あやかし姫~百華燎乱(1)~
「北ですか?」
「ちと、呼ばれての。二・三日留守にする。その間、よろしくな」
小高い山の古寺の門。
姫様達が集まっていた。
頭領が鬼馬に乗っている。
北へ出かけるという頭領を、見送るためだった。
薄暗ーい、曇り空。お日様はなかなか姿を見せなくて。
「……心配じゃなぁ……」
「はいはい。葉子さんも太郎さんもクロさんもいるから大丈夫! 明日には、朱桜ちゃんも酒呑童子様もいらっしゃいますし」
「……そうなの?」
葉子が、姫様にいった。
人の姿。尾を一本だけ生やしている。
「あれ、私いってなかったっけ?」
太郎さんは?
「……俺も、聞いてない」
妖狼が首を振った。
「あれ? もしかしてクロさんも?」
「朱桜殿が来るとは聞いておりましたが……酒呑童子様も『きちんとした』客人として?」
「うん。外、寒いしね」
そう、いった。
葉子と太郎が、少し顔をしかめる。あの人、寒さ関係ないし。
鬼の王様、相手をするのはちょっと疲れるし。
古寺の掃除、きちんとしないといけないし。
ちょっとでも埃があると、最近目くじら立てて怒るのだ。
鬼ヶ城も、大変なのだという。朱桜が、そう口を尖らせていた。
「……わしがおらぬのに、よいのかの……くれぐれも、怒らせないようにな」
「そだね。あんた達、朱桜ちゃんにちょっかいかけちゃ駄目だよ」
小妖達に銀狐がいった。
すぐに返事。
姫様がじとーっと睨んでいたのだ。
「……葉子、渡しておきたいものがある」
「へ?」
あたい?
自分を指差す。
姫様じゃないのと。
太郎が、その白い耳をぴくりと動かした。
頭領が袖口から小さな折り鶴を出す。
それを、葉子が受け取る。
銀の尾が、揺れた。
冷たい風に飛ばされそうになる折り鶴を、そっと押さえた。
「おぬしに何かあったら、これが知らせる」
「え、ええ……でも、なんであたい?」
「……いくぞ」
頭領は答えなかった。手綱を引き絞る。
鬼馬が、跳んだ。
角生え、炎吐く、異形の馬。
姫様が、早く帰ってきてねーと手を振った。
皆も、頭領に手を振った。
「なんで、あたい?」
頭領の姿が見えなくなってから、もう一度葉子はいった。
「さあ……」
葉子が受け取った鶴を、姫様がしげしげと眺めた。
黄色の折り鶴であった。所々ずれているのは、頭領の手作りだからであろう。
きちんと折るのが、苦手なのだ。
「中に、入りましょうか。寒いですし」
「そだね。中で温かいお汁粉飲もう♪」
朝から、作っておいたのだ。
冷える日には、これがいいよねと。
ぐつぐつと小豆を煮立て、白玉を放り込んで。
「……うん」
葉子と手をつないで、古寺に戻ろうとした。妖狼が、寄り添う。
その時、だった。
「糸……」
姫様がほっと声を出し、目をごしごしと擦った。
太郎が、何事かと立ち止まる。
葉子も、立ち止まった。
「なんだろ……」
姫様、ごしごしと目を擦る。
何度か目を瞬かせると、首を傾げた。
「ごみ入った? 大丈夫? 洗ってくる?」
葉子が、心配そうに。
「うん……ちょっと、糸が視界に入って……ごみが入ったんじゃなくて……うん……」
透明で、細くて、風に揺れて……
なんだろう……
「蜘蛛の糸か? この冬に珍しいな」
「そうそう、蜘蛛の糸だ! うん、珍しいね」
そういうと、また歩き出した。
黒之助が、少し考える仕草をした。
蜘蛛……そう、呟いた。
まさかな……と。
『迎えに、来たよ』
耳元で声がした。
目を大きく見開かせると、黒之助が変化を解いた。
姫様達が、唖然として砂埃巻き上げる黒之助を見る。
身構えていた。殺気が、妖気が、漏れ出でる。
辺りを伺う。
