小説置き場2

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長江、燃える(終)

 長江沿いの小さな小屋。
 切り立った崖。
 大河を挟んで、その小屋からはよく見えた。
 邪魔する物は、なにもなかった。
 煙が、立ち上っている。
 まだ、新しい。
 客が、訪れた。
 翁。
 大きな躯をしていた。気を、漲らせている。 
 供が二人。両者とも、隙がない。
 鋭利な刃物のようであった。
「おい」
 返事はなかった。
 もう一度、おいと言った。
 入れ。
 そう、声が帰ってきた。
 音を立てずに入ると、囲炉裏の前に座る。
 枯れ木のような翁がいた。切り立った崖を、その翁は見ていた。
 薬湯を、煮詰めていたようだ。
 緑色の液体が、渦を巻いている。
 ぱちぱちと、墨が音を立てた。
赤壁、そう、呼ばれるようになったらしい」
 枯れ木のような翁は、黙ってその崖を見ていた。
小覇王が、その額から血を噴き出した。それとともに、赤くなった、だと」
「面白いことを。元々、赤かったではないか程昱」
 程昱。
 曹操に仕え、主に諜報活動を引き受けている男である。
「うむ……面白いな、水鏡」
 水鏡――司馬徽
 ゆっくりと、司馬徽が身体を動かす。
 程昱と向き合った。
 こぽ、っと、薬湯が音を立てた。
「あの戦、お前が仕組んだな」
「なんのことじゃ?」
「隠さんでいい」
「……そうじゃ」
 いたずらっ子が悪戯でも見つかったような、そんな顔をしていた。
「そうか……不思議な縁だな」
「うむ。そうとしか言いようがないの」
「一体いつだったか、廬植、儂、お主。三人、兄弟の契りを結びこの世の中を変えようと誓い合ったのは」
「いつだったかな……あの崖で、誓いあった。今でも、目に浮かぶ」
 今は、赤壁と呼ばれている。
 その場所を、二人は見つめた。
「廬植が、あんなに早く死ぬとはな……末っ子であったのに」
「心労が、重なったのであろう。元々、身体が丈夫ではなかった。黄巾討伐のとき、無理をし過ぎた」
 司馬徽が言った。
 自分を省みるかのように。
「もし、もう少し長く生きてくれていたらな……」
「どうであったか。あやつは、清廉過ぎたからな」
「わしとおぬしがいれば、どうとでもなったろう」
「それも、そうだな……」
劉備か。廬植が、面白いと度々手紙に書いていたが」
 程昱が、話を変えた。
 うんと、司馬徽が頷く。
「たまたま、我が一門の者が劉備の許にいての」
陳到か」
「知っていたのか?」
「身のこなしが、若いときのおぬしに似ていた。もう、あの動きはおぬしには出来まいな」
「失礼な。わしは今でもあのぐらい動ける!」
「嘘を言うな」
 しんみりとした口調。
 薬湯を見る。
 痛み止め。
 そう、程昱は判別した。
「どれぐらい?」
「……長くは、ない」
「そうか……もう、会えぬな」
「すぐに、立つのか?」
「孫家の動きを見極めねばならん。今日は、そのついでだ」
 曹操は、袁紹とぶつかる準備を始めていた。
 今の孫家には、それほど関心を払っていないはず……
 そこで、思考を止めた。
 友の好意。それで、良かった。
「天下は、どこに転がっていくのかな?」
「さあ、もはや、分からぬ」
「……さらばだ、日を掲げるもの」
「水面に映す、曇り無き鏡。さらば」
 程昱が、水鏡の前から姿を消した。
 水鏡一門特有の技。
 味な真似を。
 そう、呟いた。
 こほんと、咳をした。
 そのまま、司馬徽は動かなくなった。

~長江、燃える(終)~