あやかし姫~琵琶泥棒(8)~
微笑を浮かべると、赤犬の石造りの頭の上に、とんと小さな男の子は飛び乗った。
嬉しそうに、猫じゃらしを動かしながら。
夕日色に染まる、古寺の面々。
琵琶泥棒と、土地神、守妖。
そして――
琵琶を持った黒之丞と、固まっている白蝉。
鮮やかな茜色であった。
山々に沈んでいく。
星が一つ、空に瞬き始めていた。
「……白蝉さん」
はっと我に返ると、姫様が白蝉の袖を引っ張った。
白蝉は、身体を後ろに傾けたまま、固まっていた。
胸が、緩やかに上下している。
姫様は、頬を染めたまま、白蝉の袖をもう一度引っ張った。
「あ、はい。琵琶なら、いつでもお教え出来ます、はい。それで、いつから? 今日から?」
「……息を吸って下さい」
言われたとおりに、大きく、息を吸った。
「はい、吐いてー」
そして、吐いた。
にこりと、する。
「怒っても、嫌っても、いないようですよ」
「……はぁ」
「琵琶……」
寂しそうに、黒之丞が呟いた。
「取り返した。変わりはないと思うが、一応確かめてくれ」
「はい、はいはい!」
ぱたぱたと駆け寄ると、琵琶を手に取り、弦を弾く。
ほろんと、空に、音が消えた。
慌ただしい、音色であった。
「か、変わりないです」
惚けたような白蝉の顔を、大きな瞳に収めたまま、
「何かあったのか」
そう、口にした。
照れ隠しだと、白蝉は思った。
ほんの短い間であったが、一緒に暮らし、ちょっとした声色の変化で、黒之丞の様子を知ることが出来るようになっていた。
照れている――そう思うと、不思議と落ち着いた。
「照れていますか」
「さぁて――」
うっとりとした眼差しを二人に向けると、姫様は葉子の手に触れた。
にんましと笑むと、手を繋ぎ、背を向けて。
後を、ぽてぽてと太郎が追った。
「こやつは、こちらで受け持つぞ」
黒之助が、下を向いたまま言う。
「そうしてくれ」
白蝉から目を離さず、黒之丞は答えた。
「帰るか――」
「は、はい」
黒之丞の頬に、自然と手をかけた。
滑らかで、玉のような肌になっていた。
その動作を、蜘蛛は受け止める。
二人の顔が近づく。
白蝉から、であった。
触れる、触れない、触れる、触れない――触れた。
狛犬が、主の目を塞いだ。
「ほれ、起きろ」
金狐の頬を叩く。
「あ、あううう……」
痛い。
「いいなぁ、いいなぁ」
「嬉しそうだな」
「うん」
もじもじと、姫様が、太郎に言った。
「ここは……頬が、痛い」
金狐が、目を覚ます。右頬がひりひりする。赤く、腫れ上がっていた。
あちゃあ、強く叩きすぎたと、銀狐が額を打った。
「えっと、あんた名前は?」
「い、生きてる。胸に、穴空いてない」
懐を探る。
両手を上げて喜び、管狐と喜び、それから葉子の方を見やり、
「誰、おばさん」
そう、言った。
「お、おばさん……」
「よ、葉子さん」
九尾を、全開にさせる。部屋を覆い尽くし煌めく、銀色。
目を大きくする美鏡に、大きく息を吹きかけた。
「九尾!?」
「さあて、おばさんに名前を教えてもらおうか」
「は、はい、美鏡と」
「ああ、良い名前だよねぇ」
狐火が、ぽつ、ぽつと、銀狐の尾に宿る。
「いじわるしないの」
「……だって姫様……おばさんって……」
「お母さん」
「はーい」
人の姿に戻る。
部屋が、静けさを取り戻す。
「あの、美鏡さん」
「人? も、もう、やだ!」
目を、据える。
手をかざすと、頭のてっぺんに思いっきし打ち据えた。
それから――
「痛い」
姫様はそう、漏らした。
妖の頭は、総じて石頭であり、姫様はどちらかというと非力であって。
「……痛い。美鏡さん、どうして、こんなことをしたんですか?」
太郎が、後ろ足で頭を掻く。人の姿でも、そのぐらいなら出来る。
頭領は、好きにせよとだけ、言った。
