あやかし姫~梅雨の日のこと、いつものお話(終)~
古寺の、居間。
姫様がいて、周りに妖がいて。
賑やかに、和やかに。
時折、くすんと拗ねたように寝っ転がっている白い小さな狼に、姫様は目をやった。
それから、もうっと、息を吐いた。
お昼時。
庭に洗濯物が干されていた。
雨があがったのだ。雲の切れ目から、薄日が差して。
日差しは弱々しいが、ないよりはまし。
来た来たと、誰かが、言った。
黒之助が、お膳を持って居間に入ってきた。
伏し目がちに、姫様の前に膳を差し出す。
一人分。
ほとんどの妖は、食事を必要としない。
食べなくても、生きていける。
だから、食事は姫様だけ。
姫様は、生きていけない。
その周りでわいのわいのとしているのが、いつもの事だった。
時折、皆で宴をする。
食べなくてもいいが、食事は、楽しい。
その時も、やっぱりわいのわいのとしていた。
「えっと……」
今日の献立は――
こんもり麦ご飯。
――もう、盛り過ぎっていつも言ってるのに。
ほくほくお揚げのお吸い物。
――これも、葉子さんと半分こだね。
菜の花の和え物。
――菜の花、残ってたんだ。
茄子の漬け物。
――今日はお茶漬けに、しようかな。
それと……黒色?
うーんと、姫様は首を傾げた。
隣の葉子も、首を傾げた。
妖達も、首を傾げた。
妖狼は、黒之助が身体を小さくしているのを、訝しげに見やった。
「黒之助」
厳かな声が、一段高いところから居間に響いた。
古寺の主――いや、多分、二番目に偉い人。
翁。
白髪。
長い髪の先の方を一つに結わえ、背に垂らしていた。
白い髭。白い眉。
名を、八霊という。
頭領。
皆には、そう呼ばれていた。
その太い声が、降り注いだ。
黒之助はさらに身体を縮こまらせた。
「なんじゃ、それは」
黒之助は、ふるふると首を振るだけでなにも答えなかった。
太郎が、のそりと起きあがり、姫様に近づいた。
それから、
「なにこれ」
そう、黒之助に言った。
「すみませぬ……ちょっと目を離した隙に、こげ…し……」
声はどんどん小さくなり、お終いの方はほとんど聞き取れなくなって。
黒烏は、真っ赤であった。
「クロちゃーん!」
「クロ」
「黒之助」
姫様以外が、言う。
今日の姫様のお昼ご飯は、椀に麦ご飯、茄子のお漬け物、菜の花の和え物、油揚げのお吸い物。
そして、黒い物。
なんだか焦げ臭い物体。
よく目を凝らすと……魚に、見えた。
「……鮎、焦がしてしまいました」
ぽそりと、言った。
本当に、申し訳ない!
