小説置き場2

山岳に寺社仏閣に両生類に爬虫類に妖怪に三国志にetcetc

あやかし姫~主従(10)~

「暑いわね……」
「さっきからそればかり、ですね」
 姫様が顔を上げ、妖狼の姫君に向かってそう、言った。
 借りた団扇で、火羅は赤麗を扇いでいた。
 着物を肩まで下げうなじを見せ、白い素足を放り出す。
 切れ長の流し目は、金銀妖瞳の妖狼の元へ。
 妖達は、その妖艶な姿に目のやりどころに困惑気味。
 姫様は少々身じろぎしながら太郎を見やった。
 ごてっと腹這いになり、庭を見続ける鴉を頭に乗せた太郎は、姫様と目が合うとすんと息を零した。心、ここにあらず。そんな印象を受けた。
 火羅が口をへの字に曲げ、姫様が安堵の表情を浮かべた。
 三妖の一匹、銀狐の葉子は、どこか楽しげに姫様の傍らで扇を動かしていた。
 太郎の奴、気にならないのかなぁとぼんやりと考えながら。
「はぁ、暑い暑い!」
「暑いと思うから暑いんです。暑くないと思えば、」
「暑いに決まってるでしょう」
 呆れたように言う。
 そうだよねぇと、妖達が相づちを打つ。
 今回は、古寺の妖も火羅の味方のよう。
 居間は、古寺で一番涼しい場所。
 が、ものには限度というものがあって。
 そもそも、姫様も額に汗の粒を浮かべ、気怠げに筆を動かしていたのだ。
 傍らの葉子も、暑さに膝を屈していた。
「暑いわね、赤麗」
「……そうですね、火羅様」
 赤麗が頷く。
「赤麗さん……」
 姫様が、形の良い眉をひそめた。
「水遊びなんて、どう?」
 姫様が目を見開いた。
 真ん丸の瞳が火羅を見やった。銀狐の扇の動きが、はたと止まった。
「幸い……近くに、水の流れがあるみたいだし」
 鼻をひくひくさせながら、火羅は言った。
「いい考えじゃ……」
 流れが、止まる。
 少女の濁った目。
 葉子が、心配そうに姫様の袖を引っ張った。
「何……何なの……」
 視線が痛かった。火羅を庇うように、赤麗が少し身体を前に出した。
 妖達が、じっと火羅達を見つめていた。
 その群れからは、敵意がありありと感じとれた。
「火羅様……」
 心配そうに、赤麗が声を出した。
「水遊びですか……」
 今度は姫様を見る番で。一斉に視線が移っていく。
 ぽんと手を叩くと、
「行きましょうか」
 そう、言った。無感情な声であった。
「本当に?」
 葉子が言う。心配そうに、言う。
 つい最近、この手の会話で姫様の機嫌を損ねたばかり。
 姫様の水遊び「嫌い」は古寺では有名な話。
 うんと素直に頷けなかった。
「西瓜を持っていって……沙羅ちゃんの川で、冷やして。きっと美味しいでしょうね」
「西瓜があるの?」
 ぱちんと、扇を閉じた。
「頭領が、結構な数もらってきたんです。ちょうど良いです。全部今日のうちに食べちゃいましょう」
 いたずらっ子のように微笑んで。
 葉子も、にまっと笑うと、姫様の頭に狐の尾を乗せた。
 頭領が、留守のうちにだね?
 そう、耳元で囁いた。
「行くの、姫様?」
「本当に?」
「西瓜も?」
 心配と、嬉しさの混じった声が、いくつもあがった。
 姫様は、すっと皆を見回すと、
「ええ。さ、早く準備して下さいね」
 朗らかに、伝えた。
 ――やったぁ!!!
 妖達が台所に走っていく。
 火羅は、赤麗に視線を送ると、
「わたし達も準備しようかな」
 そう言って、自分達の部屋へぺたぺたと歩いていった。
「姫様も泳ぐの?」
 葉子が尋ねた。泳ぎ用の衣はある。
 身体の線が出ないように工夫された衣が。
 以前――ずっとずっと前に沙羅と出会ったときに、使っていたものが。
 今でも、それは着られるはず。
 あの時から、ほとんど体型は変わっていないから。
「……泳ぐわけないでしょう」
 葉子と太郎と黒之助は、姫様の冷ややかな言葉に身を震わせた。