黒之助は、「手紙書く」と、にこにこしながら自室に行ってしまった。
妖達も、そんなにことの成り行きに興味はなさそうで。
庭に、ぽつぽつと転がっているだけであった。
「び、琵琶?」
「それ以外に、何かあんのかい!」
「ひゃ、ひゃあ!?」
睨み付ける銀狐に、手刀を撃ち込む姫様。
くぅぅと、悔しそうに銀狐は声にならない声を出した。
「ない、ないない! 琵琶、琵琶盗もうとしただけ! ご、ごめんなさい!」
両手をついて謝る。
冷や汗、たらり。
そうと、姫様は冷ややかに見つめた。
ぞくりと、金狐の背を、冷たい風が通った。撫でられた。そう、思った。
「どうして、そんなことを」
「あの琵琶……」
「琵琶が?」
「良い音だったから……すっごく良い音で。聞いてると、昔を思い出しちまって」
欲しくなってしまった。
湧き上がった衝動を、押さえられなかった。
「それで、琵琶だけ盗んだっての? あーた、頭悪いんじゃない?」
「だ、だって!」
大切な思い出を、馬鹿にされている。
そんな気がして、美鏡は歯を剥いた。
銀狐は、ははんと鼻で嗤うと、
「あのねぇ、その音色は白蝉があの琵琶を弾くことによって生まれるんでしょ。あんたが琵琶だけ持ってても、しょうがないでしょうが。そりゃあ、あんたが白蝉に負けない名人ってなら、知らないけど」
至極もっともなことを口にした。
考える。
「……そうですね」
同意した。
琵琶……触ったこともない。
主が弾いているのを、見たことはあるが。
それだけだ。
「そりゃ、そうだ」
はははと、乾いた笑い声を上げた。
鼻をすすり上げながら。
「あれ……あたいは何を……」
思い出す。
琵琶の音が、自分の身体に染み渡ったときのことを。
思い浮かんだのは、楽しかった社の生活。
主達と一緒に過ごした日々。
自分は――
「離れたくなかったんだ」
それから、えぐえぐと嗚咽を零す。
ひとしきり泣いて、啼いて。
「帰りたい」
そう、美鏡は言った。
嬉しそうに、猫じゃらしを動かしながら。
夕日色に染まる、古寺の面々。
琵琶泥棒と、土地神、守妖。
そして――
琵琶を持った黒之丞と、固まっている白蝉。
鮮やかな茜色であった。
山々に沈んでいく。
星が一つ、空に瞬き始めていた。
「……白蝉さん」
はっと我に返ると、姫様が白蝉の袖を引っ張った。
白蝉は、身体を後ろに傾けたまま、固まっていた。
胸が、緩やかに上下している。
姫様は、頬を染めたまま、白蝉の袖をもう一度引っ張った。
「あ、はい。琵琶なら、いつでもお教え出来ます、はい。それで、いつから? 今日から?」
「……息を吸って下さい」
言われたとおりに、大きく、息を吸った。
「はい、吐いてー」
そして、吐いた。
にこりと、する。
「怒っても、嫌っても、いないようですよ」
「……はぁ」
「琵琶……」
寂しそうに、黒之丞が呟いた。
「取り返した。変わりはないと思うが、一応確かめてくれ」
「はい、はいはい!」
ぱたぱたと駆け寄ると、琵琶を手に取り、弦を弾く。
ほろんと、空に、音が消えた。
慌ただしい、音色であった。
「か、変わりないです」
惚けたような白蝉の顔を、大きな瞳に収めたまま、
「何かあったのか」
そう、口にした。
照れ隠しだと、白蝉は思った。
ほんの短い間であったが、一緒に暮らし、ちょっとした声色の変化で、黒之丞の様子を知ることが出来るようになっていた。
照れている――そう思うと、不思議と落ち着いた。
「照れていますか」
「さぁて――」
うっとりとした眼差しを二人に向けると、姫様は葉子の手に触れた。
にんましと笑むと、手を繋ぎ、背を向けて。
後を、ぽてぽてと太郎が追った。
「こやつは、こちらで受け持つぞ」
黒之助が、下を向いたまま言う。
「そうしてくれ」
白蝉から目を離さず、黒之丞は答えた。