黒之助が、頭を畳みに擦り付けた。
冷ややかに冷ややかに、妖達は、視線を集めた。
梅雨の淀んだ空気が、ぐるりと渦を巻いた。
姫様は、黙ってお箸を手に取ると、鮎のなれの果てに突き刺した。
食べやすいように、身を、割ろうと。
ぱりっと、音がした。
よく焼けている。
本当に、よく焼けている。
「……」
姫様は、それを口に運んだ。
かりかり、かりかり。
苦いです。
しょんぼりと、そう、口にした。
「……申し訳ない」
そう言うしか、なかった。
謝るしか、なかった。
焼くだけだったのに。見事に、失敗した。
また、姫様が口に運ぶ。
「もう、いいよ」
三つ目を口に運ぼうとしたところで、葉子に止められた。
「鮎、もうなかったのか?」
「頭領、一匹だけってクロさん言ってました!」
「……しょうがないのう」
「勿体ねえな」
「クロちゃん……食え!」
葉子が、お皿を黒烏に向ける。
じっと、目を注いだ。
鼻先につけられる。
ごくりと、喉を鳴らした。
姫様が止める間もなく、黒之助はあむっとそれを丸飲みにした。
「……苦いですな……っつう!?」
むせ始める。
喉を掻きむしる。
黒羽が舞い、葉子と太郎が飛びずさった。
「お茶!? お茶ですよね!」
姫様が、急いで湯飲みを渡す。
黒之助は、冷たいお茶を一気に飲み干した。
ちょっと目が赤くなっていた。
炭化したそれが、喉に引っかかったのだ。
「ごほ……ごほごほごほごほごほ」
「だ、大丈夫ですか?」
「あぁ、ほっとけほっとけ」
ぽてぽてと近づきながら、素っ気なく太郎が言う。
「それよりもさ、姫様、これで足りる? 物足りないなら、あたいがちょっくらこしらえてくるけど?」
葉子も黒之助そっちのけで姫様に話しかけて。
物欲しそうに、お吸い物を見ながら。
「……クロさん、本当に大丈夫?」
「せ、拙者は」
まだ、ちょっと苦しそうであった。
それでも、大丈夫だと言う。
本当に、鮎のこと、申し訳ないと言う。
「そう……葉子さん、これで十分です。ええ、十分ですよ」
お吸い物、半分こしましょうね。
「いいの?」
「はい」
とんとんと、肉球で黒之助の肩を叩くと、
「へたくそ」
と、太郎が言った。
言い返す術が、黒之助にはなかった。
「今日の夕食は……太郎殿、だったな」
「ああ」
「拙者がやる」
「やる?」
「くっ……やらせて下さい」
「いいぜ」
にやにやと、太郎は、黒之助の頬に肉球を当てた。
肉球。柔らかい。
不愉快、極まりない。が……
頭領が、じっと黒之助を睨んでいた。
「それじゃあ、いただきます」
いただいてー。
そう、妖達が声を出した。
葉子が、早く頂戴なと、尻尾を振った。
洗濯物が、はたはたと、湿った風に揺られた。
姫様がいて、周りに妖がいて。
賑やかに、和やかに。
時折、くすんと拗ねたように寝っ転がっている白い小さな狼に、姫様は目をやった。
それから、もうっと、息を吐いた。
お昼時。
庭に洗濯物が干されていた。
雨があがったのだ。雲の切れ目から、薄日が差して。
日差しは弱々しいが、ないよりはまし。
来た来たと、誰かが、言った。
黒之助が、お膳を持って居間に入ってきた。
伏し目がちに、姫様の前に膳を差し出す。
一人分。
ほとんどの妖は、食事を必要としない。
食べなくても、生きていける。
だから、食事は姫様だけ。
姫様は、生きていけない。
その周りでわいのわいのとしているのが、いつもの事だった。
時折、皆で宴をする。
食べなくてもいいが、食事は、楽しい。
その時も、やっぱりわいのわいのとしていた。
「えっと……」
今日の献立は――
こんもり麦ご飯。
――もう、盛り過ぎっていつも言ってるのに。
ほくほくお揚げのお吸い物。
――これも、葉子さんと半分こだね。
菜の花の和え物。
――菜の花、残ってたんだ。
茄子の漬け物。
――今日はお茶漬けに、しようかな。
それと……黒色?
