あやかし姫~百華燎乱(3)~
「いいな、良い湯だ」
そう、男が一人ごちた。湯気がもくもくと辺りを覆っている。
また、良い湯だといった。
顔を、一洗いする。
鼻の下まで浸かると、ぶくぶくと水面に泡を立てた。
森の中。
星が、瞬いていた。
柔らかい足音。近づいてくる。
「薬酒でございます」
女の声がした。
かしずいているのが、湯気にうっすらと映る影で分かった。
徳利一つとお猪口一つを乗せたお盆が、すっと男の前に現れた。
泡を立てるのを止め、盆を捕まえる。
お猪口に酒を注ぐと、くいっと飲み干した。
「苦い……」
そう、いった。
傷が、さらに熱を持った気がした。
それから、女に話しかけた。
「ここはいい。静かだ」
「ええ。人も妖も、この辺りにはおりませんので」
湯気の後ろで、女の影が離れる仕草を。
男が、それを引き留めるように話を続けた。
「知り人に教えて貰ったのだが。来て良かった」
「知り人とは……鈴鹿さまでございますか?」
「ああ……よく分かったな」
「ここには、鈴鹿さまぐらいしかお越しになりませんから」
「それは……」
そうだろうなと、思った。
女が、露天風呂の石にちょこんと男に背を向けて座り直した。
「よっぽどの物好きでないと、山越え谷越えわざわざ好き好んでここには。それに、私が……そうそう、先日、鈴鹿さまの兄上さまがお越しになられました」
「ほお、大獄丸か」
「お一人で来られて、その後、鈴鹿さまとその旦那さまも。なにやら揉めておりましたが、帰りは仲良くでありましたよ」
「ふーん、兄妹仲良くねぇ……はぁ……」
男が、溜息をついた。
「どうか、なさいましたか?」
「……聞きたいか?」
「無理にとは申しません」
「……聞けよ」
男の口調は、有無を言わせぬというものだった。
「はあ」
「本当は、俺の兄とその娘、つまり姪っ子だな。俺も含めてその三人で来ようと思ったのだ」
「……へえ」
しかし、ここに今日泊まっているのは一人だけだ。
「姪は、既に約束をしていてな。姉代わりのような人のところに遊びに行くと。どうしようかと、迷っていたが。先に約束していたのは、その娘とだったのでな」
「そうですか……残念ですね」
「俺も兄上も忙しいからな。今宵ぐらいしか時がなかったのだが……ぐずん」
鼻を、すすった。
酒を飲むと、苦い。
そう、いった。
「良薬、口に苦しか」
「湯治、ですか?」
「ああ……少し、冷えてきたな」
「はい」
風が、強くなってきていた。
「ん? 雪か。山の天気は変わりやすいからな」
雪が、降ってきた。
ひらひらと、ほとほとと。
「……いえ、しかしこれは……」
女が、口を濁した。
ぴきぴきと、音が鳴った。
湯気が四散した。
晴れていく。
ひっ――そう、呼気が漏れた。
露天風呂が、凍った。
「なんだ、お前ら?」
湯に浸かってるのは美しい男であった。しかし、どこか暗さを感じさせる顔立ちであった。
内面の色、というものなのだろうか。
首から下が、動かせなくなっている。
湯が、凍っているのだ。
男の額には二本の角があった。
一人、二人、もっと、もっと。
取り囲んでいた。
取り囲まれていた。
若い女の喉元に、刃が突きつけられている。
男と話していた女だ。
白髪。
顔立ちは、二十、四・五といったところか。
男の目の前にも、刃が突き立てられた。
氷の破片が、男の頬に当たった。
「物騒だな」
「鬼、だな」
「見てわからんのか。土地神ども」
男が、吐き捨てるようにいった。
土地神――土地々々に宿る神々で。
獣の形をしている者、武人の姿をしている者。
姿も大きさも様々であった。
どよめきが起こる。
男が、刃に唾を吐いたのだ。唾は、刃を伝い氷湯につくと、その一部となった。
土地神達が殺気を帯び始める。
それをなだめるように、ひらりと凍気が起こった。
男の目の前に、女が降り立つ。
雪と一緒に。
氷に、素足をつける。
男の目の前の刃と同じくら、鋭い眼差しであった。
純白、である。
髪も、肌も、着ている物も。
目が、蒼い。唇は、紫色であった。
「鬼よ。抵抗など、無駄なことだ。大人しく我らに従ってもらおう」
「ふむ、雪女か。わざわざご苦労なことだな」
男が笑った。
土地神達がそれを見てまたざわめく。土地神達を、雪女はその手一つで静かにさせた。
男は、随分と高位な雪女だなと思った。
どこぞの山の、主なのであろう。
「一体、何用だ? こんなことをしてよいと思っているのか?」
それに答えず、女は、男の顔に自分の顔を近づけると、ふっと息を吹きかけた。
白い息が男の角に当たり、めきめきとそれを凍らせた。
「その美しい顔を、氷漬けにされたくはなかろう?」
脅しではないと、男は思った。
「……それは困る。やまめ、抵抗はするな」
男に言われ、喉元に刃を突きつけられていた女がその手を止める。
やまめの手には、いつの間にか鈍い光を帯びる巨大な包丁が握られていた。
土地神達が慌てて女を押さえつける。
痛い!
