あやかし姫~琵琶泥棒(5)~
「どうしよう……」
「どうしようってよぉ」
すっと、墨を吸っていない筆を宙にかざす。
ふらふらと動く、筆先を見つめる。
背中の後ろが、動く気配。
「朱桜ちゃん……」
太郎は、白い狼の姿で、伸びを一つした。
お互いに、背中を預け合う形。
妖狼の背中は柔らかくてふわふわで、気持ちがいいものだった。
「あの子もなぁ、そんなにへそを曲げなくてもいいのに。火羅が嫌いっていうのも、知ってるけどよ。そりゃあ、襲われたわけだし」
「……私のせいかな」
「ん?」
「私も、火羅さんのこと……好ましいとは、思っていなかったもの」
「思っていなかった?」
怪訝そうに、太郎は言った。
「そうだね……赤麗さんには、優しかったよ」
「まあ、な」
「だから……嫌いには、もう、なれないよね」
「ふぅん」
「好きにも、なれないけどね」
「ふぅーん」
「……。朱桜ちゃんは……」
妹だと、思っていた。
本当に、妹のようだと。
朱桜は、特別であった。
「葉子の奴、遅いな」
何やってんだあいつ?
「クロさんも遅いね」
どうしたのかな?
筆の動きが、止まった。
「また、文を書いて、来ない返事を待って……嫌だな」
「姫様」
「もう、私のこと嫌いになっちゃったのかな……もう、一緒に歩いてくれないのかな」
「それはないと思うけど……」
遠慮がちに言う。
姫様は、妖狼の言葉に頷かなかった。
「でも……そうするしか、なかったもの」
「姫様ー!」
「……なあに?」
ぽてぽてと走るように転がってきた妖に、姫様が尋ねた。
「えっとね、葉子さんがね、」
「葉子さんが?」
「葉子が?」
「なーんかね、狛犬にね、引っ張られてね、行っちゃった」
「狛犬さんが?」
「狛犬が?」
「うん。狛犬、慌ててた。とってもとっても!」
「何だぁ?」
二人で並び、使いっ走りにされた小妖に向かう。
姫様が、そっと筆を置く。
しばらく、考え、考えて、
「……クロさん、白蝉さんのところに行ったんですよね」
確かめるように、言った。
「出ていくとき、そう言ってたな」
太郎が、のんびりとした口調で答えた。
「狛犬さん……羽矢風の命さまは、白蝉さんと仲いいですよね」
「……いいぞ」
すっと、目が細められた。
「何か、あったのでしょうか」
答えられなかった。
「ちょっと、外に」
「おう」
二人が、腰をあげた。
姫様が目を瞑る。少しの間。
そして、溜息をつきながら目を開けると、
「太郎さんの鼻が頼りですね」
そう、寂しげに言った。
姫様の不思議な力は、火羅が去ってから、ほとんど効かなくなっていた。
「弱いからって甘く見んなよ! にしても管狐、よくやった! よっし、逃げるぞ!」
「おっし!」
琵琶を、抱え直す。
あんな妖、相手にしていたら命がいくつあっても足りない。
それに、争い事は不得手であった。
幻惑、目眩ましが、狐の十八番。管狐という、相棒もいる。
「へへ、この琵琶、貰っていくよ」
ぴんと弦を弾くと、美鏡はその場を去ろうとした。
尾が一筋の、金狐。
歳の若い、化け狐。
美鏡は、最近までやんごとなきお姫様に使えていた。
それなりに大きな社に住む、お稲荷様の一人娘。
それが、美鏡の主であった。妖となり、住むところを探し、流れ着いた場所であった。
暮らしは、悪くなかった。
ほわりと穏やかな性格の主で、務めは楽しいものであった。
その主が、嫁にいくという。
顔も見たことがない、相手の許へ。
そのころから、務めが楽しくなくなった。
また、流れようかと思い始めた。
そして、主に暇を願い出た。
主は、そのことを察していたようであった。
去り際に、飼っていた管狐を美鏡に渡した。
「この子達、美鏡さんに懐いてますし……それに、外の世界を、見せてあげたいんです」
美鏡は、黙って受け取った。
さてどうしようかと歩いているとき、琵琶の音を、聞いた。
心地良い音色であった。
その音を聞いていると……楽しかった頃の、社の生活が、頭に浮かんだ。
琵琶の音は、小さな庵から、聞こえてきた。
近くの茂みに隠れて、その音を聞いていた。
不意に琵琶の音が止み、騒がしくなり、男が二人、女が一人、庵の中から出てきた。
男は妖物で、女は人であった。
琵琶は、女が持っていた。
「欲しいなぁ」
あの、琵琶。
あの音を、ずっと聞いていたいなぁ。きっと、好い気持ちだ。ずっと、酔い心地に浸れそうだ。
「飼われてるのかな? よくわかんないけど」
男の片割れ、あまり変化の上手くない方。
そちらを、じっと凝視して。
「狛犬ねぇ……」
一頭、庵の側に残った。
こちらには、気づいていない。
力が、弱すぎるからね。
「そろそろかな」
茂みから、男が一人、歩み出た。
目の大きな、男であった。
「どうしようってよぉ」
すっと、墨を吸っていない筆を宙にかざす。
ふらふらと動く、筆先を見つめる。
背中の後ろが、動く気配。
「朱桜ちゃん……」
太郎は、白い狼の姿で、伸びを一つした。
お互いに、背中を預け合う形。
妖狼の背中は柔らかくてふわふわで、気持ちがいいものだった。
「あの子もなぁ、そんなにへそを曲げなくてもいいのに。火羅が嫌いっていうのも、知ってるけどよ。そりゃあ、襲われたわけだし」
「……私のせいかな」
「ん?」
「私も、火羅さんのこと……好ましいとは、思っていなかったもの」
「思っていなかった?」
怪訝そうに、太郎は言った。
「そうだね……赤麗さんには、優しかったよ」
「まあ、な」
「だから……嫌いには、もう、なれないよね」
「ふぅん」
「好きにも、なれないけどね」
「ふぅーん」
「……。朱桜ちゃんは……」
妹だと、思っていた。
本当に、妹のようだと。
朱桜は、特別であった。
「葉子の奴、遅いな」
何やってんだあいつ?
