錦、対、戦姫(2)
ふぁーっとあくびを一つ漏らす。
もう一つおまけ。
もう一つもう一つ。
呂布軍第二武将の張遼は、一人のんびり調練を眺めていた。
「おい」
「うん、臧覇?」
振り向くと、ぷにっとほっぺたをつつかれた。
ぷにぷに。
「なにやってるのー」
拒むわけでなく、張遼はぬぼーっとなっている。
「張遼こそ、なにさぼってるんだ」
臧覇。呂布の武将の一人で、元山賊である。
「違う違う。一休み一休み」
ぽへーっと、言う。
「……呂布様に早く仕上げろと言われたろうが」
貂蝉さまに言いつけるぞ。
義姉の名を、出した。
普段なら、それでしゃきっとなるのだ。
普段なら。
今日は、それでも、ぼんやりしていた。
「わかってるよー。でもね、仕上げようにも、人がいないんだけど」
「あぁ?」
「高順さんも城に帰っちゃったし、わたしだけに言うのも、どうかな?」
「……おっさんもさぼりかよ」
「だよー。十部軍の人の調練、全然進まないんだもん。おかげでこっちにまわってこないし。張繍さんたちは忙しそうだけどね」
「……張遼とおっさんの調練、きついもんな」
「そんなことないと思うんだけどね」
……。
まあ、呂布様麾下と比べればね。
あれは、常軌を逸している。
「臧覇はなにやってるの?」
「ん、ああ。部隊が集まってくるの待ってんだ」
「ふーん。ああ、本当だ。気配がする」
「わかるのか?」
「言われればね」
にこにこと、笑う。
臧覇は、まだまだだと、息を吐いた。
元山賊。
正面からの戦は得意じゃないが、搦め手からの戦は、大の得意だ。
今は、そういう部隊の調練をやっていた。
歩兵ばかり。
身軽な装備。
騎馬中心の呂布軍には、異質な部隊であった。
「遅いぞ」
ぬっと、地の底から湧いたかのように、臧覇の兵が現れた。
調練をしていた兵が、足を止める。彼らには、いきなり湧いてきた臧覇の軍が、どういう動きをしたのかわからなかったのだ。
忍んで、隠れて、そっと動く。
その性質は、貂蝉の手の者に近いものがあった。
「は……胡車児にも気付かれたのか」
「でも、上出来じゃない? これなら、閻行っていう人との戦に、使えそうだよ」
「まあな。……張遼は、張楊ってやつ、知ってるのか?」
「直接お会いしたことは……わたしは、丁原さんにお仕えしていたわけじゃないからね」
「へぇ」
「でも、呂布姉さまから話は聞いてる。いい人だったみたいだよ。楽しそうに、お話してくれたもの」
「ふうん」
「楽しそうにね……呂布姉さま、落ち込んでたな」
ぼそっと、呟いた。
黒い、闘気。小さな身体が、纏いはじめた。
「呂布姉さまの敵は、わたしの敵だもん」
「張遼」
押し殺した声。
ああ、と、狂気に蓋をすると、幼い笑顔を臧覇に向けた。
「前進だ! 突き破れ!」
前進、
直進、
大驀進。
馬超は、前に進むことだけを、兵に――麾下の兵以外の兵に伝えた。
呂布の軍は、思ったほど押し返してこなかった。
馬超の狂気は、頂点に達しかかっている。
今すぐにでも、前線に躍り出たい。この刀を、存分に振るいたい。
だが。
冷静な自分が、言うのだ。まだ、待てと。
相手の意は、読めた。読めたはずだ。引き込みたい。そう、考えているはずだ。
下がりの度合いが中央ほど大きいのだ。
右軍・左軍は、戦っている者達が思っているほど、押し切れていない。
それでも、相手の予想を、少しは上回っているだろうが。
西涼の荒武者達。
理を越えた強さを、奮っていた。
どちらが、先だろうか。
こちらの勢いが予想よりも強いから、引き込むことを考えたのか。
それとも、最初から策を練ったのか。
どちらでも、いい。
早く、動いてくれ。
でないと、俺が――。
天水の麒麟児。
そう、呼ばれていた。
それを、誉れに思っていた。
知略を鍛え、武を研ぎ澄まし。
自分の名を――姜維という名を、天に轟かせるために。
麒麟児ではなく、燦々たる麒麟になるために。
この戦は、そのための、手段。
槍を、引き抜く。
血。
中央の軍が、引きずり込まれていた。
右軍。ほつれつつあった。突出していく中央に、追いつけないのだ。
今、軍として保つことが出来ているのは、龐徳が前線で武を奮っているからだ。
そして、もう一つ。
そこで、姜維は喜色を隠すことが出来なくなった。
ついつい、笑みが零れてしまう。
今、右軍の中で、勢いを増大させている箇所は、二つ。
その一つを、自分が担っていた。
そう、我が名を胸に刻んで死んでいけ。
馬超は、狂気に、堕ちた。
弱い、男だ。
自分は、違う。
違うのだ。我が前に立つ者、全て、この槍で貫く。
……なんだお前。
どうして、俺を見下ろしている。
「俺を、見下ろすな」
ああ、馬か。
その差か。なら、馬を奪えばいい。
どうだ、これで、一緒だ。
――なに、嗤っている。
「お前、なに、嗤っている? なにが可笑しい? 俺は、麒麟となって、天を駆けるんだ。邪魔をするな!」
馬を走らせた。
槍に、神経を研ぎ澄ます。
――漆黒の騎馬隊。
