小説置き場2

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あやかし姫~彼岸の月(6)~

 ざぶんと音がした。
 水面が波立つ。
 泡、ぷくぷく。
「ねえ」
 姫様は答えない。
「ねえねえ」
 姫様は、やっぱり答えなかった。
 親指を唇につけ、かちりと爪を噛んでいる。
 機嫌の悪いときの癖。姫様、かんっぜんにへそを曲げていた。
「ふーん」
 また、波打つ。 
 後ろ。すぐ、後ろ。首筋に、吐息がかかる。
 少し、鼓動が早くなった。
 唇から手を離す。
 また、鼓動が早くなった。
『ぷに』
「ふえ?」
 思わず口に出る、間抜けな声。頬をつつかれた。
 首を曲げる。
 いない。火羅は、そこにいなかった。
「うぅん?」
「ぷはぁ!」
 どーんと飛び出る。
 ぶるぶると赤髪を振るう火羅。
 どうやら、つついてすぐにお風呂に潜っていたようで。
「どう!? どう!? びっくりした!?」
 にこにこと、尋ねた。
「いえ」
 落ち着いた眼差しを向けながら、そう答える。
 答えながら、こっそり、右の手の平に書いた字を消しておいた。
「……びっくりしなさい」
「そう言われても……」
 ああ、また逆らうと火羅は思った。
 この娘は、いつも私に逆らう――あ、いつもじゃないか。
「……柔らかいわね」
 頬を、もう一度つついた。
「はぁ」
「もち肌ね」
 うにょーんとほっぺたを伸ばしてみた。
「ふぁあ。ひぃりゃしゃんも」
 うにょーん。
 うにょーん、うにょーん。
「あひゃいちゃち、にゃにやってるんだろう」
「しゃあ」
 お互い、手を離す。
 頬がじんじんする。
 赤み。
 すぐに、引いていった。
「綺麗な顔……」
 火羅が、ゆったりとした動作で、姫様の頬を撫でやった。
「私の次ぐらいに」
 むぅ、火羅さんらしい。
 あれ、でもこれって葉子さんよりもってこと?
 よ、喜んでいいのかな……。
「嬉しそうね。ああ、ちなみにこの世には、私の綺麗な顔と私の次に綺麗な顔しかないから」
「……」
 火羅さんらしいよね、ほんと。
「太郎様とはさぁ、どうなの?」
「ど、どうなのって、どういう?」
「太郎様とは、どこまで?」
「……ど、どこまで、とは?」
「そうね……夜、皆が寝静まった頃に二人っきりでお話ししながら太郎様の大きな背にもたれかかる、よりも、進んだの?」
 にっこりと、火羅は言った。
 息が止まる。冷や汗が、たらりと垂れた。
「進んでなさそうね」
「く、う、うう……」
「いいわよね、愛されていて」
「ごほ! ごほごほ……」
 咳きながら、手をもじもじとさせた。
「今日も、心配そうに貴方のこと見てたわよ」
「そ、そうかな……」
「嘘。私を見てた」
「!」
「それも、嘘」
「!!」
「貴方、面白いわね」
「!!!」
「そうだ、今度太郎様に夜這いでもかけてみようか」
「……夜這い」
「うん、夜這い」
「夜這い……」

『太郎様……』
 潤んだ瞳を向ける。
『お前……』
『ずっと、ずっとずっとお慕いしておりました』
『でも、俺は』
 太郎の唇に指をつけ、火羅はその名を遮った。
『……今は、あの娘のことは忘れて下さい。今は、私だけを見て下さい』
 衣の滑る音――
 そして、その夜、二つの影が重なった。

 くらりと、した。
 くらんくらんと、姫様は真っ赤な顔を揺らした。
「だ、大丈夫!?」
「……大丈夫です……」
「大丈夫そうには見えないけど……」
「大丈夫ですよぉー。うはーい」
「想像したの?」
「ま、まさかぁー」
「まさかねぇ、想像したぐらいで」
 くらりと、した。
 今度は、くらんくらんと火羅が頭を揺らした。
 獣の耳が、ひょこりと生えた。
「やだなぁ、もう」
「やだなー」



