あやかし姫~百華燎乱(25)~
火羅がその大腕を振り回した。
子供の、ように。
ぶんと火の粉を捲きながら、大きな爪が空気を裂く。
そして、目を落とした。
小さな妖狼。
生きていた。
元いた場所にはいなかった。
突き飛ばされたのだ。
爪は、空気を切り裂いただけ。
咲夜がいた場所には小さな女の子が俯せに倒れていた。
朱桜、であった。
大きな声を出しながら、彼女が咲夜に飛びつき突き飛ばしたのだ。
「大丈夫ですか!?」
息咳ながら黒之助が、いった。
火羅の、背後。
朱桜が、ぐっ! と腕をあげた。
ほっと息を吐き、乱れた呼吸を整えると、がっと火羅を睨み付けた。
火羅も、後ろを向く。
喉の奥で、くぐもった声を出した。
――音が、聞こえたのだ。
朱桜と黒之助の妖の、部屋に。
封が、してあるはずなのに、だ。
朱桜が戸に手をかけた。戸はすんなり開いた。
そのまま、外に出る事が出来た。
慌てたのは黒之助だ。
妖達にここにいるよう言うと、朱桜の後を追いかける。
鬼の娘の方が、足が早かった。
みしみしと、古寺が揺れる。ぎちぎちと、古寺が揺れる。
とにかく、後を追いかけた。
そして、これだ――
咲夜が、突っ伏したままの朱桜に駆け寄った。
「朱桜ちゃん!」
「……怪我、ないですか?」
「はい!」
顔を、あげる。
よかったです、と笑う。朱桜は右頬を少し擦り剥いていた。
血が、滲んでいる。
咲夜が、くぅんと鳴くと朱桜の頬の傷を舐めた。
「火羅殿、拙者の家でこのような狼藉を行うとは、許し難い! ここは、拙者の唯一の居場所だぞ!」
そう吠えながら、黒之助は内心焦っていた。
姫さんは無事だろうか。
葉子殿は、太郎は、酒呑童子様は?
どうしていないのだ?
とにかく、今は火羅の注意を自分に惹きつけることだ。
黒之助には、大した力は残っていなかった。
使い果たしたのだ。
戦う術は、ない。
とにかく、あの二人がここから離れてくれれば。
早く、逃げられよ。
そう願った。
自分のことはどうでもよかった。
そのとき――
「かつん」
と、音がした。
火羅が、ゆっくりと首だけを背後に反らした。
黒之助は、動けなかった。
「おい、この大きな犬さん!」
朱桜が、力いっぱい火羅に湯飲みをぶつけたのだ。
ぷんすかぷんすか。
咲夜はおろおろ。
「なに暴れてるですか!
彩花さまはどこいったですか!
父様は!
咲夜ちゃんに危ない事するだなんて、なに考えてるですか!
反省するです! きちんと謝るです!」
火羅は、朱桜を見て、少し首を傾げた。
それから、
朱桜に爪を振り下ろした。
朱桜は怯まなかった。
咲夜は怯んだ。
そして、
火羅の爪は二人に届く事はなかった。
「かーいい、かーいい、朱桜♪」
この修羅場には、不釣り合いな声だった。
楽しげに聞こえるのだ。
それが、逆に不気味であった。
「全く、無茶をする。そんな所は黄蝶にそっくりだ」
火羅が、ぐっと腕に力を込める。
火が、さらに勢いを増す。
しかし、腕が動く事はなかった。
男が、いた。
鬼の、王。右手で火羅の腕を掴んでいた。
壮絶な笑みを浮かべている。
火羅は、腕をひっこめようとした。
それも、出来なかった。
「あ、こら」
――なんじゃ?
という、女の子の声がした。
――どうしたの?
――どうなされた?
――なになに?
――ふえーん。
こちらは、黒之助と朱桜の知っている声。
それは、鬼の王の中から聞こえた。
奇妙な光景であった。
酒呑童子は口を動かしていないのだ。
笑顔。それは、変わらなかった。
まばたきも、しない。
全身、くすんだ色をしていた。
「今、ちょっと黙ってろ。
機嫌が悪いのだ。
うん、悪い悪い。離れたところから、なのでな。少し雑音が――
白月、黙っていろといったのだ。これ以上口を動かすな。それで、いい。大人しく口を閉じていろ。
さてと、火羅。お前、うちの朱桜に傷をつけて」
「父様!」
「おお……惨い……」
がしっと、朱桜が父の脛に蹴りを入れた。
酒呑童子が、
いや、
酒呑童子の姿をした何かが、
「なぬ!?」
っと素っ頓狂な声をだした。
「父様、どこいってるですか!
