小説置き場2

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あやかし姫~琵琶泥棒(5)~

「どうしよう……」
「どうしようってよぉ」
 すっと、墨を吸っていない筆を宙にかざす。
 ふらふらと動く、筆先を見つめる。
 背中の後ろが、動く気配。
「朱桜ちゃん……」
 太郎は、白い狼の姿で、伸びを一つした。
 お互いに、背中を預け合う形。
 妖狼の背中は柔らかくてふわふわで、気持ちがいいものだった。
「あの子もなぁ、そんなにへそを曲げなくてもいいのに。火羅が嫌いっていうのも、知ってるけどよ。そりゃあ、襲われたわけだし」
「……私のせいかな」
「ん?」
「私も、火羅さんのこと……好ましいとは、思っていなかったもの」
「思っていなかった?」
 怪訝そうに、太郎は言った。
「そうだね……赤麗さんには、優しかったよ」
「まあ、な」
「だから……嫌いには、もう、なれないよね」
「ふぅん」
「好きにも、なれないけどね」
「ふぅーん」
「……。朱桜ちゃんは……」
 妹だと、思っていた。
 本当に、妹のようだと。
 朱桜は、特別であった。
「葉子の奴、遅いな」
 何やってんだあいつ?
「クロさんも遅いね」
 どうしたのかな?
 筆の動きが、止まった。
「また、文を書いて、来ない返事を待って……嫌だな」
「姫様」
「もう、私のこと嫌いになっちゃったのかな……もう、一緒に歩いてくれないのかな」
「それはないと思うけど……」
 遠慮がちに言う。
 姫様は、妖狼の言葉に頷かなかった。
「でも……そうするしか、なかったもの」
「姫様ー!」
「……なあに?」
 ぽてぽてと走るように転がってきた妖に、姫様が尋ねた。
「えっとね、葉子さんがね、」
「葉子さんが?」
「葉子が?」
「なーんかね、狛犬にね、引っ張られてね、行っちゃった」
狛犬さんが?」
狛犬が?」
「うん。狛犬、慌ててた。とってもとっても!」
「何だぁ?」
 二人で並び、使いっ走りにされた小妖に向かう。
 姫様が、そっと筆を置く。
 しばらく、考え、考えて、
「……クロさん、白蝉さんのところに行ったんですよね」
 確かめるように、言った。
「出ていくとき、そう言ってたな」
 太郎が、のんびりとした口調で答えた。
狛犬さん……羽矢風の命さまは、白蝉さんと仲いいですよね」
「……いいぞ」
 すっと、目が細められた。
「何か、あったのでしょうか」
 答えられなかった。
「ちょっと、外に」
「おう」
 二人が、腰をあげた。
 姫様が目を瞑る。少しの間。
 そして、溜息をつきながら目を開けると、
「太郎さんの鼻が頼りですね」
 そう、寂しげに言った。
 姫様の不思議な力は、火羅が去ってから、ほとんど効かなくなっていた。 



「弱いからって甘く見んなよ! にしても管狐、よくやった! よっし、逃げるぞ!」
「おっし!」
 琵琶を、抱え直す。
 あんな妖、相手にしていたら命がいくつあっても足りない。
 それに、争い事は不得手であった。
 幻惑、目眩ましが、狐の十八番。管狐という、相棒もいる。
「へへ、この琵琶、貰っていくよ」
 ぴんと弦を弾くと、美鏡はその場を去ろうとした。
 


 尾が一筋の、金狐。
 歳の若い、化け狐。
 美鏡は、最近までやんごとなきお姫様に使えていた。
 それなりに大きな社に住む、お稲荷様の一人娘。
 それが、美鏡の主であった。妖となり、住むところを探し、流れ着いた場所であった。
 暮らしは、悪くなかった。
 ほわりと穏やかな性格の主で、務めは楽しいものであった。
 その主が、嫁にいくという。
 顔も見たことがない、相手の許へ。
 そのころから、務めが楽しくなくなった。
 また、流れようかと思い始めた。
 そして、主に暇を願い出た。
 主は、そのことを察していたようであった。
 去り際に、飼っていた管狐を美鏡に渡した。
「この子達、美鏡さんに懐いてますし……それに、外の世界を、見せてあげたいんです」
 美鏡は、黙って受け取った。
 さてどうしようかと歩いているとき、琵琶の音を、聞いた。
 心地良い音色であった。
 その音を聞いていると……楽しかった頃の、社の生活が、頭に浮かんだ。
 琵琶の音は、小さな庵から、聞こえてきた。
 近くの茂みに隠れて、その音を聞いていた。
 不意に琵琶の音が止み、騒がしくなり、男が二人、女が一人、庵の中から出てきた。
 男は妖物で、女は人であった。
 琵琶は、女が持っていた。
「欲しいなぁ」
 あの、琵琶。
 あの音を、ずっと聞いていたいなぁ。きっと、好い気持ちだ。ずっと、酔い心地に浸れそうだ。
「飼われてるのかな? よくわかんないけど」
 男の片割れ、あまり変化の上手くない方。
 そちらを、じっと凝視して。
狛犬ねぇ……」
 一頭、庵の側に残った。
 こちらには、気づいていない。
 力が、弱すぎるからね。
「そろそろかな」
 茂みから、男が一人、歩み出た。
 目の大きな、男であった。