あやかし姫~狐の華~
華が、咲いていた。
茶けた枯れ葉や黄しんだ落ち葉の中、一輪の華が朧に咲いていた。
ぼんやりとした華。輪郭も幽な華。
「綺麗……」
うっとりと溜息を零す女が一人。
銀の獣耳と銀の獣尾を生やす、二十五・六の女であった。
「綺麗さね……」
古寺の妖、九尾の銀狐、葉子。
右手を顔に当て、頬杖の形。惚けたように、花を見つめていた。
「欲しい……」
そう、漏らした。
「あの花が、欲しい……」
大切な姫君に、あの花をあげたい。
きっと、よく似合う。髪飾りにしてもいい、巾着飾りにしてもいい。
帯に差しても、ただ手に持っているだけでもいい。
姫様には、何でも似合う。でも、でも、この花は……
「うーあ」
銀狐が、言った。
「うーあ?」
少女が、言った。
「うーあ」
「うーあ」
「う?」
そこで、少女はくすくすと微笑んだ。銀狐は小首を傾げると、よいしょと身体を起こした。
「朝?」
「朝です」
「そっか、朝か」
朝です寒いですと、姫様は布団の中で言った。
顔だけをひょっこり出している。
「朝ね……あれは、夢?」
夢だったのか。
「夢? どんな夢を見たんですか?」
「……内緒」
「もう」
もぞもぞと寝具に潜り込む姫様を見ながら、銀狐は花のことを考えていた。
見覚えのある場所に、あの花は咲いていた。
多分、羽矢風の命の森――
白蝉と化け蜘蛛の庵のある森――
琵琶を習いに行く途中で見かけたのか。しかし、そんな覚えは……
あれだけの華、見かければ何かしらしそうなものだけど。
「……起きよっか」
「……や」
「起きるの」
布団を引っ張り剥がす。抵抗はするが、非力な姫様。妖である葉子に勝てるはずもなく。
小さく丸まる少女が露わに。
うーっと身体をさらに小さくすると、ごろっと転がり、葉子の背にまわり、銀色の尾を身体に巻き付かせた。
「暖かい」
姫様と葉子が同じ表情を浮かべる。
二本さらに尾を生やすと、くねりと姫様に巻き付けた。
よいしょと身体を起こす。
ふわふわの、ぬくぬくの毛に包まれ、姫様は満足げであった。
「おはようございます」
「おはようさね」
どこだっけなあ。
どこにあるんだろう。
欲しいなぁ。
あれで、この子を飾ってあげたいな。
「葉子さん」
「ん?」
「何か、気になることがあるのですか?」
琵琶を弾く撥を止める。
銀狐は、白蝉の顔を不思議そうにじっと見やった。
「音がぶれています」
「音が?」
「そうです。音が乱れてるんです」
「んー」
集中してると思ったんだけどねぇ。
自分の琵琶を撫でる。
白蝉の庵、琵琶を習いに。
黒之丞は出かけていた。
お師匠様の耳には、嘘付けないか。
「ちょいと捜し物してて」
「捜し物?」
「そ、捜し物」
ここへの道行き、ちょこちょこ探して。
見つからなかった。それらしき場所は幾つもあれど、そこにあの花の姿はなかった。
「捜し物、ちょっと厄介なものなんだよね」
「黒之丞さんに頼んでみましょうか? この森のことは、羽矢風さんよりもよく知っていますよ」
あの男が、あの花を見つける。
そのまま白蝉にあげそうだった。いや、間違いなくそうするはずだ。
それは、困る。
「いや、いい、いい。大したもんじゃないし」
ひらひらと手を振る。
そうですかと言い、白蝉は続けましょうかと琵琶を鳴らした。
どこにあるんだろう、あの花。
また、夢に見た。夢に見続ける花は、少しずつ、鮮明になっている。
七つの花びらに豊潤な色を載せている、小さな花である。
これで、五日目だ。五日、花の夢を見た。
夢を見る度、想いが募る。
欲しい。
ただただ、欲しい。
疲れが身に宿る。想い焦がれ、憔悴して。
頭領も太郎も黒之助も、自分を心配し始めていた。
何でもないと言う。
花を、渡すわけにはいかなかった。
姫様の眼差しが、一番辛い。
日中、古寺を離れる。
森に入り、せっせと探す。
くまなく探しているはずなのに、花は姿を見せなかった。
どこかにあるはずなのだ。見ているのだ。
でなければ、夢の花が濃くなっていくはずがないのだ。
「どこさねぇ」
肩を落とす。銀狐は、落ち葉の原に座り込んだ。
この景色。一面の落ち葉。似ている。
が、違う。肝心のものがない。
「ないのかな」
いいや、あるはずなのだ。
見落としているのだ。
日が陰り始めた。寒空に、黒い雲が現れている。
木枯らしが身に滲みる。
葉を散らした木々が、ざわざわと音を立てた。
「欲しいんだって」
姫様の喜ぶ姿を思い浮かべ、よろよろと銀狐は歩み始める。
歩み、掻き分け、花を探す。
憑かれた瞳を輝かせる女は、いつしか小雨に包まれていた。
しとしと降る雨が、じんわりと躯を濡らしていく。
「見つからない……」
冷たい水が、女の頬を伝う。
銀狐は天を見やり、花と呟いた。
「葉子さん」
声が、した。
「姫様」
傘をさした姫様が、心配そうに葉子を見つめていた。
「こんなに雨に濡れて」
傘を差し出される。雨が、触れる手を止める。
銀狐は、ぬらりと輝く瞳を姫様に向けた。
「どうしてここに来たの?」
思いがけない言葉に、姫様の顔が強張った。
見開いた瞳に映る葉子の顔は、酷く冷たいものであった。
「その、葉子さんが、雨、困るかなって……」
「あたいは妖だ。濡れても、関係ないさね」
「それは、そうかもしれませんが……でも、冷たいですよ」
「関係ないさね」
苛立ちが募る。
あたいは、花を探しているんだ。
姫様に関わっている暇はないんだ。
「帰るんだ。あたいは、もう少しここにいる」
俯く姫様に、葉子はそう言い放った。
自分が見つけるのだ。横取りされたくない。
姫様の手が、銀狐の濡れた衣に触れる。
持ち手をなくした傘がからからと転がる。
「邪魔しないで」
その手を払いのけた。
寒々とした妖気が、沸き起こった。
「――」
茶色く汚れた自分の手を、見やる。
今、あたいは何をした。何をしたんだ? 何をしてしまったんだ?
