あやかし姫~雨の日、二人~
水が、空から落ちてくる。
冷たい水が、雫、雫と。
雨――
春の、雨。
夜がその役目を終えるというのに、まだ、薄暗い。
朝の陽が、黒雲に遮られていた。
庭の新緑が、その上に水滴を貯める。
重みに耐えられなくなり、葉から水を落とす。
足下が、冷たい。
水たまりが、大きくなっている。
池みたい。姫様はそう思い、むすっとなり、それから微笑んだ。
姫様は、傘もささずに庭に出ていた。
何をするでなく、ただ、雨に打たれていた。
「姫様!」
姫様が、後ろに目をやった。
妖狼の、姿。
身体を向けると、太郎は少し、目線を反らした。
少女は、白い襦袢だけを身に着けていた。
長い黒髪は雨に乱れ、衣と一緒に肌に貼り付いていた。
線が、浮き出ていた。
「ああ、太郎さん」
「何やってるんだ! そんなに濡れちまって!」
「大きな声、出さない」
「……姫様」
声が、小さくなった。
「冷たい」
「当たり前だろうが!」
また、太郎の声が大きくなった。
姫様は白い息を何度も吐いた。
雪のような肌は、青みを帯びていた。
唇も紫に染まっている。
「なんだろう……どうして、ここにいるんだろう」
「とにかく、建物の下へ」
「うん」
縁側に、脚を乗せようとして、少し躊躇した。
姫様は、裸足だった。足の裏は、汚れている。
「早く」
急かさないでと、思った。せっかちなんだからと。
みんな、私の事になると、せっかちになるんだから。
足跡が、残る。
縁側に、ぺたんと腰を下ろす。
庭。
いつもの、庭。
どうして、ここにいたのだろう。
頭が、ぼうっとしていた。何も、思い出せない。
それに――寒い。
「あれ?」
あったかいと、思った。
白い毛が目の前にある。
包まれている、らしい。
「太郎さん、あったかい」
そう言い、姫様が笑った。
逃げていた熱が、戻ってくる。
どうして、ここにいたのだろう。また、そのことを考えた。やっぱり、思い出せなかった。
太郎さんの顔がすぐ横にある。銀色の瞳が、見えた。
今、綺麗な瞳をしているのだろうと思った。
「ああ?」
心配そうに姫様を見やっていた太郎が、急に鼻を動かし、声を漏らした。
「どうしたの?」
姫様が、不思議そうに尋ねた。
「いや……何でもない」
嫌な臭いが、した。獣の血の臭い――死臭。
ほんの一瞬だが。
それも、姫様から。
嗅ぎ違えたのかと、妖狼は思った。
「太郎さん、雨、久し振りだね」
姫様が、ぽつんと言った。
「お、おお」
「随分と暖まってきました」
「そっか。そりゃ、良かった」
ほっと、妖狼が安堵の溜息を吐いた。
「……」
それから、妖狼が、ほふっと頬を染める。
姫様の身体。
華奢で、今にも壊れてしまいそうな姫様の身体。
もう、子供ではないのだ。目を反らしたばかりなのに。
「ねぇ。太郎さん」
「は、はい」
「白蝉さんと黒之丞さん」
「……どうした?」
とにかく、動揺を悟られないように……
自信が、なかった。
「夫婦、なのかな」
「そうみたいだな」
「妖と人なのにね」
「朱桜ちゃんの母親も、人、だった」
「そっか……そういえば、そうだね」
姫様が、うっすらと微笑んだ。
「人の方が、先にいなくなるのにね」
寂しげに、そう、言った。
「妖でも、死ぬときは、死ぬ」
「……そうだね」
雨はまだ、降っていた。止む気配は、なかった。
毛を膨らませ、さらに姫様を包み込み。
妖狼の顔は、姫様の顔の横。
それは、変わらなかった。
「いいなぁ……」
違和感を、覚えた。妖狼は、違和感を覚えた。
「変だ……」
「なにが?」
もっと早く気付くべきだった。
無我夢中で、ありすぎた。
「どうして、俺以外の奴が来ない」
大きな声を、何度も出した。
雨音が消し去るといっても、限度がある。
妖の耳に届かないわけがないのだ。
――あの、頭領すら来ないなんて。
「それは……」
姫様が、妖狼の耳に顔を近づけた。
「それは?」
「わらわが、眠らせているから」
「なに!?」
声が……聞いた事のない、艶やかな女の声が、姫様の口から妖狼の耳に吹きかけられた。
ぐっと身を翻した。太郎が、姫様から離れた。
「姫様……」
姫様、姫様のはずなのに。
絶対に間違えるはずないのに。
姫様は、ぼぅっと太郎を見やり、それから――
その身を、崩れるように横たえた。
「姫様!?」
古寺の妖達が、動き出す。
太郎は、姫様の名を呼び続けていた。
「……」
頭領は、雨に打たれるそれを見下ろしていた。
頭領が見ているもの。
それは、いたちであった。
大きな大きな、化けいたち。
もう、その瞳は、動く事はない。
「これが、血の臭いの、元か」
頭領の影が大きくなると、その亡骸を呑み込んだ。
二つに別れた舌を見せ、目を細めると、頭領はその場から姿を消した。
