長江、燃える(6)
なんだか眠れないなーと夜の闇の中、思う。
勘が、うずいている。
今日辺り、何か変化が訪れる。そう、囁いている。
良きにしよ、悪しきにしよ、悪くはないと劉備は思った。
「にしても……眠いんですけど」
寝不足なのに第六感が蠢いて眠れない。本当に我ながらやっかい、と劉備は呟いた。
呂布さんを、曹操とともに破った。
今も徐州にいる。
陶謙に徐州を譲られたのは劉備だった。
それから呂布さんに奪い取らせ、曹操に奪い取らせ。
やっと袁術の圧力がなくなった徐州を、劉備は手に入れたかった。
しかし、統治を任されなかった。
曹操には、あまり信用されていないようなのだ。
呂布を裏切った陳珪は、一時徐州を任されたが、息子の後を追うように亡くなった。
その後を任されると思っていたのだが、それはなかった。
一軍を与えられはしたが、もう二人同格の将がいるので、自由がきかない。
曹操から、徐州を取り戻せない。
なんとかならないものかと皆で知恵を絞ってみるのだが……
解決策は何も見つかっていなかった。
「軍師、欲しいなぁ」
そう、帳に向かって呟いた。文官と武将は、揃っている。
軍師が、劉備にはいなかった。
「劉備様……」
女の声だった。劉備は起きあがると、
「起きてるよ。入んな、陳到」
そう言った。
やっと、かい。そう思った。
「はい……」
陳到が、劉備の部屋に入る。
人を連れていた。
陳到と同じ覆面をしていた。
陳到より、少し背が高い。
「陳到、その人は?」
「は、その……」
陳到が、後ろに立っている人物に目配せする。
布の隙間から伺える陳到の表情は、困惑しているようだった。
「なんと、いったらよいのか……」
「え、もしかして彼氏?」
軽口を叩いてみた。
「い、いえ! 違います!」
ムキになって否定されたので、劉備はちょっと驚いた。
「まったく、なにを大声出しているのやら」
口を開いた。男の声だった。
「だよねぇ、びっくりだね、おいら。それで、どちら様でしょうかね?」
劉備は、本人に尋ねた。口調にどすがドスを利き始めている。
元々劉備は侠の人、なのだ。
「お初にお目に掛かる、劉備殿。水鏡一門が一人、徐庶という者だ」
覆面を外しながら言った。顔立ちは若くみえた。男、であった。
「劉備様、この方は私の師で……」
劉備が、ほおっと声をあげた。
水鏡一門は学士の集まりとして世に知られているが、劉備のよく知る裏の世界では、諜報に携わる間者の一大派閥であった。
陳到からも、そのことは聞かされている。
「それで、水鏡一門の人がどうしてここへ? あれかい? 陳到のことかい?」
陳到が、心配そうに徐庶を見た。
どうして徐庶が自分を訪れ劉備様に会いたいと言ってきたのか、まだ知らないのだ。
突然であった。夜、突然呼び出されたのだ。
呼び出しは、水鏡一門特有の方法で、動物の鳴き真似、であった。
趙雲が眠っているのを確認して、陳到は外に出た。仕込み槍を、袖に隠して。
そのときはまだ、相手が分からなかったのだ。
月の光のもと、調練場の椅子に座っていたのは、単福――徐庶であった。
あの時の礼を述べると、徐庶は驚いた顔をした。
それから、少し微笑むと、
「あのガキは元気か」
そう言った。
「はい……」
「そうか。ちょっと気に掛かっていたからな。それでだ、突然呼び出して悪かった。実は、お前の主に取り次いでほしいのだ」
「劉備様に……? しかし……」
「至急の、用なのだ。頼む」
「お、お師さん! か、顔をお上げ下さい……!」
「頼む」
「わ、わかりました! だから……」
「む、そうか。それは良かった」
「はぁ」
この人は、昔から……口には出せないが。
「しかしあれだな、夜こんなところで二人っきりだと、勘違いされそうだな」
陳到が絶句した。
それを見て、徐庶がからからと笑った。
陳到は、そんなことを思い出していた。
「……劉備殿は、天下を獲る気があるか?」
「およ? いきなりだね、徐庶さん」
「お、お師さん……?」
いつも冷静な陳到が慌てているのが、劉備にはちょっと可笑しかった。
誰であれ、師には頭が上がらないってことか。
「さて……おいらは、今、曹操どんの客将だしね」
「はぐらかすな。質問に、答えてくれ」
「あるさ」
平然と、にこやかに言い放った。
「これで、いいかい?」
徐庶が、劉備を見定めるかのように、頭からつま先まで何度も視線を往復させる。
それから、にっこりと笑った。
「……十分です、劉備殿」
「それで、なんなんだい、今の質問?」
「水鏡先生――俺達の頭目、司馬徽様の申し出だ。劉備殿に、荊州の主になっていただきたいのだ」