どうして影鬼がここにいるですか!
どうして咲夜ちゃんを助けないですか!」
「すまない……これ、朱桜の影に入れてたから……」
黒之助は、朱桜の影がなくなっていることに気付いた。
酒呑童子の影も、なかった。
「もう!」
「う……にしても朱桜、顔に傷が……かーいいかーいいかーーいい朱桜に……」
火羅が、炎を吹き上げる。
怒り、猛り狂っていた。
「失せろ、犬っころ」
そう言うと、酒呑童子は跳び上がり火羅の頬を殴りつけた。
動きは、ぎこちなかった。
人形のようであった。ぎこちないが、遅くはなかった。
火羅の巨体が宙を舞い、庭に出された。
そこに、いた。
酒呑童子が。
殴り飛ばされた火羅を、投げ飛ばした。
建物をこれ以上壊さないように配慮されたのだと黒之助は思った。
地面が削れる音。
土埃。
そして、しんとした。
「おなごを殴るのは、俺の主義に反するのだが、ま、やったのは影鬼であって俺じゃないし、いいか。なにより――」
朱桜を、傷つけた。
「ん……葉子が、来るな。時間切れ、か。
黒之助、お前、部屋に菓子をしこたま貯め込んでいたな。朱桜に傷をつけた罰だ。全部、やれ。
咲夜ちゃんにもちゃんとわけてやるんだぞ、朱桜。あ、でも、虫歯になるといけないな……
三つ、一番美味しいのを上から三つ、朱桜にあげるのだ。
食べたら歯磨きちゃんとするんだぞ、いいな?
ん、黒之助、ちゃんと掃除しろよ。朱桜が体調を崩したら許さんぞ。
全く、無鉄砲過ぎる。でも、母さんに似ていた。
それは、嬉しいな」
「酒呑童子様! 姫さんは!」
咲夜の耳が、ぴくりと動いた。
「うん? ちょっと家出しただけだ」
黒之助が絶句した。
朱桜も、絶句した。
「冗談だ。すぐに帰ってくる」
やはり、酒呑童子は口を動かさなかった。
影鬼――式の一種であった。遠くからでも、ある程度操れる。
鬼の王のもの、となれば、力は凄まじい。
それを、朱桜の影に潜ませていたのだ。
結構便利だが、朱桜は好きではなかった。
表情が変わらないのが、嫌なのだという。
父様の表情が変わらなくなったら、嫌だと。
「白月、息はしていいぞ」
そう声がして、鬼の王の姿は消え、朱桜の影が元通りに。
黒之助は、とりあえず朱桜のもとへ。
傷が軽いのを確認し、手持ちの薬をぺたぺたと。
たちまち傷が癒えていく。
薬の効果か――
鬼の血か――
両方、であろう。
また、咲夜が朱桜の頬をなめた。
「くすぐったいです」
そう、いった。
居間は散乱していた。
咲夜も、ざっとその目で確認する。
怪我は、ない。
「なにが、あったのですか」
黒之助が、いった。
火羅は、姫様と太郎に任せようという気になっていた。
近づいていたのだ。
「その……」
咲夜が、人の姿になった。
「……火羅、さん?」
「火羅?」
古寺に戻ると、待ち受けていたのは傷付き倒れた妖狼の姫君。
地面を抉った痕。
土に、まみれていた。
二人とも、開いた口が塞がらなかった。
とにかく古寺に連れて行こうと、姫様を下ろし、太郎が人の姿になる。
火羅に手を伸ばした。
姫様、少しむっとする。私が運ぶと、太郎にいった。
火羅を担ぐ。べちょっと姫様潰れた。
「なにやってるんだ……」
「重い……動けない……」
手をばたばたさせる。火羅は、妖狼。
片手で火羅を持ち上げると、太郎は背中におぶった。
ぱんぱんと、姫様恥ずかしそうに汚れを落とす。
火羅の右頬。
大きく、腫れていた。
子供の、ように。
ぶんと火の粉を捲きながら、大きな爪が空気を裂く。
そして、目を落とした。
小さな妖狼。
生きていた。
元いた場所にはいなかった。
突き飛ばされたのだ。
爪は、空気を切り裂いただけ。
咲夜がいた場所には小さな女の子が俯せに倒れていた。
