事は、短かった。凌統が血の気のない凌操を背負う。
その、槍を拾う。
声が、漏れた。自分の口からであった。それを、噛み殺した。
「殿」
すれ違う時、凌統が言った。
「なんだ」
もう、孫策は凌統を見なかった。
見れば、決壊する。
「甘寧は、殺さないで下さい。お願いします。あれは、あの男は、俺が殺します。俺を生かした事を、後悔させてやります」
「……わかった」
また、凌統が一礼した。
しばらくして、その気配がなくなる。
「孫策」
周瑜が、話しかけてきた。太史慈もまだその隣にいる。
武将では、この二人が抜きん出ていた。
「陣立ては、どうしますか?」
「……黄忠がいるとは、予想出来なかった。あれは、蔡瑁に飛ばされたんじゃなかったのか?」
疑問を口にした。諜報を任せている仁凶は、今まで誤りを伝えた事はなかった。
「そのはずです。蔡瑁に戻されたとは、とてもじゃないが思えません。無断で、戻ったということも考えられますが」
「殿、甘寧も。最近、鳴りを潜めていましたが、よもや黄祖の許とは」
太史慈が言った。
「……それで、陣立ては?」
「変えるかしかねぇ。二人、いなくなったんだ。すぐに、軍議に移る」
不吉。
その二文字が、孫策の脳裏に浮かんだ。
まだ、なにかある。思いもしない、何かが。
そう、思えた。
「ふーん。いや、いい動きだね。さすがは、江東の虎の小倅だ」
「わかるのですか?」
「黄祖どん。馬鹿にされちゃあ困るね。おいら達は黄巾討伐のとき、朱儁さんの下で、ここで戦ったんだ」
「そうでしたな」
黄祖が、話していた。
巨大な、旗艦での会話。黄祖の後ろには、その将が。
黄祖が話している男の後ろにも、何人か控えていた。
「孫堅どんとも、一緒に戦った。短い間だったけどね。おいら、すぐに北にいったから」
「……ここまでは、うまくいっています」
「そうだね……そろそろ、いこうか」
「おっしゃ!」
「御意」
太史慈。俯いていた。
はっとした。何かに気付いた。
大気の流れ、長江の流れが、変わったように肌で感じた。
戦の風が、動いた。
鎧を打つ小雨。
壁のように切り立った崖――いにしえ、三人の男が、ここで誓いをたてたという――名もない、崖が、視界に入った。
自分の得物――餓龍天槍――を握ると、前方をみた。
船、船団。
黄祖の軍。お互い少しずつ近づいている。それは、さっきから変わらない。
はっと、目を見開いた。
旗艦が前に出ている。
太史慈は、少し早いと思いながらも戦闘準備を配下に取らせた。
今は、太史慈が先陣の位置にいた。
「やあや、孫家のみなさんさぁ!」
大きな声。旗艦の人影が、それをだした。
太史慈の耳に響いた。
知っている人間の声だった。
だが、咄嗟には誰の声かわからなかった。
「はん、中華の北斗七星」
気がついた。この声。知っている。
だが、どうしてここに?
太史慈は、明らかにうろたえていた。
「劉、玄徳。劉表どんに代わって荊州を治め、黄祖どんに代わって」
孫家の兵が、どよめき始めている。
それが、劉備には心地よかった。
「虎の子退治と、しゃれこもうじゃねえか」
憤怒が太史慈の身体を巡った。
主を小馬鹿にした言いよう。
万死に値する。
そう、思った。
なにがどうなっているのかは、わからない。
要は――
勝てば、いいのだ。
「あの、大耳野郎の首をあげろ!」
「さてと、関さん! 張さん! 陳到! 趙雲! 長かったような短かったような、だね。いくよ!」
「おう!」
劉備一党、長江に出現す。
師、であった。
父が死んでから、家族以外で最も長く自分と一緒にいた。
静かな男であった。
よく、袁術の下で鬱屈としていた自分をたしなめた。
その言い方は、水のように、炎のように、掴み所がなかった。腹が立つ事もあった。
それでも、最後には不思議と気が安らいだ。
父の友人であったという。
母は、祖茂の姿にいつも複雑な視線を送っていた。
祖茂は、学問をよく修めていた。並の文官よりはるかに優れていた。
専ら武芸だけを学んだ自分にも進めた。
祖茂に勧められたものはほとんど読まなかったが、孫子だけは貪るように読んだ。
それには、父の書き込みと祖茂の書き込みがしてあった。
剣も、なかなかの腕だった。人に教えるほどではなかったが。
「こればっかりは……」
立ち会いを申し込むと、恥ずかしそうにそう言っていた。
師で、あった。
間違いなく、そう言える。
胸を張って言える。
「祖茂……ゆっくりと休め。親父に、よろしくな」
立て膝をつく。顔に、手をやる。
目を、閉じさせる。
こんなに白いものが混じっていたのかと、その髪をみて、ふと思った。
父が死ぬ前は、黒々としていた。
刃が散らばっている。
床が赤い。
紅い液体を、孫策は指に絡ませた。
船団の動きを止めさせた。
先鋒が壊滅したのだ。生き残った者の話ではあっという間だったという。
たった二人に、壊滅させられた。
祖茂が、討たれた。
もう一人。
それは孫策のすぐ傍らにいる。
凌操が、討たれた。
