長江、燃える(終)
長江沿いの小さな小屋。
切り立った崖。
大河を挟んで、その小屋からはよく見えた。
邪魔する物は、なにもなかった。
煙が、立ち上っている。
まだ、新しい。
客が、訪れた。
翁。
大きな躯をしていた。気を、漲らせている。
供が二人。両者とも、隙がない。
鋭利な刃物のようであった。
「おい」
返事はなかった。
もう一度、おいと言った。
入れ。
そう、声が帰ってきた。
音を立てずに入ると、囲炉裏の前に座る。
枯れ木のような翁がいた。切り立った崖を、その翁は見ていた。
薬湯を、煮詰めていたようだ。
緑色の液体が、渦を巻いている。
ぱちぱちと、墨が音を立てた。
「赤壁、そう、呼ばれるようになったらしい」
枯れ木のような翁は、黙ってその崖を見ていた。
「小覇王が、その額から血を噴き出した。それとともに、赤くなった、だと」
「面白いことを。元々、赤かったではないか程昱」
程昱。
曹操に仕え、主に諜報活動を引き受けている男である。
「うむ……面白いな、水鏡」
水鏡――司馬徽。
ゆっくりと、司馬徽が身体を動かす。
程昱と向き合った。
こぽ、っと、薬湯が音を立てた。
「あの戦、お前が仕組んだな」
「なんのことじゃ?」
「隠さんでいい」
「……そうじゃ」
いたずらっ子が悪戯でも見つかったような、そんな顔をしていた。
「そうか……不思議な縁だな」
「うむ。そうとしか言いようがないの」
「一体いつだったか、廬植、儂、お主。三人、兄弟の契りを結びこの世の中を変えようと誓い合ったのは」
「いつだったかな……あの崖で、誓いあった。今でも、目に浮かぶ」
今は、赤壁と呼ばれている。
その場所を、二人は見つめた。
「廬植が、あんなに早く死ぬとはな……末っ子であったのに」
「心労が、重なったのであろう。元々、身体が丈夫ではなかった。黄巾討伐のとき、無理をし過ぎた」
司馬徽が言った。
自分を省みるかのように。
「もし、もう少し長く生きてくれていたらな……」
「どうであったか。あやつは、清廉過ぎたからな」
「わしとおぬしがいれば、どうとでもなったろう」
「それも、そうだな……」
「劉備か。廬植が、面白いと度々手紙に書いていたが」
程昱が、話を変えた。
うんと、司馬徽が頷く。
「たまたま、我が一門の者が劉備の許にいての」
「陳到か」
「知っていたのか?」
「身のこなしが、若いときのおぬしに似ていた。もう、あの動きはおぬしには出来まいな」
「失礼な。わしは今でもあのぐらい動ける!」
「嘘を言うな」
しんみりとした口調。
薬湯を見る。
痛み止め。
そう、程昱は判別した。
「どれぐらい?」
「……長くは、ない」
「そうか……もう、会えぬな」
「すぐに、立つのか?」
「孫家の動きを見極めねばならん。今日は、そのついでだ」
曹操は、袁紹とぶつかる準備を始めていた。
今の孫家には、それほど関心を払っていないはず……
そこで、思考を止めた。
友の好意。それで、良かった。
「天下は、どこに転がっていくのかな?」
「さあ、もはや、分からぬ」
「……さらばだ、日を掲げるもの」
「水面に映す、曇り無き鏡。さらば」
程昱が、水鏡の前から姿を消した。
水鏡一門特有の技。
味な真似を。
そう、呟いた。
こほんと、咳をした。
そのまま、司馬徽は動かなくなった。
~長江、燃える(終)~
切り立った崖。
大河を挟んで、その小屋からはよく見えた。
邪魔する物は、なにもなかった。
煙が、立ち上っている。
まだ、新しい。
客が、訪れた。
翁。
大きな躯をしていた。気を、漲らせている。
供が二人。両者とも、隙がない。
鋭利な刃物のようであった。
「おい」
返事はなかった。
もう一度、おいと言った。
入れ。
そう、声が帰ってきた。
音を立てずに入ると、囲炉裏の前に座る。
枯れ木のような翁がいた。切り立った崖を、その翁は見ていた。
薬湯を、煮詰めていたようだ。
緑色の液体が、渦を巻いている。
ぱちぱちと、墨が音を立てた。
「赤壁、そう、呼ばれるようになったらしい」
枯れ木のような翁は、黙ってその崖を見ていた。
「小覇王が、その額から血を噴き出した。それとともに、赤くなった、だと」
「面白いことを。元々、赤かったではないか程昱」
程昱。
曹操に仕え、主に諜報活動を引き受けている男である。
「うむ……面白いな、水鏡」
水鏡――司馬徽。
ゆっくりと、司馬徽が身体を動かす。
程昱と向き合った。
こぽ、っと、薬湯が音を立てた。
「あの戦、お前が仕組んだな」
「なんのことじゃ?」
「隠さんでいい」
「……そうじゃ」
いたずらっ子が悪戯でも見つかったような、そんな顔をしていた。
「そうか……不思議な縁だな」
「うむ。そうとしか言いようがないの」
「一体いつだったか、廬植、儂、お主。三人、兄弟の契りを結びこの世の中を変えようと誓い合ったのは」
「いつだったかな……あの崖で、誓いあった。今でも、目に浮かぶ」
今は、赤壁と呼ばれている。
その場所を、二人は見つめた。
「廬植が、あんなに早く死ぬとはな……末っ子であったのに」
「心労が、重なったのであろう。元々、身体が丈夫ではなかった。黄巾討伐のとき、無理をし過ぎた」
司馬徽が言った。
自分を省みるかのように。
「もし、もう少し長く生きてくれていたらな……」
「どうであったか。あやつは、清廉過ぎたからな」
「わしとおぬしがいれば、どうとでもなったろう」
「それも、そうだな……」
「劉備か。廬植が、面白いと度々手紙に書いていたが」
程昱が、話を変えた。
うんと、司馬徽が頷く。
「たまたま、我が一門の者が劉備の許にいての」
「陳到か」
「知っていたのか?」
「身のこなしが、若いときのおぬしに似ていた。もう、あの動きはおぬしには出来まいな」
「失礼な。わしは今でもあのぐらい動ける!」
「嘘を言うな」
しんみりとした口調。
薬湯を見る。
痛み止め。
そう、程昱は判別した。
「どれぐらい?」
「……長くは、ない」
「そうか……もう、会えぬな」
「すぐに、立つのか?」
「孫家の動きを見極めねばならん。今日は、そのついでだ」
曹操は、袁紹とぶつかる準備を始めていた。
今の孫家には、それほど関心を払っていないはず……
そこで、思考を止めた。
友の好意。それで、良かった。
「天下は、どこに転がっていくのかな?」
「さあ、もはや、分からぬ」
「……さらばだ、日を掲げるもの」
「水面に映す、曇り無き鏡。さらば」
程昱が、水鏡の前から姿を消した。
水鏡一門特有の技。
味な真似を。
そう、呟いた。
こほんと、咳をした。
そのまま、司馬徽は動かなくなった。
~長江、燃える(終)~