「なに……」
「へ?」
我ながら間の抜けた声だと、劉備は思った。
「よく、話が飲み込めないね。確か、荊州は劉表さんだよね」
「ああ。だが、劉表には、荊州を治める力はもう……。病が篤いんだ」
「ふーん……」
「国を守る力が衰えた荊州を、曹操や孫策から、お救い下さい」
「……嘘臭いなぁ」
「嘘ですよ」
しれっと徐庶が言った。
「な……!」
こういう陳到は、やっぱり可笑しいや。
前とは、随分と違ってる。
でも、そっちのほうがいい気がするけどね。
「嘘かい!」
「はい。司馬徽様が、大きな仕事をしたいと言われまして。それで、これを」
「……大きいね。しかし、そんなもの簡単にいかないでしょ?」
「策は、ここに。ほとんど、完成しています」
徐庶が、自分の懐に手を突っ込むと巻物を取り出した。
厳重に、封がされてあった。
「お、用意がいいねぇ」
劉備が、手を伸ばす。徐庶が、触れさせまいと巻物を引っ込める。
「およ?」
「これを見るという事は、劉備殿は、この策を実行するということだ。その約束がないなら、これは見せられない」
「……おいらが拒絶したら、他の人に、持ちかけるってことかい?」
「ああ。ここには、陳到がいるから寄っただけだ。別に、呂布でも誰でもいいんだ」
「そいつは……まぁ、そうだね」
「どうする? 乗るか? 乗らないなら、今日の事は忘れてくれ」
「乗る」
「相談、しないんだな」
徐庶が、意外そうに言った。劉備の義兄弟、関羽、張飛に相談するものと思っていたのだ。
「してもしょうがないからね、こういうことは。相手が、いないんだ。関さんも、張さんも、向いてない」
「そうか。それじゃあ、封を開く。いいな?」
「う、うん」
「しかし、どきどきするな。始めて見るってのは、やっぱり興奮するものだな」
徐庶が言った。
「お師さん、中身を知らないのですか……?」
「知らないんだ。今のところ、中身は三人しか知らないはずだ」
ちょっと引っかかった。司馬徽以外に、誰が、知っているのだ。
疑問を口にする間も無く、徐庶が巻物を開ける。
ごくりと、唾を飲み込む。
書かれた策を、追っていく。
劉備が目を輝かせ、にんまりと笑みを浮かべると、陳到に皆を起こすように言った。
徐庶は、その笑みを見て、肝の冷える思いがした。
勘が、うずいている。
今日辺り、何か変化が訪れる。そう、囁いている。
良きにしよ、悪しきにしよ、悪くはないと劉備は思った。
「にしても……眠いんですけど」
寝不足なのに第六感が蠢いて眠れない。本当に我ながらやっかい、と劉備は呟いた。
呂布さんを、曹操とともに破った。
今も徐州にいる。
陶謙に徐州を譲られたのは劉備だった。
それから呂布さんに奪い取らせ、曹操に奪い取らせ。
やっと袁術の圧力がなくなった徐州を、劉備は手に入れたかった。
しかし、統治を任されなかった。
曹操には、あまり信用されていないようなのだ。
呂布を裏切った陳珪は、一時徐州を任されたが、息子の後を追うように亡くなった。
その後を任されると思っていたのだが、それはなかった。
一軍を与えられはしたが、もう二人同格の将がいるので、自由がきかない。
曹操から、徐州を取り戻せない。
なんとかならないものかと皆で知恵を絞ってみるのだが……
解決策は何も見つかっていなかった。
「軍師、欲しいなぁ」
そう、帳に向かって呟いた。文官と武将は、揃っている。
軍師が、劉備にはいなかった。
「劉備様……」
女の声だった。劉備は起きあがると、
「起きてるよ。入んな、陳到」
そう言った。
やっと、かい。そう思った。
「はい……」
陳到が、劉備の部屋に入る。
人を連れていた。
陳到と同じ覆面をしていた。
陳到より、少し背が高い。
「陳到、その人は?」
「は、その……」
陳到が、後ろに立っている人物に目配せする。
布の隙間から伺える陳到の表情は、困惑しているようだった。
「なんと、いったらよいのか……」
「え、もしかして彼氏?」
軽口を叩いてみた。
「い、いえ! 違います!」
ムキになって否定されたので、劉備はちょっと驚いた。
「まったく、なにを大声出しているのやら」
口を開いた。男の声だった。
「だよねぇ、びっくりだね、おいら。それで、どちら様でしょうかね?」
劉備は、本人に尋ねた。口調にどすがドスを利き始めている。
元々劉備は侠の人、なのだ。
「お初にお目に掛かる、劉備殿。水鏡一門が一人、徐庶という者だ」
覆面を外しながら言った。顔立ちは若くみえた。男、であった。
「劉備様、この方は私の師で……」