血の河に沈む凌操の亡骸――それに、一人の少年がしがみついている。
ただ、しがみつき、虚ろな視線を宙に漂わせていた。
祖茂から、離れる。運べと、短く指示を送る。黄蓋・韓当・程普が、泣きながら祖茂を運んでいった。
周瑜・太史慈が、自分を見ている。
自分は、凌統を見ていた。
同じだと、思った。
自分と、同じだと。
「凌統――」
返事は、なかった。
だが、凌統の指に、さらに力が込められた。
「どうする? ずっと、しがみついたままか?」
いやいやと、首を横に振った。
「別れは、済んだか?」
いやいやと、凌統は首を横に振った。
「そうだな。そう、だよな。当たり前、だよな。俺も、そうだった。戻ってきた親父の亡骸に、一晩中しがみついていた」
返事は、なかった。なくても、よかった。
「すまない、凌統」
「殿が謝ること、ないです。これは、俺の責任です」
凌統が、口を開いた。
振り返る。
瞳が、漆黒に染まっていた。
「俺がもっと強ければ、こうはならなかった。もっと、強ければ。俺の、責任です」
孫策は、何も言わなかった。その瞳を見ていた。
似ていると、思った。
戦場でのあの人の瞳に。
「凌統」
「はい」
「狂気に、飲み込まれるな。それを操ってこそ、だ」
俺も、飲み込まれかけた。
それは、言わなかった。
「……」
凌統は小さく一礼をした。
「凌統。その怪我ではもう戦はできまい。二人の亡骸と一緒に、一度帰れ。いいな?」
「はい」
返事は、短かった。凌統が血の気のない凌操を背負う。
その、槍を拾う。
声が、漏れた。自分の口からであった。それを、噛み殺した。
「殿」
すれ違う時、凌統が言った。
「なんだ」
もう、孫策は凌統を見なかった。
見れば、決壊する。
「甘寧は、殺さないで下さい。お願いします。あれは、あの男は、俺が殺します。俺を生かした事を、後悔させてやります」
「……わかった」
また、凌統が一礼した。
しばらくして、その気配がなくなる。
「孫策」
周瑜が、話しかけてきた。太史慈もまだその隣にいる。
武将では、この二人が抜きん出ていた。
「陣立ては、どうしますか?」
「……黄忠がいるとは、予想出来なかった。あれは、蔡瑁に飛ばされたんじゃなかったのか?」
疑問を口にした。諜報を任せている仁凶は、今まで誤りを伝えた事はなかった。
「そのはずです。蔡瑁に戻されたとは、とてもじゃないが思えません。無断で、戻ったということも考えられますが」
「殿、甘寧も。最近、鳴りを潜めていましたが、よもや黄祖の許とは」
太史慈が言った。
「……それで、陣立ては?」
「変えるかしかねぇ。二人、いなくなったんだ。すぐに、軍議に移る」
不吉。
その二文字が、孫策の脳裏に浮かんだ。
まだ、なにかある。思いもしない、何かが。
そう、思えた。
「ふーん。いや、いい動きだね。さすがは、江東の虎の小倅だ」
「わかるのですか?」
「黄祖どん。馬鹿にされちゃあ困るね。おいら達は黄巾討伐のとき、朱儁さんの下で、ここで戦ったんだ」
「そうでしたな」
黄祖が、話していた。
巨大な、旗艦での会話。黄祖の後ろには、その将が。
黄祖が話している男の後ろにも、何人か控えていた。
「孫堅どんとも、一緒に戦った。短い間だったけどね。おいら、すぐに北にいったから」
「……ここまでは、うまくいっています」
「そうだね……そろそろ、いこうか」
「おっしゃ!」
「御意」
太史慈。俯いていた。
はっとした。何かに気付いた。
大気の流れ、長江の流れが、変わったように肌で感じた。
戦の風が、動いた。
鎧を打つ小雨。
壁のように切り立った崖――いにしえ、三人の男が、ここで誓いをたてたという――名もない、崖が、視界に入った。
自分の得物――餓龍天槍――を握ると、前方をみた。
船、船団。
黄祖の軍。お互い少しずつ近づいている。それは、さっきから変わらない。
はっと、目を見開いた。
旗艦が前に出ている。
太史慈は、少し早いと思いながらも戦闘準備を配下に取らせた。
今は、太史慈が先陣の位置にいた。
「やあや、孫家のみなさんさぁ!」
大きな声。旗艦の人影が、それをだした。
太史慈の耳に響いた。
知っている人間の声だった。
だが、咄嗟には誰の声かわからなかった。
「はん、中華の北斗七星」
気がついた。この声。知っている。
だが、どうしてここに?
太史慈は、明らかにうろたえていた。
「劉、玄徳。劉表どんに代わって荊州を治め、黄祖どんに代わって」
孫家の兵が、どよめき始めている。
それが、劉備には心地よかった。
「虎の子退治と、しゃれこもうじゃねえか」
憤怒が太史慈の身体を巡った。
主を小馬鹿にした言いよう。
万死に値する。
そう、思った。
なにがどうなっているのかは、わからない。
要は――
勝てば、いいのだ。
「あの、大耳野郎の首をあげろ!」
「さてと、関さん! 張さん! 陳到! 趙雲! 長かったような短かったような、だね。いくよ!」
「おう!」
劉備一党、長江に出現す。