冷たい水が、雫、雫と。
雨――
春の、雨。
夜がその役目を終えるというのに、まだ、薄暗い。
朝の陽が、黒雲に遮られていた。
庭の新緑が、その上に水滴を貯める。
重みに耐えられなくなり、葉から水を落とす。
足下が、冷たい。
水たまりが、大きくなっている。
池みたい。姫様はそう思い、むすっとなり、それから微笑んだ。
姫様は、傘もささずに庭に出ていた。
何をするでなく、ただ、雨に打たれていた。
「姫様!」
姫様が、後ろに目をやった。
妖狼の、姿。
身体を向けると、太郎は少し、目線を反らした。
少女は、白い襦袢だけを身に着けていた。
長い黒髪は雨に乱れ、衣と一緒に肌に貼り付いていた。
線が、浮き出ていた。
「ああ、太郎さん」
「何やってるんだ! そんなに濡れちまって!」
「大きな声、出さない」
「……姫様」
声が、小さくなった。
「冷たい」
「当たり前だろうが!」
また、太郎の声が大きくなった。
姫様は白い息を何度も吐いた。
雪のような肌は、青みを帯びていた。
唇も紫に染まっている。
「なんだろう……どうして、ここにいるんだろう」
「とにかく、建物の下へ」
「うん」
縁側に、脚を乗せようとして、少し躊躇した。
姫様は、裸足だった。足の裏は、汚れている。
「早く」
急かさないでと、思った。せっかちなんだからと。
みんな、私の事になると、せっかちになるんだから。
足跡が、残る。
縁側に、ぺたんと腰を下ろす。
庭。
いつもの、庭。
どうして、ここにいたのだろう。
頭が、ぼうっとしていた。何も、思い出せない。
それに――寒い。
「あれ?」
あったかいと、思った。
白い毛が目の前にある。
包まれている、らしい。
「太郎さん、あったかい」
そう言い、姫様が笑った。
逃げていた熱が、戻ってくる。
どうして、ここにいたのだろう。また、そのことを考えた。やっぱり、思い出せなかった。
太郎さんの顔がすぐ横にある。銀色の瞳が、見えた。
今、綺麗な瞳をしているのだろうと思った。
「ああ?」
心配そうに姫様を見やっていた太郎が、急に鼻を動かし、声を漏らした。
「どうしたの?」
姫様が、不思議そうに尋ねた。
「いや……何でもない」
嫌な臭いが、した。獣の血の臭い――死臭。
ほんの一瞬だが。
それも、姫様から。
嗅ぎ違えたのかと、妖狼は思った。
「太郎さん、雨、久し振りだね」
姫様が、ぽつんと言った。
「お、おお」
「随分と暖まってきました」
「そっか。そりゃ、良かった」
ほっと、妖狼が安堵の溜息を吐いた。
「……」
それから、妖狼が、ほふっと頬を染める。
姫様の身体。
華奢で、今にも壊れてしまいそうな姫様の身体。
もう、子供ではないのだ。目を反らしたばかりなのに。
「ねぇ。太郎さん」
「は、はい」
「白蝉さんと黒之丞さん」
「……どうした?」
とにかく、動揺を悟られないように……
自信が、なかった。
「夫婦、なのかな」
「そうみたいだな」
「妖と人なのにね」
「朱桜ちゃんの母親も、人、だった」
「そっか……そういえば、そうだね」
姫様が、うっすらと微笑んだ。
「人の方が、先にいなくなるのにね」
寂しげに、そう、言った。
「妖でも、死ぬときは、死ぬ」
「……そうだね」
雨はまだ、降っていた。止む気配は、なかった。
毛を膨らませ、さらに姫様を包み込み。
妖狼の顔は、姫様の顔の横。
それは、変わらなかった。
「いいなぁ……」
違和感を、覚えた。妖狼は、違和感を覚えた。
「変だ……」
「なにが?」
もっと早く気付くべきだった。
無我夢中で、ありすぎた。
「どうして、俺以外の奴が来ない」
大きな声を、何度も出した。
雨音が消し去るといっても、限度がある。
妖の耳に届かないわけがないのだ。
――あの、頭領すら来ないなんて。
「それは……」
姫様が、妖狼の耳に顔を近づけた。
「それは?」
「わらわが、眠らせているから」
「なに!?」
声が……聞いた事のない、艶やかな女の声が、姫様の口から妖狼の耳に吹きかけられた。
ぐっと身を翻した。太郎が、姫様から離れた。
「姫様……」
姫様、姫様のはずなのに。
絶対に間違えるはずないのに。
姫様は、ぼぅっと太郎を見やり、それから――
その身を、崩れるように横たえた。
「姫様!?」
古寺の妖達が、動き出す。
太郎は、姫様の名を呼び続けていた。
「……」
頭領は、雨に打たれるそれを見下ろしていた。
頭領が見ているもの。
それは、いたちであった。
大きな大きな、化けいたち。
もう、その瞳は、動く事はない。
「これが、血の臭いの、元か」
頭領の影が大きくなると、その亡骸を呑み込んだ。
二つに別れた舌を見せ、目を細めると、頭領はその場から姿を消した。