あやかし姫~百華燎乱(14)~
手桶に満たされた冬の水。
姫様は、台所にいた。
中腰。
建物の中で、水はそこにしかなかった。
庭には、井戸がある。
そこは、居間から見える。
今の自分の姿を見られるのが嫌だった。
大桶の水を手桶に汲み、そこに浸していた。
手の甲を確認する。
火傷。
酷くない。
少し、赤くなっているぐらい。
大袈裟過ぎたと思った。
古寺は、しんと静まりかえっていた。
いつもちょろちょろ賑やかな小妖達は、朱桜ちゃんとクロさんと一緒に一室に籠もっている。
広くて、
寒くて、
静かだった。
「どうして、こんなことに……」
姫様が、呻いた。
聞きたくなかった。
二百年、ずっと――
聞きたくなかった。
火羅をこの古寺に入れたのは自分だ。
勝手に押しかけてきた火羅に、クロさんと葉子さんは明らかに怒りを覚えていた。
でも……どんな人か、知りたかった。
太郎さんにお見合いを申し込んだ相手が、どんな人か知りたかった。
知って、どうしたかったのだろう――
よく、わからない。
変だった。
昨晩、咲夜に太郎さんのお見合いの話を聞かされたときから。
変だと、わかっていた。
わかっている、だけ。
朱桜ちゃんと話をしているときも、ぼぉっとしていた。
「一体、なにをしているのだろう」
浸していた手を、頬にぴとっとつけた。
冷たい。
大桶の水に、自分の顔を映した。
表情が、ない。
笑ってみた。
不格好な、笑み。
水が、飛び散る。
姫様が顔をつけたのだ。
荒れる水面。
しばらく、つけっぱなし。
苦しくなって、顔をあげて。
姫様が、その場に腰を下ろした。
私は、古寺の妖に育てられた。
頭領。
葉子さん。
太郎さん。
クロさん。
みんなみんな。
この古寺で、ずっとみんなと暮らしてきた。
私にとって、ここが家。
みんなが、私の家族。
でも――
クロさんも、葉子さんにも、それぞれ『帰る』場所があった。
二人は、時折ここを離れる。
銀の一族。
鞍馬山。
そんなとき、二人とも、
「出かけてくる」
といった。
でも、私には、
「帰る」
そう、聞こえた。
笑って見送る。
そうしないと、二人が困るから。
小妖達も、たまに姿が見えなくなる。ここにいる小妖にも、家族がいるのだ。
頭領がいなくなるのは、毎度の事だった。
それは、もう、慣れました。
ずっとこの寺にいるのは付喪神達。
ここで意識が生まれ、ここで育った妖達。
私と、近しい妖達。
そして――
太郎さん。
どんなときも、太郎さんはここにいた。
呼べば、すぐに飛んできてくる。
いつも、近くにいてくれた。
葉子さんが私の傍にいて、太郎さんがその周りで丸くなっていて。
太郎さんが出かける事は――なかった。
行くところが、ないのだという。
そう言う太郎さんは、いつも寂しそうだった。
あのときまで。
村に、降りる。
街へ、いく。
そのぐらいのことは、よくあった。
でも、すぐに帰ってきてくれた。
あの時が、初めて――
長い、お出かけは。
行き先も告げずここを離れ、行方を絶った。
つぎに会ったとき、太郎さんは血塗れだった。
どうしてそうなったのか、知らない。
どうして私がここにいるのか、知らない。
私の目の前で、太郎さんが倒れている。
火が、消えようとしている。
それだけが、わかった。
だから、必死に灯そうとして。
太郎さんの顔が近くなって……
「……恥ずかしい」
姫様がほんのり赤面した。
狼の姿であっても、あれは間違いなく太郎さん、なのだ。
恥ずかしい、恥ずかしいけど――
赤面しながら、姫様は微笑んだ。
水が、垂れた。
気を失って、気がついて、こんこんと太郎さんは眠っていて。
頭領に連絡して、咲夜ちゃんや磨夜さんと話をして。
いっぱい、看病した。寝起きも、太郎さんの横でした。
いつ、目覚めてもいいようにと。
太郎さん――
あの後、太郎さんは里に戻ろうと思えば戻れた。
忌み子と呼ばれていた太郎さんは、里を命懸けで救った英雄になったのだ。
そこには、家族がいた。
でも。
ここに――
この場所に、私と一緒に『帰って』きてくれた。
「そう……ここに、帰ってきてくれた……」
ずっと、傍にいてくれるのだと思っていた。
根拠も何もない。
ただ、漠然とそう考えていた。
たとえ……
人と、妖だろうとも。
「どうなるんだろう……」
ああやって、想いをぶつけられて。
二百年。
どれだけ、想い続けてきたのだろう?
人である身には、わからない。
そう、思った。
受けちゃうのかな?
太郎さん。
そうしたら……やっぱり、ここを出ていくのかな?