朱桜、であった。
大きな声を出しながら、彼女が咲夜に飛びつき突き飛ばしたのだ。
「大丈夫ですか!?」
息咳ながら黒之助が、いった。
火羅の、背後。
朱桜が、ぐっ! と腕をあげた。
ほっと息を吐き、乱れた呼吸を整えると、がっと火羅を睨み付けた。
火羅も、後ろを向く。
喉の奥で、くぐもった声を出した。
――音が、聞こえたのだ。
朱桜と黒之助の妖の、部屋に。
封が、してあるはずなのに、だ。
朱桜が戸に手をかけた。戸はすんなり開いた。
そのまま、外に出る事が出来た。
慌てたのは黒之助だ。
妖達にここにいるよう言うと、朱桜の後を追いかける。
鬼の娘の方が、足が早かった。
みしみしと、古寺が揺れる。ぎちぎちと、古寺が揺れる。
とにかく、後を追いかけた。
そして、これだ――
咲夜が、突っ伏したままの朱桜に駆け寄った。
「朱桜ちゃん!」
「……怪我、ないですか?」
「はい!」
顔を、あげる。
よかったです、と笑う。朱桜は右頬を少し擦り剥いていた。
血が、滲んでいる。
咲夜が、くぅんと鳴くと朱桜の頬の傷を舐めた。
「火羅殿、拙者の家でこのような狼藉を行うとは、許し難い! ここは、拙者の唯一の居場所だぞ!」
そう吠えながら、黒之助は内心焦っていた。
姫さんは無事だろうか。
葉子殿は、太郎は、酒呑童子様は?
どうしていないのだ?
とにかく、今は火羅の注意を自分に惹きつけることだ。
黒之助には、大した力は残っていなかった。
使い果たしたのだ。
戦う術は、ない。
とにかく、あの二人がここから離れてくれれば。
早く、逃げられよ。
そう願った。
自分のことはどうでもよかった。
そのとき――
「かつん」
と、音がした。
火羅が、ゆっくりと首だけを背後に反らした。
黒之助は、動けなかった。
「おい、この大きな犬さん!」
朱桜が、力いっぱい火羅に湯飲みをぶつけたのだ。
ぷんすかぷんすか。
咲夜はおろおろ。
「なに暴れてるですか!
彩花さまはどこいったですか!
父様は!
咲夜ちゃんに危ない事するだなんて、なに考えてるですか!
反省するです! きちんと謝るです!」
火羅は、朱桜を見て、少し首を傾げた。
それから、
朱桜に爪を振り下ろした。
朱桜は怯まなかった。
咲夜は怯んだ。
そして、
火羅の爪は二人に届く事はなかった。
「かーいい、かーいい、朱桜♪」
この修羅場には、不釣り合いな声だった。
楽しげに聞こえるのだ。
それが、逆に不気味であった。
「全く、無茶をする。そんな所は黄蝶にそっくりだ」
火羅が、ぐっと腕に力を込める。
火が、さらに勢いを増す。
しかし、腕が動く事はなかった。
男が、いた。
鬼の、王。右手で火羅の腕を掴んでいた。
壮絶な笑みを浮かべている。
火羅は、腕をひっこめようとした。
それも、出来なかった。
「あ、こら」
――なんじゃ?
という、女の子の声がした。
――どうしたの?
――どうなされた?
――なになに?
――ふえーん。
こちらは、黒之助と朱桜の知っている声。
それは、鬼の王の中から聞こえた。
奇妙な光景であった。
酒呑童子は口を動かしていないのだ。
笑顔。それは、変わらなかった。
まばたきも、しない。
全身、くすんだ色をしていた。
「今、ちょっと黙ってろ。
機嫌が悪いのだ。
うん、悪い悪い。離れたところから、なのでな。少し雑音が――
白月、黙っていろといったのだ。これ以上口を動かすな。それで、いい。大人しく口を閉じていろ。
さてと、火羅。お前、うちの朱桜に傷をつけて」
「父様!」
「おお……惨い……」
がしっと、朱桜が父の脛に蹴りを入れた。
酒呑童子が、
いや、
酒呑童子の姿をした何かが、
「なぬ!?」
っと素っ頓狂な声をだした。
「父様、どこいってるですか!
