あやかし姫~主従(9)~
蝋燭の薄火が風に揺れ、火羅の横顔を照らす。
古寺には既に薄闇の帳が下り、皆は息を潜めている。
――火羅は、まだ、起きていた。
麓の村を訪れたときのことを思い出し、嘲るような笑みを浮かべた。
目の前で、赤麗が寝息をたて眠っている。
白い、薄衣。二人ともであった。人の匂いが微かに付いていた。
不快ではなかった。
戸に隙間が開き、部屋を風が幾つも抜けていく。
それでも……暑さは、和らがない。
壁に背をつけ、膝を曲げ、己の従者の寝顔を見つめる。
赤麗の微かな息遣いが、虫や獣や葉花の声と共に耳をくすぐった。
「あの娘……食べ過ぎでしょうに……」
押し殺した、楽しげな声。
姫様は、古寺に帰ってからぐてっと横になっていた。
「はぁ。しょうがない小娘ね。まだまだ、子供だわ。ああやって、大人びた顔をしていても……子供。子供なんだわ。……太郎様は、あの娘の親代わり、よねぇ……」
金銀妖瞳の妖狼に、烏天狗に、九尾の銀狐に。
それに、八霊という翁。
あの四人が、あの娘を育てた。
「親……親? あれは、親代わりじゃない」
私が見た、あの、二人の交わりは。
……もし、親子だとしたら、本当に仲の宜しいこと。
ねえ、赤麗。
「羨ましいわ……あら、どうしてそう思うのかしら? 私は……いいわ。今は、よしておく。少し、眠るね」
おやすみと息を吐き、背中を少し曲げると、壁にもたれかかったまま眼を閉じた。
あの娘に毒されていると、火羅は思った。
妖は夜、眠らないのに――
目を薄く開けた。
夏の夜だというのに、冷たさを火羅は感じた。
不思議に思い、顔を上げる。目を、大きく見開いた。あっと声をあげそうになり、慌てて口を押さえた。
部屋に、人がいた。
彩花――
赤麗の枕元に膝をついていた。
何時の間にと、思う。大きな驚きと、少しの怒り。
くつくつと、嗤っていた。
赤麗が、起きるじゃない――
そう小声で言おうとした。
しかし、声は、出なかった。
愕然として、喉を押さえる。
やはり、一つも音が出ない。ぱくぱくと、口が開け閉めされるだけ。
「……火羅と、いったな」
女が、嗤いながら、火羅を見やった。
美しく、艶めかしい笑み。火羅は、首を振った。
あの娘じゃない。
私は、この女を知らない。
笑む声は、引き込まれるような、艶美な声であった。
――この声は、嫌いだ。本能的に、そう、思った。
獣の勘が、そう訴えた。
「お前は……あまり美味そうでは、ないなぁ」
手が、震えた。
これは、怯え?
女の顔が近づく。火羅の顔に息がかかった。
甘く、そして腐敗したような息。
血の気が静かに引いていくのを、火羅は感じた。
頬に、手が触れる。冷たかった。
怖気を、催した。
「やはり、こちらよなぁ」
赤麗を見やり、女が嬉しそうに言った。
立ち上がり、火羅から離れていく。赤麗の顔元で、腰を屈めた。
「熟れ、落ちようとする、甘い果実。忘れられぬ……忘れられるものか。鼻をくすぐる、芳しい香り……いい、匂いじゃ、いい、気分じゃ。この味は妾を、満足させてくれる」
女の腕が、赤麗に伸びる。
手首に、五指の赤い痣があった。
見覚えがあった。
赤麗――!
こいつ……食べる気だ。赤麗を、食べる気だ。
そんなこと、させない!
爪に、牙に、力を込める。動かない。噴き上がるはずの火が、姿を現さない。
四肢の自由が、きかなくなっていた。
動いて! 動いて!
どうして!