風が、身を切るように渦巻いた。
葉子が、姫様をさっきより増えた自分の尾で隠すと、
「ちょっとクロちゃん、どしたの!」
そう、声を荒げた。
小妖達の何匹かが、風に呑まれて宙を舞っている。
太郎が、唸った。姫様が九尾の隙間から顔を出すと、め! といった。
それでも、妖狼はやめなかった。
風は、収まらなかった。
羽毛を逆立てている。黒い羽を、大きく広げている。
脇に抱えた錫杖。
先端につけられた金の輪が、雷光を帯びていた。
「クロさん……」
姫様が、か細い声を出した。
烏天狗が、はっとした。
風が、やむ。
また人の姿に戻った。
黒い羽が、幾つも幾つも落ちてくる。
幾つも、幾つも、舞い、落ちる。
姫様がもう一度、クロさんといった。
黒之助は何も言わず、俯いたまま、古寺の中にゆっくりと歩いていく。
姫様の横を通るときも、何も言わなかった。
葉子と太郎の堪忍袋がぷちっと音を立てた。
その背に飛び掛かろうとした。葉子は、半分妖の姿を顕していた。
姫様が二人の尻尾をぐっと掴み、それを引き止めた。
振り返る。
自分達の尾を強く握る少女を見た。
「姫様!」
二人が、いった。
「駄目……」
「駄目って……」
「……駄目……」
姫様の瞳が潤んでいた。ふるふると、首を振る。
妖二人。
怒りを一旦収める。
黒之助の姿は、消えていた。
「なんだってのよ、いきなり!」
ぷんすかぷんすか葉子が怒る。
また、お椀にお汁粉を注ぐ。
妖達も、ぷんすかぷんすか。
「熱い! ……これも全部、クロちゃんのせいだ!」
何杯目だよとふーふー冷ましながら太郎は思った。
妖狼は、猫舌なのだ。
大きな狼がふーふーと小さな器に息を吹きかける様は、滑稽であった。
「クロのやつ、どうしたんだ?」
「知らないよ! 姫様に謝らないなんて何考えてんだか!」
ぐいっと、飲み干した。
また、お椀に注ぐ。けふっ、と、息を漏らした。
「頭領、呼ぶか?」
「それは……姫様が、いいって」
頭領の怒る姿が、目に浮かんだ。出かけたばかり。絶対に怒る。
そうなった頭領は、姫様でも止められないかも。
そう思うと、少し寒気がした。
「優しいな、姫様」
ぺろっと舌を出し、「あつい」とすぐに引っ込めた。
「うん……本当に、どうしたんだろ。クロちゃん、ちょっと怖かったんだけど」
太郎は、それには同意しなかった。
「姫様は?」
「クロちゃんの部屋」
「ふうん……」
また舌をつけて、「あつい」といった。
とんとんと、木戸を叩く。
もう一度、とんとんと。
もう一度、もう一度。
そっと、開けてみる。
暗い。
黒之助が壁にもたれているのが、ぼんやりとみえた。
「クロさん」
声を、かけた。
「……」
黒之助が、姫様を見た。
「あの、お汁粉温め直したんです。一緒に食べませんか? 居間で、葉子さんや太郎さんやみんなと一緒に」
「いや、いいです」
「その……」
姫様、何も言い出せなくなった。
顔を下にし、ぎゅっと、拳を握る。
顔を上げると、黒之助の顔が。
戸の隙間から覗いていた。
目つきが暗い。部屋の暗さだけではなかった。
「クロさん」
「今晩、拙者も出かけます」
「はい?」
「明日の朝には、戻れるかと。葉子殿と太郎殿には、内密に」
それだけ言うと、元居た場所に戻り、座り直す。
錫杖を抱えていた。
かたかたと、金具が音を立てる。
身体が、震えているのだ。
部屋に入ろうと姫様は思った。
黒之助が、それに気がついた。
右の手の平を、横に振った。
戸が、独りでにぴしゃりと閉じられた。
姫様、肩を落とす。もう、戸は、開かなかった。
「……ここに、置いておきますね」
そう言うと、姫様は立ち去った。