どうして影鬼がここにいるですか!
どうして咲夜ちゃんを助けないですか!」
「すまない……これ、朱桜の影に入れてたから……」
黒之助は、朱桜の影がなくなっていることに気付いた。
酒呑童子の影も、なかった。
「もう!」
「う……にしても朱桜、顔に傷が……かーいいかーいいかーーいい朱桜に……」
火羅が、炎を吹き上げる。
怒り、猛り狂っていた。
「失せろ、犬っころ」
そう言うと、酒呑童子は跳び上がり火羅の頬を殴りつけた。
動きは、ぎこちなかった。
人形のようであった。ぎこちないが、遅くはなかった。
火羅の巨体が宙を舞い、庭に出された。
そこに、いた。
酒呑童子が。
殴り飛ばされた火羅を、投げ飛ばした。
建物をこれ以上壊さないように配慮されたのだと黒之助は思った。
地面が削れる音。
土埃。
そして、しんとした。
「おなごを殴るのは、俺の主義に反するのだが、ま、やったのは影鬼であって俺じゃないし、いいか。なにより――」
朱桜を、傷つけた。
「ん……葉子が、来るな。時間切れ、か。
黒之助、お前、部屋に菓子をしこたま貯め込んでいたな。朱桜に傷をつけた罰だ。全部、やれ。
咲夜ちゃんにもちゃんとわけてやるんだぞ、朱桜。あ、でも、虫歯になるといけないな……
三つ、一番美味しいのを上から三つ、朱桜にあげるのだ。
食べたら歯磨きちゃんとするんだぞ、いいな?
ん、黒之助、ちゃんと掃除しろよ。朱桜が体調を崩したら許さんぞ。
全く、無鉄砲過ぎる。でも、母さんに似ていた。
それは、嬉しいな」
「酒呑童子様! 姫さんは!」
咲夜の耳が、ぴくりと動いた。
「うん? ちょっと家出しただけだ」
黒之助が絶句した。
朱桜も、絶句した。
「冗談だ。すぐに帰ってくる」
やはり、酒呑童子は口を動かさなかった。
影鬼――式の一種であった。遠くからでも、ある程度操れる。
鬼の王のもの、となれば、力は凄まじい。
それを、朱桜の影に潜ませていたのだ。
結構便利だが、朱桜は好きではなかった。
表情が変わらないのが、嫌なのだという。
父様の表情が変わらなくなったら、嫌だと。
「白月、息はしていいぞ」
そう声がして、鬼の王の姿は消え、朱桜の影が元通りに。
黒之助は、とりあえず朱桜のもとへ。
傷が軽いのを確認し、手持ちの薬をぺたぺたと。
たちまち傷が癒えていく。
薬の効果か――
鬼の血か――
両方、であろう。
また、咲夜が朱桜の頬をなめた。
「くすぐったいです」
そう、いった。
居間は散乱していた。
咲夜も、ざっとその目で確認する。
怪我は、ない。
「なにが、あったのですか」
黒之助が、いった。
火羅は、姫様と太郎に任せようという気になっていた。
近づいていたのだ。
「その……」
咲夜が、人の姿になった。
「……火羅、さん?」
「火羅?」
古寺に戻ると、待ち受けていたのは傷付き倒れた妖狼の姫君。
地面を抉った痕。
土に、まみれていた。
二人とも、開いた口が塞がらなかった。
とにかく古寺に連れて行こうと、姫様を下ろし、太郎が人の姿になる。
火羅に手を伸ばした。
姫様、少しむっとする。私が運ぶと、太郎にいった。
火羅を担ぐ。べちょっと姫様潰れた。
「なにやってるんだ……」
「重い……動けない……」
手をばたばたさせる。火羅は、妖狼。
片手で火羅を持ち上げると、太郎は背中におぶった。
ぱんぱんと、姫様恥ずかしそうに汚れを落とす。
火羅の右頬。
大きく、腫れていた。