涙が、零れそうになっていた。
「嫌だ……」
声が、漏れた。やっと、漏れた。
怪訝そうに、女が顔を向けた。
じっと、火羅を見つめる。
全てを、見透かされそうな視線であった。
「あぁ……良いところなのに」
女が、残念そうに溜息を吐いた。
ぞわり――
女の影が、動いた。
もぞりと、白い手が、影から伸びた。
黒々とした蛇を数多と巻き付けた、白い女の手だった。
「残念、美味しそうだったのに」
もう一つの手。同じように、蛇を巻き付けていた。
影から這い出た両腕が、女を絡みとる。
くつと嗤うと、
「わかった、わかった。手は、出さぬよ」
そう言い残し、女の姿が、ぱぁっと黒い蝶の群れになった。
腕と蛇の檻をすり抜け、火羅に向かっていった。
黒い蝶は闇となり、妖狼の姫君の意識は、その闇に溶け込んでいった。
「……夢?」
汗をかいていた。袖で、拭った。
生々しい夢であった。あの娘が別人の表情を見せ、赤麗に忍び寄った夢。
心底、恐ろしい夢。
自分の身体を抱き締める。
震えが、止まらなかった。
「嫌な、夢だわ」
吐き捨てるように、言った。
酷く喉が渇いていた。水瓶に手を伸ばした。
こくりと、中身を飲み干す。
「寒い……」
身体を、また抱き締める。
震えを押さえようとした。
「何よ、今のは……」
ぐすりと、目を擦った。
夜が、少しずつ、明けていった。
「私の顔に何か付いていますか?」
姫様は、不思議そうに首を傾けた。
火羅――まじまじと、朝食を食べずに姫様の顔を見ていた。
「昨日の晩……」
「昨日の晩?」
「火羅様、何かあったのですか?」
赤麗も、箸を止めた。
「彩花さん、私の部屋に来ませんでした?」
「……いえ」
「そう」
嘘を吐いてるようには、見えない。
一つ息を吐くと、器に手を伸ばした。
「赤麗」
「はい」
怖ず怖ずと、赤麗は返事した。
「ご飯粒、ほっぺに付いてるわ」
「あっ!?」
やはり夢だったのかと、火羅は思った。
太郎が、思案げに庭を見ているのが目に入った。
こちらに見える瞳が、僅かな刻、金色に染まっていた。
黙って火羅は箸を動かした。
古寺には既に薄闇の帳が下り、皆は息を潜めている。
――火羅は、まだ、起きていた。
麓の村を訪れたときのことを思い出し、嘲るような笑みを浮かべた。
目の前で、赤麗が寝息をたて眠っている。
白い、薄衣。二人ともであった。人の匂いが微かに付いていた。
不快ではなかった。
戸に隙間が開き、部屋を風が幾つも抜けていく。
それでも……暑さは、和らがない。
壁に背をつけ、膝を曲げ、己の従者の寝顔を見つめる。
赤麗の微かな息遣いが、虫や獣や葉花の声と共に耳をくすぐった。
「あの娘……食べ過ぎでしょうに……」
押し殺した、楽しげな声。
姫様は、古寺に帰ってからぐてっと横になっていた。
「はぁ。しょうがない小娘ね。まだまだ、子供だわ。ああやって、大人びた顔をしていても……子供。子供なんだわ。……太郎様は、あの娘の親代わり、よねぇ……」
金銀妖瞳の妖狼に、烏天狗に、九尾の銀狐に。
それに、八霊という翁。
あの四人が、あの娘を育てた。
「親……親? あれは、親代わりじゃない」
私が見た、あの、二人の交わりは。
……もし、親子だとしたら、本当に仲の宜しいこと。
ねえ、赤麗。
「羨ましいわ……あら、どうしてそう思うのかしら? 私は……いいわ。今は、よしておく。少し、眠るね」
おやすみと息を吐き、背中を少し曲げると、壁にもたれかかったまま眼を閉じた。
あの娘に毒されていると、火羅は思った。
妖は夜、眠らないのに――
目を薄く開けた。
夏の夜だというのに、冷たさを火羅は感じた。
不思議に思い、顔を上げる。目を、大きく見開いた。あっと声をあげそうになり、慌てて口を押さえた。
部屋に、人がいた。
彩花――
赤麗の枕元に膝をついていた。
何時の間にと、思う。大きな驚きと、少しの怒り。
くつくつと、嗤っていた。
赤麗が、起きるじゃない――
そう小声で言おうとした。
しかし、声は、出なかった。
愕然として、喉を押さえる。
やはり、一つも音が出ない。ぱくぱくと、口が開け閉めされるだけ。
「……火羅と、いったな」
女が、嗤いながら、火羅を見やった。
美しく、艶めかしい笑み。火羅は、首を振った。
あの娘じゃない。
私は、この女を知らない。
笑む声は、引き込まれるような、艶美な声であった。
――この声は、嫌いだ。本能的に、そう、思った。
獣の勘が、そう訴えた。
「お前は……あまり美味そうでは、ないなぁ」
手が、震えた。
これは、怯え?