「うん……」
戸を、開けた。
夜。もう、寝静まっているだろう。
自分の部屋を出る。足下に、目をやった。
お盆が置いてある。湯気が出ていた。
お汁粉。
色とりどりの金平糖。
目を、束の間細めた。
廊下に、姫様がいた。
目を、合わせる。
また、足下に目を落とす。お盆に手を伸ばした。
金平糖を鷲掴みにして口に放り込み、ぼりぼりと噛み砕く。
湯気立つお汁粉に、少し口をつけた。
かちゃんと、木の器が音を立てる。
姫様は、口を真一文字に結んでいた。
「心配、ないです」
声に、暖かみがあった。姫様がほっとする。顔を、ほころばせた。
黒之助がとん、と、姫様の頭の上にその手を乗せた。
「古い知り合いに、会ってきます」
そう言うと、手を離す。
姫様の横を通り過ぎた。
姫様が、お盆を片付けようと腰を屈めた。
「どこへ、いく?」
「……」
「答えろよ」
妖狼。屋根の上から、黒之助を見下ろしていた。
「すまない」
太郎がそっぽを向いた。
「ちっ……謝るな。気味が悪い」
「昼間は曇っていたのに、月が出ているな」
明日は、晴れるか。
夜空を見上げ、白い息を吐きながら、そう、いった。
「ああ……クロ、一体なにが」
「すまない」
「答えない、か……」
「すまない」
「姫様を悲しませなければ、俺はそれでいい」
「……」
返事はなかった。
太郎は、月を見た。
一陣の風が起こる。
鋭い、風。
黒之助の姿が、古寺から、消えた。
「あの、馬鹿」
台所。明かりが点いた。それを見ながら、そう、いった。
ふと、妖狼が鼻を動かした。懐かしい匂い。
同族。
金銀妖瞳の妖狼が、屋根から降り立つ。
くんくんと、鼻を動かす。
一吠え、した。
山々の山彦が太郎に応える。
耳を澄ます。
自分の声。
それに、違う吠え声が混じった。近い。
妖狼の顔が、和らいだ。
黒之助の事が気に掛かるが、嬉しいものは嬉しいのだ。
妖の気配が近づいてくる。
門の前。そこで、立ち止まった。
太郎が、のっそり歩いていく。
白い尾をひょこひょこ振ると、
「入っていいぞ」
そう、優しく声をかけた。
「夜遅くに、失礼します」
そう声がして、小さな狼が姿を見せた。
「ちと、呼ばれての。二・三日留守にする。その間、よろしくな」
小高い山の古寺の門。
姫様達が集まっていた。
頭領が鬼馬に乗っている。
北へ出かけるという頭領を、見送るためだった。
薄暗ーい、曇り空。お日様はなかなか姿を見せなくて。
「……心配じゃなぁ……」
「はいはい。葉子さんも太郎さんもクロさんもいるから大丈夫! 明日には、朱桜ちゃんも酒呑童子様もいらっしゃいますし」
「……そうなの?」
葉子が、姫様にいった。
人の姿。尾を一本だけ生やしている。
「あれ、私いってなかったっけ?」
太郎さんは?
「……俺も、聞いてない」
妖狼が首を振った。
「あれ? もしかしてクロさんも?」
「朱桜殿が来るとは聞いておりましたが……酒呑童子様も『きちんとした』客人として?」
「うん。外、寒いしね」
そう、いった。
葉子と太郎が、少し顔をしかめる。あの人、寒さ関係ないし。
鬼の王様、相手をするのはちょっと疲れるし。
古寺の掃除、きちんとしないといけないし。
ちょっとでも埃があると、最近目くじら立てて怒るのだ。
鬼ヶ城も、大変なのだという。朱桜が、そう口を尖らせていた。
「……わしがおらぬのに、よいのかの……くれぐれも、怒らせないようにな」
「そだね。あんた達、朱桜ちゃんにちょっかいかけちゃ駄目だよ」
小妖達に銀狐がいった。
すぐに返事。
姫様がじとーっと睨んでいたのだ。
「……葉子、渡しておきたいものがある」
「へ?」
あたい?