その、先頭。
「まず……一つ」
もう一つおまけ。
もう一つもう一つ。
呂布軍第二武将の張遼は、一人のんびり調練を眺めていた。
「おい」
「うん、臧覇?」
振り向くと、ぷにっとほっぺたをつつかれた。
ぷにぷに。
「なにやってるのー」
拒むわけでなく、張遼はぬぼーっとなっている。
「張遼こそ、なにさぼってるんだ」
臧覇。呂布の武将の一人で、元山賊である。
「違う違う。一休み一休み」
ぽへーっと、言う。
「……呂布様に早く仕上げろと言われたろうが」
貂蝉さまに言いつけるぞ。
義姉の名を、出した。
普段なら、それでしゃきっとなるのだ。
普段なら。
今日は、それでも、ぼんやりしていた。
「わかってるよー。でもね、仕上げようにも、人がいないんだけど」
「あぁ?」
「高順さんも城に帰っちゃったし、わたしだけに言うのも、どうかな?」
「……おっさんもさぼりかよ」
「だよー。十部軍の人の調練、全然進まないんだもん。おかげでこっちにまわってこないし。張繍さんたちは忙しそうだけどね」
「……張遼とおっさんの調練、きついもんな」
「そんなことないと思うんだけどね」
……。
まあ、呂布様麾下と比べればね。
あれは、常軌を逸している。
「臧覇はなにやってるの?」
「ん、ああ。部隊が集まってくるの待ってんだ」
「ふーん。ああ、本当だ。気配がする」
「わかるのか?」
「言われればね」
にこにこと、笑う。
臧覇は、まだまだだと、息を吐いた。
元山賊。
正面からの戦は得意じゃないが、搦め手からの戦は、大の得意だ。
今は、そういう部隊の調練をやっていた。
歩兵ばかり。
身軽な装備。
騎馬中心の呂布軍には、異質な部隊であった。
「遅いぞ」
ぬっと、地の底から湧いたかのように、臧覇の兵が現れた。
調練をしていた兵が、足を止める。彼らには、いきなり湧いてきた臧覇の軍が、どういう動きをしたのかわからなかったのだ。
忍んで、隠れて、そっと動く。
その性質は、貂蝉の手の者に近いものがあった。
「は……胡車児にも気付かれたのか」
「でも、上出来じゃない? これなら、閻行っていう人との戦に、使えそうだよ」
「まあな。……張遼は、張楊ってやつ、知ってるのか?」
「直接お会いしたことは……わたしは、丁原さんにお仕えしていたわけじゃないからね」
「へぇ」
「でも、呂布姉さまから話は聞いてる。いい人だったみたいだよ。楽しそうに、お話してくれたもの」
「ふうん」
「楽しそうにね……呂布姉さま、落ち込んでたな」
ぼそっと、呟いた。
黒い、闘気。小さな身体が、纏いはじめた。
「呂布姉さまの敵は、わたしの敵だもん」
「張遼」
押し殺した声。
ああ、と、狂気に蓋をすると、幼い笑顔を臧覇に向けた。
「前進だ! 突き破れ!」
前進、
直進、
大驀進。
馬超は、前に進むことだけを、兵に――麾下の兵以外の兵に伝えた。
呂布の軍は、思ったほど押し返してこなかった。
馬超の狂気は、頂点に達しかかっている。
今すぐにでも、前線に躍り出たい。この刀を、存分に振るいたい。
だが。
冷静な自分が、言うのだ。まだ、待てと。
相手の意は、読めた。読めたはずだ。引き込みたい。そう、考えているはずだ。
下がりの度合いが中央ほど大きいのだ。
右軍・左軍は、戦っている者達が思っているほど、押し切れていない。
それでも、相手の予想を、少しは上回っているだろうが。
西涼の荒武者達。
理を越えた強さを、奮っていた。
どちらが、先だろうか。
こちらの勢いが予想よりも強いから、引き込むことを考えたのか。
それとも、最初から策を練ったのか。
どちらでも、いい。
早く、動いてくれ。
でないと、俺が――。
天水の麒麟児。
そう、呼ばれていた。
それを、誉れに思っていた。
知略を鍛え、武を研ぎ澄まし。
自分の名を――姜維という名を、天に轟かせるために。
麒麟児ではなく、燦々たる麒麟になるために。
この戦は、そのための、手段。
槍を、引き抜く。
血。
中央の軍が、引きずり込まれていた。
右軍。ほつれつつあった。突出していく中央に、追いつけないのだ。
今、軍として保つことが出来ているのは、龐徳が前線で武を奮っているからだ。
そして、もう一つ。
そこで、姜維は喜色を隠すことが出来なくなった。
ついつい、笑みが零れてしまう。
今、右軍の中で、勢いを増大させている箇所は、二つ。
その一つを、自分が担っていた。
そう、我が名を胸に刻んで死んでいけ。
馬超は、狂気に、堕ちた。
弱い、男だ。
自分は、違う。
違うのだ。我が前に立つ者、全て、この槍で貫く。
……なんだお前。
どうして、俺を見下ろしている。
「俺を、見下ろすな」
ああ、馬か。
その差か。なら、馬を奪えばいい。
どうだ、これで、一緒だ。
――なに、嗤っている。
「お前、なに、嗤っている? なにが可笑しい? 俺は、麒麟となって、天を駆けるんだ。邪魔をするな!」
馬を走らせた。
槍に、神経を研ぎ澄ます。
――漆黒の騎馬隊。
その、先頭。
「まず……一つ」