女の顔が近づく。火羅の顔に息がかかった。
甘く、そして腐敗したような息。
血の気が静かに引いていくのを、火羅は感じた。
頬に、手が触れる。冷たかった。
怖気を、催した。
「やはり、こちらよなぁ」
赤麗を見やり、女が嬉しそうに言った。
立ち上がり、火羅から離れていく。赤麗の顔元で、腰を屈めた。
「熟れ、落ちようとする、甘い果実。忘れられぬ……忘れられるものか。鼻をくすぐる、芳しい香り……いい、匂いじゃ、いい、気分じゃ。この味は妾を、満足させてくれる」
女の腕が、赤麗に伸びる。
手首に、五指の赤い痣があった。
見覚えがあった。
赤麗――!
こいつ……食べる気だ。赤麗を、食べる気だ。
そんなこと、させない!
爪に、牙に、力を込める。動かない。噴き上がるはずの火が、姿を現さない。
四肢の自由が、きかなくなっていた。
動いて! 動いて!
どうして!
涙が、零れそうになっていた。
「嫌だ……」
声が、漏れた。やっと、漏れた。
怪訝そうに、女が顔を向けた。
じっと、火羅を見つめる。
全てを、見透かされそうな視線であった。
「あぁ……良いところなのに」
女が、残念そうに溜息を吐いた。
ぞわり――
女の影が、動いた。
もぞりと、白い手が、影から伸びた。
黒々とした蛇を数多と巻き付けた、白い女の手だった。
「残念、美味しそうだったのに」
もう一つの手。同じように、蛇を巻き付けていた。
影から這い出た両腕が、女を絡みとる。
くつと嗤うと、
「わかった、わかった。手は、出さぬよ」
そう言い残し、女の姿が、ぱぁっと黒い蝶の群れになった。
腕と蛇の檻をすり抜け、火羅に向かっていった。
黒い蝶は闇となり、妖狼の姫君の意識は、その闇に溶け込んでいった。
「……夢?」
汗をかいていた。袖で、拭った。
生々しい夢であった。あの娘が別人の表情を見せ、赤麗に忍び寄った夢。
心底、恐ろしい夢。
自分の身体を抱き締める。
震えが、止まらなかった。
「嫌な、夢だわ」
吐き捨てるように、言った。
酷く喉が渇いていた。水瓶に手を伸ばした。
こくりと、中身を飲み干す。
「寒い……」
身体を、また抱き締める。
震えを押さえようとした。
「何よ、今のは……」
ぐすりと、目を擦った。
夜が、少しずつ、明けていった。
「私の顔に何か付いていますか?」
姫様は、不思議そうに首を傾けた。
火羅――まじまじと、朝食を食べずに姫様の顔を見ていた。
「昨日の晩……」
「昨日の晩?」
「火羅様、何かあったのですか?」
赤麗も、箸を止めた。
「彩花さん、私の部屋に来ませんでした?」
「……いえ」
「そう」
嘘を吐いてるようには、見えない。
一つ息を吐くと、器に手を伸ばした。
「赤麗」
「はい」
怖ず怖ずと、赤麗は返事した。
「ご飯粒、ほっぺに付いてるわ」
「あっ!?」
やはり夢だったのかと、火羅は思った。
太郎が、思案げに庭を見ているのが目に入った。
こちらに見える瞳が、僅かな刻、金色に染まっていた。
黙って火羅は箸を動かした。