そう、やまめがいった。
「手荒な真似はよせ。さてと、では、大人しくしようか」
「それでいい。そこの山姥は捨て置け。この鬼を連れて戻るぞ」
その言葉を合図に、土地神達が次々と姿を消す。
雪女も、鬼も。
やまめ一人が取り残された。
「一体、今のは……どうして、土地神達が」
そう、声を絞り出した。
ちゃぷんと、湯が音を立てた。湯は溶けている。
雪は、もう、降り止んでいた。
夢かと思った。
だが、確かに男はここにいて、そしてどこかへ連れ去られたのだ。
「それは?」
妖狼が、廊下で向こうから歩いてきた姫様にいった。
「咲夜さんの着替えです」
「ああ、なるほど」
小さく頷く。
古寺は静かであった。
静かだが、何かが蠢いていた。
静かな建物に、小さく鼻歌が響いていた。
「全く、咲夜も悪いときに来ちまったな」
「……うーん……」
姫様は、曖昧な笑みを浮かべた。
「ねえ、太郎さん。さっきの稲妻」
「クロだな。間違いないだろ」
「……そうですか」
「妖達が少しざわつき始めてる」
「はい。葉子さんも……葉子さん、寝たふりしてたけど……」
自分の部屋でがさごそと着物を探していたとき、葉子はずっと姫様に背を向けて横になっていた。
寝息はなかった。
手伝ってくれてもいいのに。
姫様がそう言うと、グゥという声がした。
「そうか。葉子、本気で怒ってたもんな」
「……クロさん、心配です」
「……心配、か」
妖狼が、姫様を見つめた。
「はい」
はっきりと、姫様が口にした。
ふっと、太郎が笑った。
「駄目だな、クロ。姫様を悲しませて。俺もちょっと出かけてくる」
「太郎さん」
「ちょっとあの馬鹿をどついてくるだけだ。心配するな。すぐ、戻る」
「うん……」
姫様が、にっこりと笑った。
「姫様、葉子と一緒にな。咲夜のこと、よろしくな。あいつ、そんなに強くないから」
「……うん、わかった」
太郎が、そっと姫様の横を歩いていく。
思い出したように振り向くと、
「そうだな、お汁粉の余りを温め直してくれると嬉しいな」
そう、いった。
「……一つ、お椀に入れて温めておきますね。もう一つ、冷えたままで用意しておきます」
姫様が、そう、いった。
尾を一振りすると、妖狼は力強く駆け始めた。
「着替え、ここに置いておきますね」
「あ、はい? 私、変化できますよ」
お風呂場から咲夜の声が。
鼻歌が、やんだ。
「あ……忘れてた」
そういえば、そうだ。
「……でも、嬉しいです。わざわざ、着替え用意してもらえるなんて。その……お邪魔だったみたいだから……」
少しずつ、咲夜の声が小さくなった。
最後の方は、ほとんど聞き取れないほどに。
「邪魔だなんて、そんなことないよ! 咲夜ちゃんがうちに来るの初めてだし! ちょっとね、今、大切な人が、ちょっとね……」
姫様の声も、少しずつ小さくなっていった。
「あに様がさっき出かけたのはそのためですか?」
「……気付いてたんだ」
「はい」
「すぐに、戻ってくるよ……ね」
「あに様ですから、すぐに」
咲夜の声は、力強かった。
「うん」
また、鼻歌が流れ出した。
なんの歌だろうと、思った。
耳を澄ましてみる。
千十一、千十二、千十三……
拍子をつけて、数を数えているだけだった。
そう、男が一人ごちた。湯気がもくもくと辺りを覆っている。
また、良い湯だといった。
顔を、一洗いする。
鼻の下まで浸かると、ぶくぶくと水面に泡を立てた。
森の中。
星が、瞬いていた。
柔らかい足音。近づいてくる。
「薬酒でございます」
女の声がした。
かしずいているのが、湯気にうっすらと映る影で分かった。
徳利一つとお猪口一つを乗せたお盆が、すっと男の前に現れた。
泡を立てるのを止め、盆を捕まえる。
お猪口に酒を注ぐと、くいっと飲み干した。
「苦い……」
そう、いった。
傷が、さらに熱を持った気がした。
それから、女に話しかけた。
「ここはいい。静かだ」
「ええ。人も妖も、この辺りにはおりませんので」
湯気の後ろで、女の影が離れる仕草を。
男が、それを引き留めるように話を続けた。