うーんと、姫様は首を傾げた。
隣の葉子も、首を傾げた。
妖達も、首を傾げた。
妖狼は、黒之助が身体を小さくしているのを、訝しげに見やった。
「黒之助」
厳かな声が、一段高いところから居間に響いた。
古寺の主――いや、多分、二番目に偉い人。
翁。
白髪。
長い髪の先の方を一つに結わえ、背に垂らしていた。
白い髭。白い眉。
名を、八霊という。
頭領。
皆には、そう呼ばれていた。
その太い声が、降り注いだ。
黒之助はさらに身体を縮こまらせた。
「なんじゃ、それは」
黒之助は、ふるふると首を振るだけでなにも答えなかった。
太郎が、のそりと起きあがり、姫様に近づいた。
それから、
「なにこれ」
そう、黒之助に言った。
「すみませぬ……ちょっと目を離した隙に、こげ…し……」
声はどんどん小さくなり、お終いの方はほとんど聞き取れなくなって。
黒烏は、真っ赤であった。
「クロちゃーん!」
「クロ」
「黒之助」
姫様以外が、言う。
今日の姫様のお昼ご飯は、椀に麦ご飯、茄子のお漬け物、菜の花の和え物、油揚げのお吸い物。
そして、黒い物。
なんだか焦げ臭い物体。
よく目を凝らすと……魚に、見えた。
「……鮎、焦がしてしまいました」
ぽそりと、言った。
本当に、申し訳ない!
黒之助が、頭を畳みに擦り付けた。
冷ややかに冷ややかに、妖達は、視線を集めた。
梅雨の淀んだ空気が、ぐるりと渦を巻いた。
姫様は、黙ってお箸を手に取ると、鮎のなれの果てに突き刺した。
食べやすいように、身を、割ろうと。
ぱりっと、音がした。
よく焼けている。
本当に、よく焼けている。
「……」
姫様は、それを口に運んだ。
かりかり、かりかり。
苦いです。
しょんぼりと、そう、口にした。
「……申し訳ない」
そう言うしか、なかった。
謝るしか、なかった。
焼くだけだったのに。見事に、失敗した。
また、姫様が口に運ぶ。
「もう、いいよ」
三つ目を口に運ぼうとしたところで、葉子に止められた。
「鮎、もうなかったのか?」
「頭領、一匹だけってクロさん言ってました!」
「……しょうがないのう」
「勿体ねえな」
「クロちゃん……食え!」
葉子が、お皿を黒烏に向ける。
じっと、目を注いだ。
鼻先につけられる。
ごくりと、喉を鳴らした。
姫様が止める間もなく、黒之助はあむっとそれを丸飲みにした。
「……苦いですな……っつう!?」
むせ始める。
喉を掻きむしる。
黒羽が舞い、葉子と太郎が飛びずさった。
「お茶!? お茶ですよね!」
姫様が、急いで湯飲みを渡す。
黒之助は、冷たいお茶を一気に飲み干した。
ちょっと目が赤くなっていた。
炭化したそれが、喉に引っかかったのだ。
「ごほ……ごほごほごほごほごほ」
「だ、大丈夫ですか?」
「あぁ、ほっとけほっとけ」
ぽてぽてと近づきながら、素っ気なく太郎が言う。
「それよりもさ、姫様、これで足りる? 物足りないなら、あたいがちょっくらこしらえてくるけど?」
葉子も黒之助そっちのけで姫様に話しかけて。
物欲しそうに、お吸い物を見ながら。
「……クロさん、本当に大丈夫?」
「せ、拙者は」
まだ、ちょっと苦しそうであった。
それでも、大丈夫だと言う。
本当に、鮎のこと、申し訳ないと言う。
「そう……葉子さん、これで十分です。ええ、十分ですよ」
お吸い物、半分こしましょうね。
「いいの?」
「はい」
とんとんと、肉球で黒之助の肩を叩くと、
「へたくそ」
と、太郎が言った。
言い返す術が、黒之助にはなかった。
「今日の夕食は……太郎殿、だったな」
「ああ」
「拙者がやる」
「やる?」
「くっ……やらせて下さい」
「いいぜ」
にやにやと、太郎は、黒之助の頬に肉球を当てた。
肉球。柔らかい。
不愉快、極まりない。が……
頭領が、じっと黒之助を睨んでいた。
「それじゃあ、いただきます」
いただいてー。
そう、妖達が声を出した。
葉子が、早く頂戴なと、尻尾を振った。
洗濯物が、はたはたと、湿った風に揺られた。