小説置き場2

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あやかし姫~主従(14)~

 虚ろな眼差し。
 陰りのある、横顔。
 一瞥すると、また、視線を戻した。
 あれほど満ち溢れていた力が、遠くに消えていた。
 風鈴が、寂しい泣き声をあげた。
「薬? そこに、置いておいて」
 手を力無く上げ、盆を指さした。
「薬じゃありません」
「じゃあ、何よ。用がないなら、早く出て行って」
 苛立ちのある、小声。
 口を開くと同時に、淡い火が溢れ出す。
 苦しそうな顔をしながら、姫様がしずしずと妖狼の隣に座った。
「……どういう、つもり」
 手の甲に、手の平。
 三人の手が、重なった。
 赤麗の手を握りしめる火羅の手。その上に姫様が手を置いた。
「少し、休んで下さい」
 肩を竦めた。
 聞き飽きた言葉であった。
「言ったでしょう。嫌よ」
 何度も、
 何度も、
 言われた。その度に、嫌と言った。
「もうずっと寝てないんですよ。このままじゃ、火羅さんが」
「……妖はね、ちょっとぐらい寝なくても、平気なのよ」
 姫様の手をはね除け、自分の手を見つめた。
 どれだけ手入れをしていないのだろうと思った。
 欠かしたことなど、なかったのに。
「人とは、違う」
 この場所に、人は、一人しか、いない。
 言って、後悔した。それでも、引き下がれない。
 火羅、だから。
「それでも……限度が、あるはずです」
「うるさい。うるさい、うるさい……貴方、何様のつもりなの」
 力の無い声だと思った。
 少女の瞳。
 本当に、自分の身を案じてくれている、嘘偽りの無い瞳。
 甘えたかった。
 出来なかった。
 眠る赤麗の頬に、手を伸ばした。安らかな、寝顔。
 ただただ、愛おしかった。
「……どうしても、休んでくれませんか?」
「お断りよ」
 ふんと、鼻で嗤う。
 ああ、懐かしいと思った。
 こうして会話を交えるのは、久しぶりであった。
 あれからもう、十日は過ぎただろうか。
 こんこんと、赤麗は、眠っていた。
 ずっと、火羅は、眠らなかった。
 風呂にも、入っていない。着替えも、たまにしかしない。
 部屋に籠もりっきり。
 食事も、とらない。
 離れられなかった。
「……そうですか」
 姫様が、溜息を吐いた。
 ごめんねと、心の中で謝った。
 どちらも、謝った。
 火羅は、姫様の優しさに謝り、姫様は、火羅にこれからすることに謝った。
「では……お薬を全て引き揚げます」
 そう言うと、薬を載せたお盆に手を伸ばした。
「なっ!」
 火羅が、目を見開く。
 少女が何を言ってるのか、何をしようとしているのか、濁った思考ではすぐに理解できなかった。 
「あ」
 部屋を出ようとする姫様の手を、弱々しく引っ張った。
 まだ、目の前の光景を理解できなかった。
「え、ちょっと、ま、待ってよ。ね、ねぇ、嘘でしょう? じょ、冗談よね?」
「いえ――」
 嘘を吐いているとは、思えなかった。
「や、やめてよ。そんなことしたら、」
 さんざんと、頭を振る。
 紅い髪が、振り乱れる。
 すたんと腰を落とし、赤子のように、手を、顔の前で動かした。
「駄目、駄目、」
 痛みに苦しむ赤麗を、もう、見たくなかった。
 今、止められたら……想像を絶する痛みが、赤麗を、襲う。
 そう、赤麗の母が、死を賜るよう、懇願するような痛みが。
「じゃあ、私の言うことを聞いてください」
「聞く、聞くから、何でもするから」
「……休んで、下さい」
「……」
「お風呂が、沸いてます。一度、身体を洗って、それから、新しい着物に身を包んで……そして、眠って下さい。ちょっとでいいんです」
「赤麗は……」
「その間、私達が看ています」
「でも、」
「いいですね。このまま火羅さんが倒れたら……赤麗さんは、悲しみます」
 姫様が、火羅の肩を、押さえた。
「火羅さんは、赤麗さんのことをよく知っているのでしょう。私が言ってること、違いますか?」
 子供をあやすような口ぶりで、姫様が言った。
 身体に、染み込んでくるようであった。
 どうして、姫様と呼ばれているのか、少しわかったような気がした。
 火羅には、姉妹がいない。兄弟も、いない。
 もし、自分に姉がいたら……目の前の少女のようなのだろうか。
 随分と幼い姉だと思った。
「……わかったわ」
 姫様の表情が、喜びに染まった。
「赤麗……ちょっと、行ってくる」
 身を、綺麗に、しよう。
 少し、ほんの少し眠って、
 また、赤麗の顔を、見るんだ。
「……赤麗と一緒に、入りたい」
「……頭領とも話しましたが、やめた方が、よいと」
「そうなの。じゃあ、しょうがないわね」