「帰るか――」
「は、はい」
黒之丞の頬に、自然と手をかけた。
滑らかで、玉のような肌になっていた。
その動作を、蜘蛛は受け止める。
二人の顔が近づく。
白蝉から、であった。
触れる、触れない、触れる、触れない――触れた。
狛犬が、主の目を塞いだ。
「ほれ、起きろ」
金狐の頬を叩く。
「あ、あううう……」
痛い。
「いいなぁ、いいなぁ」
「嬉しそうだな」
「うん」
もじもじと、姫様が、太郎に言った。
「ここは……頬が、痛い」
金狐が、目を覚ます。右頬がひりひりする。赤く、腫れ上がっていた。
あちゃあ、強く叩きすぎたと、銀狐が額を打った。
「えっと、あんた名前は?」
「い、生きてる。胸に、穴空いてない」
懐を探る。
両手を上げて喜び、管狐と喜び、それから葉子の方を見やり、
「誰、おばさん」
そう、言った。
「お、おばさん……」
「よ、葉子さん」
九尾を、全開にさせる。部屋を覆い尽くし煌めく、銀色。
目を大きくする美鏡に、大きく息を吹きかけた。
「九尾!?」
「さあて、おばさんに名前を教えてもらおうか」
「は、はい、美鏡と」
「ああ、良い名前だよねぇ」
狐火が、ぽつ、ぽつと、銀狐の尾に宿る。
「いじわるしないの」
「……だって姫様……おばさんって……」
「お母さん」
「はーい」
人の姿に戻る。
部屋が、静けさを取り戻す。
「あの、美鏡さん」
「人? も、もう、やだ!」
目を、据える。
手をかざすと、頭のてっぺんに思いっきし打ち据えた。
それから――
「痛い」
姫様はそう、漏らした。
妖の頭は、総じて石頭であり、姫様はどちらかというと非力であって。
「……痛い。美鏡さん、どうして、こんなことをしたんですか?」
太郎が、後ろ足で頭を掻く。人の姿でも、そのぐらいなら出来る。
頭領は、好きにせよとだけ、言った。
黒之助は、「手紙書く」と、にこにこしながら自室に行ってしまった。
妖達も、そんなにことの成り行きに興味はなさそうで。
庭に、ぽつぽつと転がっているだけであった。
「び、琵琶?」
「それ以外に、何かあんのかい!」
「ひゃ、ひゃあ!?」
睨み付ける銀狐に、手刀を撃ち込む姫様。
くぅぅと、悔しそうに銀狐は声にならない声を出した。
「ない、ないない! 琵琶、琵琶盗もうとしただけ! ご、ごめんなさい!」
両手をついて謝る。
冷や汗、たらり。
そうと、姫様は冷ややかに見つめた。
ぞくりと、金狐の背を、冷たい風が通った。撫でられた。そう、思った。
「どうして、そんなことを」
「あの琵琶……」
「琵琶が?」
「良い音だったから……すっごく良い音で。聞いてると、昔を思い出しちまって」
欲しくなってしまった。
湧き上がった衝動を、押さえられなかった。
「それで、琵琶だけ盗んだっての? あーた、頭悪いんじゃない?」
「だ、だって!」
大切な思い出を、馬鹿にされている。
そんな気がして、美鏡は歯を剥いた。
銀狐は、ははんと鼻で嗤うと、
「あのねぇ、その音色は白蝉があの琵琶を弾くことによって生まれるんでしょ。あんたが琵琶だけ持ってても、しょうがないでしょうが。そりゃあ、あんたが白蝉に負けない名人ってなら、知らないけど」
至極もっともなことを口にした。
考える。
「……そうですね」
同意した。
琵琶……触ったこともない。
主が弾いているのを、見たことはあるが。
それだけだ。
「そりゃ、そうだ」
はははと、乾いた笑い声を上げた。
鼻をすすり上げながら。
「あれ……あたいは何を……」
思い出す。
琵琶の音が、自分の身体に染み渡ったときのことを。
思い浮かんだのは、楽しかった社の生活。
主達と一緒に過ごした日々。
自分は――
「離れたくなかったんだ」
それから、えぐえぐと嗚咽を零す。
ひとしきり泣いて、啼いて。
「帰りたい」
そう、美鏡は言った。