自分を指差す。
姫様じゃないのと。
太郎が、その白い耳をぴくりと動かした。
頭領が袖口から小さな折り鶴を出す。
それを、葉子が受け取る。
銀の尾が、揺れた。
冷たい風に飛ばされそうになる折り鶴を、そっと押さえた。
「おぬしに何かあったら、これが知らせる」
「え、ええ……でも、なんであたい?」
「……いくぞ」
頭領は答えなかった。手綱を引き絞る。
鬼馬が、跳んだ。
角生え、炎吐く、異形の馬。
姫様が、早く帰ってきてねーと手を振った。
皆も、頭領に手を振った。
「なんで、あたい?」
頭領の姿が見えなくなってから、もう一度葉子はいった。
「さあ……」
葉子が受け取った鶴を、姫様がしげしげと眺めた。
黄色の折り鶴であった。所々ずれているのは、頭領の手作りだからであろう。
きちんと折るのが、苦手なのだ。
「中に、入りましょうか。寒いですし」
「そだね。中で温かいお汁粉飲もう♪」
朝から、作っておいたのだ。
冷える日には、これがいいよねと。
ぐつぐつと小豆を煮立て、白玉を放り込んで。
「……うん」
葉子と手をつないで、古寺に戻ろうとした。妖狼が、寄り添う。
その時、だった。
「糸……」
姫様がほっと声を出し、目をごしごしと擦った。
太郎が、何事かと立ち止まる。
葉子も、立ち止まった。
「なんだろ……」
姫様、ごしごしと目を擦る。
何度か目を瞬かせると、首を傾げた。
「ごみ入った? 大丈夫? 洗ってくる?」
葉子が、心配そうに。
「うん……ちょっと、糸が視界に入って……ごみが入ったんじゃなくて……うん……」
透明で、細くて、風に揺れて……
なんだろう……
「蜘蛛の糸か? この冬に珍しいな」
「そうそう、蜘蛛の糸だ! うん、珍しいね」
そういうと、また歩き出した。
黒之助が、少し考える仕草をした。
蜘蛛……そう、呟いた。
まさかな……と。
『迎えに、来たよ』
耳元で声がした。
目を大きく見開かせると、黒之助が変化を解いた。
姫様達が、唖然として砂埃巻き上げる黒之助を見る。
身構えていた。殺気が、妖気が、漏れ出でる。
辺りを伺う。
風が、身を切るように渦巻いた。
葉子が、姫様をさっきより増えた自分の尾で隠すと、
「ちょっとクロちゃん、どしたの!」
そう、声を荒げた。
小妖達の何匹かが、風に呑まれて宙を舞っている。
太郎が、唸った。姫様が九尾の隙間から顔を出すと、め! といった。
それでも、妖狼はやめなかった。
風は、収まらなかった。
羽毛を逆立てている。黒い羽を、大きく広げている。
脇に抱えた錫杖。
先端につけられた金の輪が、雷光を帯びていた。
「クロさん……」
姫様が、か細い声を出した。
烏天狗が、はっとした。
風が、やむ。
また人の姿に戻った。
黒い羽が、幾つも幾つも落ちてくる。
幾つも、幾つも、舞い、落ちる。
姫様がもう一度、クロさんといった。
黒之助は何も言わず、俯いたまま、古寺の中にゆっくりと歩いていく。
姫様の横を通るときも、何も言わなかった。
葉子と太郎の堪忍袋がぷちっと音を立てた。
その背に飛び掛かろうとした。葉子は、半分妖の姿を顕していた。
姫様が二人の尻尾をぐっと掴み、それを引き止めた。
振り返る。
自分達の尾を強く握る少女を見た。
「姫様!」
二人が、いった。
「駄目……」
「駄目って……」
「……駄目……」
姫様の瞳が潤んでいた。ふるふると、首を振る。
妖二人。
怒りを一旦収める。
黒之助の姿は、消えていた。
「なんだってのよ、いきなり!」
ぷんすかぷんすか葉子が怒る。
また、お椀にお汁粉を注ぐ。
妖達も、ぷんすかぷんすか。
「熱い! ……これも全部、クロちゃんのせいだ!」
何杯目だよとふーふー冷ましながら太郎は思った。
妖狼は、猫舌なのだ。
大きな狼がふーふーと小さな器に息を吹きかける様は、滑稽であった。
「クロのやつ、どうしたんだ?」
「知らないよ! 姫様に謝らないなんて何考えてんだか!」
ぐいっと、飲み干した。