「知り人に教えて貰ったのだが。来て良かった」
「知り人とは……鈴鹿さまでございますか?」
「ああ……よく分かったな」
「ここには、鈴鹿さまぐらいしかお越しになりませんから」
「それは……」
そうだろうなと、思った。
女が、露天風呂の石にちょこんと男に背を向けて座り直した。
「よっぽどの物好きでないと、山越え谷越えわざわざ好き好んでここには。それに、私が……そうそう、先日、鈴鹿さまの兄上さまがお越しになられました」
「ほお、大獄丸か」
「お一人で来られて、その後、鈴鹿さまとその旦那さまも。なにやら揉めておりましたが、帰りは仲良くでありましたよ」
「ふーん、兄妹仲良くねぇ……はぁ……」
男が、溜息をついた。
「どうか、なさいましたか?」
「……聞きたいか?」
「無理にとは申しません」
「……聞けよ」
男の口調は、有無を言わせぬというものだった。
「はあ」
「本当は、俺の兄とその娘、つまり姪っ子だな。俺も含めてその三人で来ようと思ったのだ」
「……へえ」
しかし、ここに今日泊まっているのは一人だけだ。
「姪は、既に約束をしていてな。姉代わりのような人のところに遊びに行くと。どうしようかと、迷っていたが。先に約束していたのは、その娘とだったのでな」
「そうですか……残念ですね」
「俺も兄上も忙しいからな。今宵ぐらいしか時がなかったのだが……ぐずん」
鼻を、すすった。
酒を飲むと、苦い。
そう、いった。
「良薬、口に苦しか」
「湯治、ですか?」
「ああ……少し、冷えてきたな」
「はい」
風が、強くなってきていた。
「ん? 雪か。山の天気は変わりやすいからな」
雪が、降ってきた。
ひらひらと、ほとほとと。
「……いえ、しかしこれは……」
女が、口を濁した。
ぴきぴきと、音が鳴った。
湯気が四散した。
晴れていく。
ひっ――そう、呼気が漏れた。
露天風呂が、凍った。
「なんだ、お前ら?」
湯に浸かってるのは美しい男であった。しかし、どこか暗さを感じさせる顔立ちであった。
内面の色、というものなのだろうか。
首から下が、動かせなくなっている。
湯が、凍っているのだ。
男の額には二本の角があった。
一人、二人、もっと、もっと。
取り囲んでいた。
取り囲まれていた。
若い女の喉元に、刃が突きつけられている。
男と話していた女だ。
白髪。
顔立ちは、二十、四・五といったところか。
男の目の前にも、刃が突き立てられた。
氷の破片が、男の頬に当たった。
「物騒だな」
「鬼、だな」
「見てわからんのか。土地神ども」
男が、吐き捨てるようにいった。
土地神――土地々々に宿る神々で。
獣の形をしている者、武人の姿をしている者。
姿も大きさも様々であった。
どよめきが起こる。
男が、刃に唾を吐いたのだ。唾は、刃を伝い氷湯につくと、その一部となった。
土地神達が殺気を帯び始める。
それをなだめるように、ひらりと凍気が起こった。
男の目の前に、女が降り立つ。
雪と一緒に。
氷に、素足をつける。
男の目の前の刃と同じくら、鋭い眼差しであった。
純白、である。
髪も、肌も、着ている物も。
目が、蒼い。唇は、紫色であった。
「鬼よ。抵抗など、無駄なことだ。大人しく我らに従ってもらおう」
「ふむ、雪女か。わざわざご苦労なことだな」
男が笑った。
土地神達がそれを見てまたざわめく。土地神達を、雪女はその手一つで静かにさせた。
男は、随分と高位な雪女だなと思った。
どこぞの山の、主なのであろう。
「一体、何用だ? こんなことをしてよいと思っているのか?」
それに答えず、女は、男の顔に自分の顔を近づけると、ふっと息を吹きかけた。
白い息が男の角に当たり、めきめきとそれを凍らせた。
「その美しい顔を、氷漬けにされたくはなかろう?」
脅しではないと、男は思った。
「……それは困る。やまめ、抵抗はするな」
男に言われ、喉元に刃を突きつけられていた女がその手を止める。
やまめの手には、いつの間にか鈍い光を帯びる巨大な包丁が握られていた。
土地神達が慌てて女を押さえつける。
痛い!