多分、そうだ。
ここに留まる事は、ない。
西の妖狼の族長の娘。
北の妖狼の族長の息子。
お似合いだ。
そう、思った。
西か、北か。
西は、ここから遠いのかな。
「……火羅さんのことも、好きになろう。太郎さんの」
――未来の、お嫁さん。
水が、垂れた。
太郎さんは――私の家族。
だから、だから……
「火羅さんじゃなくても……太郎さんなら……」
そのうち……
私が、ここを離れる。それは、想像出来なかった。
太郎さんがどこかにいってしまう。
もう、毎日会えなくなる。
水が、垂れた。
太郎さんは、家族だ。
私を育ててくれた優しい妖の一人だ。
「……私は、どうしたいの……」
姫様が、手で顔を押さえた。
水が――垂れた。
姫様は、台所にいた。
中腰。
建物の中で、水はそこにしかなかった。
庭には、井戸がある。
そこは、居間から見える。
今の自分の姿を見られるのが嫌だった。
大桶の水を手桶に汲み、そこに浸していた。
手の甲を確認する。
火傷。
酷くない。
少し、赤くなっているぐらい。
大袈裟過ぎたと思った。
古寺は、しんと静まりかえっていた。
いつもちょろちょろ賑やかな小妖達は、朱桜ちゃんとクロさんと一緒に一室に籠もっている。
広くて、
寒くて、
静かだった。
「どうして、こんなことに……」
姫様が、呻いた。
聞きたくなかった。
二百年、ずっと――
聞きたくなかった。
火羅をこの古寺に入れたのは自分だ。
勝手に押しかけてきた火羅に、クロさんと葉子さんは明らかに怒りを覚えていた。
でも……どんな人か、知りたかった。
太郎さんにお見合いを申し込んだ相手が、どんな人か知りたかった。
知って、どうしたかったのだろう――
よく、わからない。
変だった。
昨晩、咲夜に太郎さんのお見合いの話を聞かされたときから。
変だと、わかっていた。
わかっている、だけ。
朱桜ちゃんと話をしているときも、ぼぉっとしていた。
「一体、なにをしているのだろう」
浸していた手を、頬にぴとっとつけた。
冷たい。
大桶の水に、自分の顔を映した。
表情が、ない。
笑ってみた。
不格好な、笑み。
水が、飛び散る。
姫様が顔をつけたのだ。
荒れる水面。
しばらく、つけっぱなし。
苦しくなって、顔をあげて。
姫様が、その場に腰を下ろした。
私は、古寺の妖に育てられた。
頭領。
葉子さん。
太郎さん。
クロさん。
みんなみんな。
この古寺で、ずっとみんなと暮らしてきた。
私にとって、ここが家。
みんなが、私の家族。
でも――
クロさんも、葉子さんにも、それぞれ『帰る』場所があった。
二人は、時折ここを離れる。
銀の一族。
鞍馬山。
そんなとき、二人とも、
「出かけてくる」
といった。
でも、私には、
「帰る」
そう、聞こえた。
笑って見送る。
そうしないと、二人が困るから。
小妖達も、たまに姿が見えなくなる。ここにいる小妖にも、家族がいるのだ。
頭領がいなくなるのは、毎度の事だった。
それは、もう、慣れました。
ずっとこの寺にいるのは付喪神達。
ここで意識が生まれ、ここで育った妖達。
私と、近しい妖達。
そして――
太郎さん。
どんなときも、太郎さんはここにいた。
呼べば、すぐに飛んできてくる。
いつも、近くにいてくれた。
葉子さんが私の傍にいて、太郎さんがその周りで丸くなっていて。
太郎さんが出かける事は――なかった。
行くところが、ないのだという。
そう言う太郎さんは、いつも寂しそうだった。
あのときまで。
村に、降りる。
街へ、いく。
そのぐらいのことは、よくあった。
でも、すぐに帰ってきてくれた。
あの時が、初めて――
長い、お出かけは。
行き先も告げずここを離れ、行方を絶った。
つぎに会ったとき、太郎さんは血塗れだった。
どうしてそうなったのか、知らない。
どうして私がここにいるのか、知らない。
私の目の前で、太郎さんが倒れている。
火が、消えようとしている。
それだけが、わかった。
だから、必死に灯そうとして。
太郎さんの顔が近くなって……
「……恥ずかしい」
姫様がほんのり赤面した。
狼の姿であっても、あれは間違いなく太郎さん、なのだ。
恥ずかしい、恥ずかしいけど――
赤面しながら、姫様は微笑んだ。
水が、垂れた。
気を失って、気がついて、こんこんと太郎さんは眠っていて。
頭領に連絡して、咲夜ちゃんや磨夜さんと話をして。
いっぱい、看病した。寝起きも、太郎さんの横でした。
いつ、目覚めてもいいようにと。
太郎さん――
あの後、太郎さんは里に戻ろうと思えば戻れた。
忌み子と呼ばれていた太郎さんは、里を命懸けで救った英雄になったのだ。
そこには、家族がいた。
でも。
ここに――
この場所に、私と一緒に『帰って』きてくれた。
「そう……ここに、帰ってきてくれた……」
ずっと、傍にいてくれるのだと思っていた。
根拠も何もない。
ただ、漠然とそう考えていた。
たとえ……
人と、妖だろうとも。
「どうなるんだろう……」
ああやって、想いをぶつけられて。
二百年。
どれだけ、想い続けてきたのだろう?
人である身には、わからない。
そう、思った。
受けちゃうのかな?
太郎さん。
そうしたら……やっぱり、ここを出ていくのかな?
多分、そうだ。
ここに留まる事は、ない。
西の妖狼の族長の娘。
北の妖狼の族長の息子。
お似合いだ。
そう、思った。
西か、北か。
西は、ここから遠いのかな。
「……火羅さんのことも、好きになろう。太郎さんの」
――未来の、お嫁さん。
水が、垂れた。
太郎さんは――私の家族。
だから、だから……
「火羅さんじゃなくても……太郎さんなら……」
そのうち……
私が、ここを離れる。それは、想像出来なかった。
太郎さんがどこかにいってしまう。
もう、毎日会えなくなる。
水が、垂れた。
太郎さんは、家族だ。
私を育ててくれた優しい妖の一人だ。
「……私は、どうしたいの……」
姫様が、手で顔を押さえた。
水が――垂れた。