劉備が、ほおっと声をあげた。
水鏡一門は学士の集まりとして世に知られているが、劉備のよく知る裏の世界では、諜報に携わる間者の一大派閥であった。
陳到からも、そのことは聞かされている。
「それで、水鏡一門の人がどうしてここへ? あれかい? 陳到のことかい?」
陳到が、心配そうに徐庶を見た。
どうして徐庶が自分を訪れ劉備様に会いたいと言ってきたのか、まだ知らないのだ。
突然であった。夜、突然呼び出されたのだ。
呼び出しは、水鏡一門特有の方法で、動物の鳴き真似、であった。
趙雲が眠っているのを確認して、陳到は外に出た。仕込み槍を、袖に隠して。
そのときはまだ、相手が分からなかったのだ。
月の光のもと、調練場の椅子に座っていたのは、単福――徐庶であった。
あの時の礼を述べると、徐庶は驚いた顔をした。
それから、少し微笑むと、
「あのガキは元気か」
そう言った。
「はい……」
「そうか。ちょっと気に掛かっていたからな。それでだ、突然呼び出して悪かった。実は、お前の主に取り次いでほしいのだ」
「劉備様に……? しかし……」
「至急の、用なのだ。頼む」
「お、お師さん! か、顔をお上げ下さい……!」
「頼む」
「わ、わかりました! だから……」
「む、そうか。それは良かった」
「はぁ」
この人は、昔から……口には出せないが。
「しかしあれだな、夜こんなところで二人っきりだと、勘違いされそうだな」
陳到が絶句した。
それを見て、徐庶がからからと笑った。
陳到は、そんなことを思い出していた。
「……劉備殿は、天下を獲る気があるか?」
「およ? いきなりだね、徐庶さん」
「お、お師さん……?」
いつも冷静な陳到が慌てているのが、劉備にはちょっと可笑しかった。
誰であれ、師には頭が上がらないってことか。
「さて……おいらは、今、曹操どんの客将だしね」
「はぐらかすな。質問に、答えてくれ」
「あるさ」
平然と、にこやかに言い放った。
「これで、いいかい?」
徐庶が、劉備を見定めるかのように、頭からつま先まで何度も視線を往復させる。
それから、にっこりと笑った。
「……十分です、劉備殿」
「それで、なんなんだい、今の質問?」
「水鏡先生――俺達の頭目、司馬徽様の申し出だ。劉備殿に、荊州の主になっていただきたいのだ」
「なに……」
「へ?」
我ながら間の抜けた声だと、劉備は思った。
「よく、話が飲み込めないね。確か、荊州は劉表さんだよね」
「ああ。だが、劉表には、荊州を治める力はもう……。病が篤いんだ」
「ふーん……」
「国を守る力が衰えた荊州を、曹操や孫策から、お救い下さい」
「……嘘臭いなぁ」
「嘘ですよ」
しれっと徐庶が言った。
「な……!」
こういう陳到は、やっぱり可笑しいや。
前とは、随分と違ってる。
でも、そっちのほうがいい気がするけどね。
「嘘かい!」
「はい。司馬徽様が、大きな仕事をしたいと言われまして。それで、これを」
「……大きいね。しかし、そんなもの簡単にいかないでしょ?」
「策は、ここに。ほとんど、完成しています」
徐庶が、自分の懐に手を突っ込むと巻物を取り出した。
厳重に、封がされてあった。
「お、用意がいいねぇ」
劉備が、手を伸ばす。徐庶が、触れさせまいと巻物を引っ込める。
「およ?」
「これを見るという事は、劉備殿は、この策を実行するということだ。その約束がないなら、これは見せられない」
「……おいらが拒絶したら、他の人に、持ちかけるってことかい?」
「ああ。ここには、陳到がいるから寄っただけだ。別に、呂布でも誰でもいいんだ」
「そいつは……まぁ、そうだね」
「どうする? 乗るか? 乗らないなら、今日の事は忘れてくれ」
「乗る」
「相談、しないんだな」
徐庶が、意外そうに言った。劉備の義兄弟、関羽、張飛に相談するものと思っていたのだ。
「してもしょうがないからね、こういうことは。相手が、いないんだ。関さんも、張さんも、向いてない」
「そうか。それじゃあ、封を開く。いいな?」
「う、うん」
「しかし、どきどきするな。始めて見るってのは、やっぱり興奮するものだな」
徐庶が言った。
「お師さん、中身を知らないのですか……?」
「知らないんだ。今のところ、中身は三人しか知らないはずだ」
ちょっと引っかかった。司馬徽以外に、誰が、知っているのだ。
疑問を口にする間も無く、徐庶が巻物を開ける。
ごくりと、唾を飲み込む。
書かれた策を、追っていく。
劉備が目を輝かせ、にんまりと笑みを浮かべると、陳到に皆を起こすように言った。
徐庶は、その笑みを見て、肝の冷える思いがした。