そう、やまめがいった。
「手荒な真似はよせ。さてと、では、大人しくしようか」
「それでいい。そこの山姥は捨て置け。この鬼を連れて戻るぞ」
その言葉を合図に、土地神達が次々と姿を消す。
雪女も、鬼も。
やまめ一人が取り残された。
「一体、今のは……どうして、土地神達が」
そう、声を絞り出した。
ちゃぷんと、湯が音を立てた。湯は溶けている。
雪は、もう、降り止んでいた。
夢かと思った。
だが、確かに男はここにいて、そしてどこかへ連れ去られたのだ。
「それは?」
妖狼が、廊下で向こうから歩いてきた姫様にいった。
「咲夜さんの着替えです」
「ああ、なるほど」
小さく頷く。
古寺は静かであった。
静かだが、何かが蠢いていた。
静かな建物に、小さく鼻歌が響いていた。
「全く、咲夜も悪いときに来ちまったな」
「……うーん……」
姫様は、曖昧な笑みを浮かべた。
「ねえ、太郎さん。さっきの稲妻」
「クロだな。間違いないだろ」
「……そうですか」
「妖達が少しざわつき始めてる」
「はい。葉子さんも……葉子さん、寝たふりしてたけど……」
自分の部屋でがさごそと着物を探していたとき、葉子はずっと姫様に背を向けて横になっていた。
寝息はなかった。
手伝ってくれてもいいのに。
姫様がそう言うと、グゥという声がした。
「そうか。葉子、本気で怒ってたもんな」
「……クロさん、心配です」
「……心配、か」
妖狼が、姫様を見つめた。
「はい」
はっきりと、姫様が口にした。
ふっと、太郎が笑った。
「駄目だな、クロ。姫様を悲しませて。俺もちょっと出かけてくる」
「太郎さん」
「ちょっとあの馬鹿をどついてくるだけだ。心配するな。すぐ、戻る」
「うん……」
姫様が、にっこりと笑った。
「姫様、葉子と一緒にな。咲夜のこと、よろしくな。あいつ、そんなに強くないから」
「……うん、わかった」
太郎が、そっと姫様の横を歩いていく。
思い出したように振り向くと、
「そうだな、お汁粉の余りを温め直してくれると嬉しいな」
そう、いった。
「……一つ、お椀に入れて温めておきますね。もう一つ、冷えたままで用意しておきます」
姫様が、そう、いった。
尾を一振りすると、妖狼は力強く駆け始めた。
「着替え、ここに置いておきますね」
「あ、はい? 私、変化できますよ」
お風呂場から咲夜の声が。
鼻歌が、やんだ。
「あ……忘れてた」
そういえば、そうだ。
「……でも、嬉しいです。わざわざ、着替え用意してもらえるなんて。その……お邪魔だったみたいだから……」
少しずつ、咲夜の声が小さくなった。
最後の方は、ほとんど聞き取れないほどに。
「邪魔だなんて、そんなことないよ! 咲夜ちゃんがうちに来るの初めてだし! ちょっとね、今、大切な人が、ちょっとね……」
姫様の声も、少しずつ小さくなっていった。
「あに様がさっき出かけたのはそのためですか?」
「……気付いてたんだ」
「はい」
「すぐに、戻ってくるよ……ね」
「あに様ですから、すぐに」
咲夜の声は、力強かった。
「うん」
また、鼻歌が流れ出した。
なんの歌だろうと、思った。
耳を澄ましてみる。
千十一、千十二、千十三……
拍子をつけて、数を数えているだけだった。