また、お椀に注ぐ。けふっ、と、息を漏らした。
「頭領、呼ぶか?」
「それは……姫様が、いいって」
頭領の怒る姿が、目に浮かんだ。出かけたばかり。絶対に怒る。
そうなった頭領は、姫様でも止められないかも。
そう思うと、少し寒気がした。
「優しいな、姫様」
ぺろっと舌を出し、「あつい」とすぐに引っ込めた。
「うん……本当に、どうしたんだろ。クロちゃん、ちょっと怖かったんだけど」
太郎は、それには同意しなかった。
「姫様は?」
「クロちゃんの部屋」
「ふうん……」
また舌をつけて、「あつい」といった。
とんとんと、木戸を叩く。
もう一度、とんとんと。
もう一度、もう一度。
そっと、開けてみる。
暗い。
黒之助が壁にもたれているのが、ぼんやりとみえた。
「クロさん」
声を、かけた。
「……」
黒之助が、姫様を見た。
「あの、お汁粉温め直したんです。一緒に食べませんか? 居間で、葉子さんや太郎さんやみんなと一緒に」
「いや、いいです」
「その……」
姫様、何も言い出せなくなった。
顔を下にし、ぎゅっと、拳を握る。
顔を上げると、黒之助の顔が。
戸の隙間から覗いていた。
目つきが暗い。部屋の暗さだけではなかった。
「クロさん」
「今晩、拙者も出かけます」
「はい?」
「明日の朝には、戻れるかと。葉子殿と太郎殿には、内密に」
それだけ言うと、元居た場所に戻り、座り直す。
錫杖を抱えていた。
かたかたと、金具が音を立てる。
身体が、震えているのだ。
部屋に入ろうと姫様は思った。
黒之助が、それに気がついた。
右の手の平を、横に振った。
戸が、独りでにぴしゃりと閉じられた。
姫様、肩を落とす。もう、戸は、開かなかった。
「……ここに、置いておきますね」
そう言うと、姫様は立ち去った。
「うん……」
戸を、開けた。
夜。もう、寝静まっているだろう。
自分の部屋を出る。足下に、目をやった。
お盆が置いてある。湯気が出ていた。
お汁粉。
色とりどりの金平糖。
目を、束の間細めた。
廊下に、姫様がいた。
目を、合わせる。
また、足下に目を落とす。お盆に手を伸ばした。
金平糖を鷲掴みにして口に放り込み、ぼりぼりと噛み砕く。
湯気立つお汁粉に、少し口をつけた。
かちゃんと、木の器が音を立てる。
姫様は、口を真一文字に結んでいた。
「心配、ないです」
声に、暖かみがあった。姫様がほっとする。顔を、ほころばせた。
黒之助がとん、と、姫様の頭の上にその手を乗せた。
「古い知り合いに、会ってきます」
そう言うと、手を離す。
姫様の横を通り過ぎた。
姫様が、お盆を片付けようと腰を屈めた。
「どこへ、いく?」
「……」
「答えろよ」
妖狼。屋根の上から、黒之助を見下ろしていた。
「すまない」
太郎がそっぽを向いた。
「ちっ……謝るな。気味が悪い」
「昼間は曇っていたのに、月が出ているな」
明日は、晴れるか。
夜空を見上げ、白い息を吐きながら、そう、いった。
「ああ……クロ、一体なにが」
「すまない」
「答えない、か……」
「すまない」
「姫様を悲しませなければ、俺はそれでいい」
「……」
返事はなかった。
太郎は、月を見た。
一陣の風が起こる。
鋭い、風。
黒之助の姿が、古寺から、消えた。
「あの、馬鹿」
台所。明かりが点いた。それを見ながら、そう、いった。
ふと、妖狼が鼻を動かした。懐かしい匂い。
同族。
金銀妖瞳の妖狼が、屋根から降り立つ。
くんくんと、鼻を動かす。
一吠え、した。
山々の山彦が太郎に応える。
耳を澄ます。
自分の声。
それに、違う吠え声が混じった。近い。
妖狼の顔が、和らいだ。
黒之助の事が気に掛かるが、嬉しいものは嬉しいのだ。
妖の気配が近づいてくる。
門の前。そこで、立ち止まった。
太郎が、のっそり歩いていく。
白い尾をひょこひょこ振ると、
「入っていいぞ」
そう、優しく声をかけた。
「夜遅くに、失礼します」
そう声がして、小さな狼が姿を見せた。