「葉子さんは、九尾の、それも銀の一族に連なる者、なのでしょう?」
 火羅が話しかける。白い小袖姿。
 赤麗も、先ほどと着物が違った。
「まあ、一応ね」
 遠くを見ながら、ぽりぽりと頬を掻いた。
「玉藻様のお知り合いということは、地位のあるお方、なのでしょうね」
 玉藻の愛獣、麒麟が会いたい相手。
 麒麟は、銀狐に甘えていた。
「いやぁ、どうだろう……」
 はぐらかすような、曖昧な返事。
 姫様は、くるくると日傘を舞わした。
 大きな西瓜を七つほど担いだ黒之助が、しっしと荷にまとわりつく妖を追い払った。
 黒烏、じゃんけんに負けたのだ。
「葉美と木助。今の銀の長夫婦には、育ての親がいると聞いたことがあるわ。葉子という、女性の銀狐」
「へぇ、一緒の名前だね」
 声の熱が、少し下がった。
「……そうね」
 答える気はないのねと、火羅は思った。
 それでも、いい。
 思っているとおりなら、この銀狐は九尾の一族の中で、玉藻に次ぐ地位にある。
 はぁ――それを、その辺りの化け狐と思うなんて、わたしも見る目がないわね。
 いえ、違う。この銀狐が変なのよ。
 だって、全く偉くなさそうなんだもの。
 ふふ……使い道が、きっとあるわ。
「姫様」
 小さな声。姫様は、顎を少し上げ、太郎に視線を合わした。
 妖狼の方が、ぐっと大きい。自然、見上げる形になる。
「いいのか、水」
 火羅が、首を傾げた。
「……えっと、近づきませんから」
 川は、嫌いだった。
 湖も海も、嫌いだった。泳げないから。
 風呂は、好き。長風呂は、大好き。
 同じ、水場。それでも……好きと、嫌い。
 考えると、不思議なものだった。
「沙羅の川、だな」
「左の川は……帰りに、二人で寄りましょうか」
「わかった」
 古寺近くの小川は、流れが二つに別れている。
 右と左――そう、呼んでいた。
 右の川には河童が潜み、左の川には蛍が舞っていた。
「足ぐらい浸しても、いいかもしれませんね」
「冷たいから、気持ちいいぞ」
 そう言って、太郎が笑った。
 火羅が、口を尖らせた。



「あ、さ、彩花ちゃーん!」
「沙羅ちゃーん!」
 手を振った。手を振り返した。
 水面にちょこんと顔出す河童がまた、姫様の名前を呼んだ。
「みんなで、水遊びに来たの」
 姫様が、言う。ほらと、黒之助を指差した。
「さ、彩花ちゃんが、水遊び……」
 嬉しい――
 沙羅は……自分が姫様を水嫌いにしたと思い悩んでいた。
 初めての出会いのとき、沙羅は姫様の足を引っ張り、溺れさせてしまった。
 それから、姫様が川に水遊びに来たことはない。
 その、姫様が……
「か、感涙ですぅ」
 地上に姿を現すと、えぐえぐと、甲羅と皿とひれ持つ少女が涙ぐんだ。
 その姿は、紛うことなき河童の姿。
「沙羅ちゃん……」
「……嬉しいです、彩花ちゃんが水遊びに来てくれて」
「え、あ……」
 私は……泳ぐつもりは……
「ほ、本当に、嬉しいです。私、ずっと、気にしてたんですよ」
 ところで……そのお二方は?
 鼻をすすると、きょろきょろする見知らぬ二人の名前を尋ねた。
「赤麗と申します」
「火羅よ」
「……火羅」
「ええ」
「……ぎゃ、ぎゃっぁ!」
 一声挙げると、沙羅は姫様の後ろに隠れた。かくかたと、怯えた表情を見せる。
 皆、面食らう。
 時間が、止まったようであった。
 しばしの時を置いて、
「……失礼な」
 陽炎が立ち上った。
 二本の犬歯が、鋭く伸びていた。
 短気は駄目です――
 そう、赤麗が言うと、火羅は渋々牙爪を納めた。
「だ、だって……火羅って、あの火羅でしょう? 朱桜ちゃんや、咲夜さんを傷つけようとした……」
「そうよ」
 一睨み。
「ひゃ、ひゃあ!」
 かたかたと震える沙羅。
 前に、朱桜から少し誇張された説明を受けた沙羅は、火羅のことを、たいそう恐ろしい人物だと考えていた。
 太郎さんの妹と、朱桜ちゃんの二人を襲った、凶悪な妖。
 あの「酒呑童子」と激闘を繰り広げた真紅の妖。
 朱桜ちゃんの身振り手振り混じりの話から考えるに、大妖に匹敵する妖。
 彩花ちゃんが、珍しく軽い嫌悪感を見せる妖。
 ……最後が、一番、す、凄い気が、します。
 そんな人が……私の目の前に。
 彩花ちゃん……怖いよう。
 涙目で、沙羅はちょこっと縮こまりながら、姫様の肩にしがみついた。