「クロさんも遅いね」
どうしたのかな?
筆の動きが、止まった。
「また、文を書いて、来ない返事を待って……嫌だな」
「姫様」
「もう、私のこと嫌いになっちゃったのかな……もう、一緒に歩いてくれないのかな」
「それはないと思うけど……」
遠慮がちに言う。
姫様は、妖狼の言葉に頷かなかった。
「でも……そうするしか、なかったもの」
「姫様ー!」
「……なあに?」
ぽてぽてと走るように転がってきた妖に、姫様が尋ねた。
「えっとね、葉子さんがね、」
「葉子さんが?」
「葉子が?」
「なーんかね、狛犬にね、引っ張られてね、行っちゃった」
「狛犬さんが?」
「狛犬が?」
「うん。狛犬、慌ててた。とってもとっても!」
「何だぁ?」
二人で並び、使いっ走りにされた小妖に向かう。
姫様が、そっと筆を置く。
しばらく、考え、考えて、
「……クロさん、白蝉さんのところに行ったんですよね」
確かめるように、言った。
「出ていくとき、そう言ってたな」
太郎が、のんびりとした口調で答えた。
「狛犬さん……羽矢風の命さまは、白蝉さんと仲いいですよね」
「……いいぞ」
すっと、目が細められた。
「何か、あったのでしょうか」
答えられなかった。
「ちょっと、外に」
「おう」
二人が、腰をあげた。
姫様が目を瞑る。少しの間。
そして、溜息をつきながら目を開けると、
「太郎さんの鼻が頼りですね」
そう、寂しげに言った。
姫様の不思議な力は、火羅が去ってから、ほとんど効かなくなっていた。
「弱いからって甘く見んなよ! にしても管狐、よくやった! よっし、逃げるぞ!」
「おっし!」
琵琶を、抱え直す。
あんな妖、相手にしていたら命がいくつあっても足りない。
それに、争い事は不得手であった。
幻惑、目眩ましが、狐の十八番。管狐という、相棒もいる。
「へへ、この琵琶、貰っていくよ」
ぴんと弦を弾くと、美鏡はその場を去ろうとした。
尾が一筋の、金狐。
歳の若い、化け狐。
美鏡は、最近までやんごとなきお姫様に使えていた。
それなりに大きな社に住む、お稲荷様の一人娘。
それが、美鏡の主であった。妖となり、住むところを探し、流れ着いた場所であった。
暮らしは、悪くなかった。
ほわりと穏やかな性格の主で、務めは楽しいものであった。
その主が、嫁にいくという。
顔も見たことがない、相手の許へ。
そのころから、務めが楽しくなくなった。
また、流れようかと思い始めた。
そして、主に暇を願い出た。
主は、そのことを察していたようであった。
去り際に、飼っていた管狐を美鏡に渡した。
「この子達、美鏡さんに懐いてますし……それに、外の世界を、見せてあげたいんです」
美鏡は、黙って受け取った。
さてどうしようかと歩いているとき、琵琶の音を、聞いた。
心地良い音色であった。
その音を聞いていると……楽しかった頃の、社の生活が、頭に浮かんだ。
琵琶の音は、小さな庵から、聞こえてきた。
近くの茂みに隠れて、その音を聞いていた。
不意に琵琶の音が止み、騒がしくなり、男が二人、女が一人、庵の中から出てきた。
男は妖物で、女は人であった。
琵琶は、女が持っていた。
「欲しいなぁ」
あの、琵琶。
あの音を、ずっと聞いていたいなぁ。きっと、好い気持ちだ。ずっと、酔い心地に浸れそうだ。
「飼われてるのかな? よくわかんないけど」
男の片割れ、あまり変化の上手くない方。
そちらを、じっと凝視して。
「狛犬ねぇ……」
一頭、庵の側に残った。
こちらには、気づいていない。
力が、弱すぎるからね。
「そろそろかな」
茂みから、男が一人、歩み出た。
目の大きな、男であった。