「のぼせた……」
「団扇、要ります?」
「要るわ」
 お風呂上がり。
 二人とも、単衣。白と赤。
 今回、火羅はきちんと着替えを持ってきていた。
「貴方はのぼせてないのね。私より長く入ってたのに」
 火羅が、ふらふらしながら出ていって。
 その後に、しずしずとお風呂から上がって。
「いつもあのぐらいですよ」
 姫様、長風呂。
「そうなんだ……」
 少し呆れたような顔つきになった。
 ぱたぱたと、風を送る。秋の夜風と相まって、火照った身体には心地良かった。
 大の字になっている火羅。
 姫様が一度、欠伸をついた。
「そうだ、今日はどこで寝ますか?」
「……あの部屋以外なら、どこでも」
「私の部屋で、いい?」
「しょうがないわね」
 


 銀狐ではなく真紅の妖狼。
 暗い天井に、姫様は目をやっていた。
 時折、ちかっ、ちかっ、とお風呂場と同じ光が奔った。
「眠れないんですか?」
「貴方こそ」
 すぐに応えが帰ってくる。
 姫様は、火羅の方に顔を向けた。
 火羅は、こちらを見ていた。
「太郎さんの裸」
「……」
 きゃーきゃー駄目ーと姫様は手を振った。
「いつも見てるでしょ」
 白い、小さな狼。
 服、着てない。
「……う」
「田舎の姫様は何を想像したのかしら?」
 ごっつんという、大きな音がした。
 いっつう――と鼻を押さえる。
 満足そうに、姫様は嗤った。
 くつくつと、音無く嗤った。
 表情を堅くすると、火羅は寝具から手をだした。
 姫様が、嗤いを止めた。
 手は伸びて、ふんわりと頭を撫でた。
「いいわね、こういうの」
「痛いのが?」
「違う」
 ぺちんと、おでこに手刀。
 いったぁ――
「お返し」
「先に変なこと言ったのは火羅さんですよ」
「また、逆らう」
「逆らうって」
 本当のことなのに。
「いないのよ、もう、里にはそういう相手」
「火羅さん?」
「つまらないものね。私に従う者はいても、貴方と違って、私を慕う者は一人もいない。一生懸命やってきたのにね。どうして、今になってそのことに気づくんだろうと思った。多分、あの子のせい。あの子だけは、私を慕ってくれていた」
 病を帯びた赤髪の少女――
「どうしていなくなっちゃったんだろう。駄目な従者だわ。本当に、駄目な娘だったわ」
 でも……大好きだったよ。
「泣いてるんですか?」
「さあね……貴方も、すぐにいなくなるのね。人、だもんね。せいぜい、長生きしなさい。お婆ちゃんになった貴方を、私は嘲ってあげるから」
 だから、それまで、健やかに生きなさい。
「火羅さんは……いい人ですね」
「何言いだすの」
「怒ると、我を忘れちゃいますが」
「反省してます」
「私も同じですけどね」
「赤麗はさぁ……最後にね、おかしなこと言ったのよ」
「おかしなこと?」
「私と貴方が友人なんだって。ね、おかしいでしょ」

 『ねぇ、私達、友達なのかな?』

「別に……おかしくは、ないですよ」
「あら、そう? じゃあ、おかしくないのね」
 火羅が、天井に目をやった。
 姫様も、天井に目をやった。
「明日、どうするの?」
「塩大福、食べに行きますか」
「それ、いいわね」
 そこで、会話は途切れた。



 今、みんな何してるかなぁ。
 太郎さん、咲夜ちゃんやお母さん、お父さんと上手くいってるかな。
 お母さんお父さん……。
 違う違う、太郎さんのご両親。
 朝ご飯、どうしようかな。
 朝ご飯だから、朝考えよう。だって朝ご飯だしー、朝ご飯だもんねー。
 こそり――
 姫様は眉を潜めた。せっかく、いい感じに眠れそうだったのにと。
 顔の向きを変える。
 さらに、眉を潜める。
 火羅は、こちらに顔を向け、じりっと近づきつつあった。
「ねえ」
「何?」
「起こした?」
「うん」
「ごめんね。ちょっと寒いの。寒いから、そっちに行ってもいい?」
「は?」
 火羅の言葉の意味がわからなかった。
「寒いから、そっちに行くね」
「はぁ」
 何の冗談だろうと思った。
 齢うん百年の妖が、そんな子供じみたことを――
 本当に入ってきた。
 布団の中が狭くなる。
 朱桜ちゃんと一つの布団で寝ることがあるにはあるけれど。もう、葉子さんともそんなことしない。
「ちょ、ちょっと火羅さん」
「腕枕ー」
 とんと姫様の腕をとると、そこに頭をちょこんとのせた。
「おやすみ」
 身体を少し丸めると、妖狼の姫君は寝息をたて始めた。
 あんまり穏やかな寝顔だったので――苦笑いして、姫様も寝息をたてるしかなかった。