 背の火傷が、鏡に大映しになる。
 正面を向く。こんな姿になっていたのかと、火羅は驚いた。
 鏡に映る自分は、自分でないようであった。
 火傷だけが、前のまま。
 自慢の紅髪も、鈍い色になっていた。
 浴室。
 蒸気に、満ちていた。戸を開けると、むっと汗ばんだ。 



「はい、着替えです」
「……ああ」
 風呂から上がると、姫様がいた。着物を、手渡された。
 紅い、華。
 夕顔が散りばめられていた。
 受け取り、少し離れてというと、身体を一震いした。
 一瞬で、湯の残りが消えた。   
 それから、渡された着物を、手早く身につけた。
 自分では精一杯早くしたつもりだが、やっぱり一人だと遅いなと思った。
 姫様が、後ろに回る。
 帯。結びが崩れていたのだ。
 締め直してくれた。
「赤麗は?」
「変わりなく。今は、葉子さんが」
「そう……貴方も、あまり眠っていないのね」
「私は、人だから……眠らないと」
 髪を掻き上げる。
 艶が戻っていた。
 化粧は、しない。時間が、惜しい。
「お風呂、良かったわ」
「何か召し上がりますか?」
「……いらない」
 こくりと、頷いた。
 結局、わたしはこの娘が嫌いなのだろうか?
 よくわからないと思った。
 ここに来てから、赤麗を除いて一番長く一緒にいたのは、この娘。
 それは、確かなことであった。



 姫様と火羅が部屋に入ると、代わりに葉子が出て行って。
 赤麗。寝息をたてていた。
 ほっと息を漏らすと、火羅は簾を上げた。
 夏の陽光が、部屋に差し込んだ。
 光を受ける蒼い顔は、微笑を含んだようであった。
「ごめんね。私のこと心配してたのかな……赤麗のことだから、自分のことよりも、心配してたのかな? 私は……やっぱり、駄目だね」
 群生する、青葉の匂いが、風と一緒に部屋に入った。
 猛るような夏の香りに、薄く、甘い匂いが混じっていることに初めて火羅は気がついた。
 その匂いは、部屋の外から漂っていた。
「……色々と、してくれていたのね」
 簾を静かに下ろした。
 もう一度、赤麗の顔に目をやった。
 やはり、満足しているように見えた。
 「よろしく」と言うと、火羅は部屋の柱にもたれ掛かった。
 蝉のけたたましい声。
 気にならなかった。
 風鈴が、涼しい音を奏でる。
 火照った身体には、ちょうど良いと思った。
 風がふわりと吹いた。
 薄く目を開けると、姫様が、団扇で風を送っていた。
 火羅も、赤麗にも、どちらにも。
「別に、私に風を送らなくてもいいわよ」
「寝て下さい」
 ぴしゃりと、言う。
「はいはい」
 熱気。
 ああ、夏だと思った。
「私、料理上手なのよ。きっと、貴方に負けないぐらい」
「そう言っていましたね」
「本当に、本当だからね。貴方も上手だけど……私も、出来るはずよ。た、多分。まだ、したこと、ないけど」
「そうなんですか……」
 初めての機会は、潰えた。
「会いたい……」
 姫様の気配が、感じ取れなくなっていた。
 風は、ゆるやかに肌を撫で続けている。
「会いたいよ……」
 赤麗の気配だけが、感じ取れた。