花を、探しているんだ。綺麗な綺麗な、七色の花を。
夢に現る、あの、華を。
何のために?
愛する娘に、贈るために。喜ぶ顔を見るために
「姫様……」
涙が、瞳に盛り上がる。
水が、真っ直ぐな髪の先からぽたぽたと落ちる。
後ろを向く。顔を少し上げたのがわかる。
姫様も、濡れていた。
「ごめん、ごめんよ……」
震える背に、言葉をかけた。
震える肩に、手を置いた。
「あたいは、」
雨が冷たい。そう、葉子は思った。
姫様の身体。
姫様も、冷たい。
今、どんな顔をしているだろうか。
表情を窺う勇気――九尾の銀狐にはないものであった。
「あたいは、花を探していたんだ」
そう、花を探しているんだ。
「七色の花を。夢に見るんだ。この森にのどこかにあるって。でも、なかなか見つからなくてね。あたいは、それが欲しくて欲しくてたまらなかったんだ」
「葉子さんは、私よりも、その、花を?」
たどたどしく、言葉を紡ぐ。
ふらふらとした言霊は、どんな罵りよりも銀狐の胸を抉った。
「……違う。姫様にあげようと思ったんだ。七色の花。紫、藍、蒼、緑、黄、橙、赤の七つの花びらを持つ小さな花。姫様にきっと似合うと思った。姫様の喜ぶ顔を見たかったんだ。それなのに、あたいは姫様を悲しませて」
「七色……」
姫様が身じろいだ。赤い目を葉子に向けた。
銀狐は、力無い乾いた笑みを返した。
「花」
「ああ、花さね」
色が、鮮明に浮かんだ。もう、意味のないものであった。
「……それは、本当に花ですか?」
「どういうこと?」
「その色は……」
こう、と、囁いた。
――虹。
「花……」
記憶が、揺らぐ。夢が、揺らぐ。
花の姿が、幽に朧に溶けていく。
五日前。あの、夢を見始めた日。今のように、雨のあがった日。
そう、七色の華を見た。
空に架かる、大きな華を。
「虹……」
「龍……」
姫様が、言った。
「帰りたくて、帰れなくて、葉子さんを頼ったのかな」
よく、似合っている。思った通りであった。
虹を背に微笑む姫様が、銀狐には愛おしかった。
茶けた枯れ葉や黄しんだ落ち葉の中、一輪の華が朧に咲いていた。
ぼんやりとした華。輪郭も幽な華。
「綺麗……」
うっとりと溜息を零す女が一人。
銀の獣耳と銀の獣尾を生やす、二十五・六の女であった。
「綺麗さね……」
古寺の妖、九尾の銀狐、葉子。
右手を顔に当て、頬杖の形。惚けたように、花を見つめていた。
「欲しい……」
そう、漏らした。
「あの花が、欲しい……」
大切な姫君に、あの花をあげたい。
きっと、よく似合う。髪飾りにしてもいい、巾着飾りにしてもいい。
帯に差しても、ただ手に持っているだけでもいい。
姫様には、何でも似合う。でも、でも、この花は……
「うーあ」
銀狐が、言った。
「うーあ?」
少女が、言った。
「うーあ」
「うーあ」
「う?」
そこで、少女はくすくすと微笑んだ。銀狐は小首を傾げると、よいしょと身体を起こした。
「朝?」
「朝です」
「そっか、朝か」
朝です寒いですと、姫様は布団の中で言った。
顔だけをひょっこり出している。
「朝ね……あれは、夢?」
夢だったのか。
「夢? どんな夢を見たんですか?」
「……内緒」
「もう」
もぞもぞと寝具に潜り込む姫様を見ながら、銀狐は花のことを考えていた。
見覚えのある場所に、あの花は咲いていた。
多分、羽矢風の命の森――
白蝉と化け蜘蛛の庵のある森――
琵琶を習いに行く途中で見かけたのか。しかし、そんな覚えは……
あれだけの華、見かければ何かしらしそうなものだけど。
「……起きよっか」
「……や」
「起きるの」
布団を引っ張り剥がす。抵抗はするが、非力な姫様。妖である葉子に勝てるはずもなく。
小さく丸まる少女が露わに。
うーっと身体をさらに小さくすると、ごろっと転がり、葉子の背にまわり、銀色の尾を身体に巻き付かせた。
「暖かい」
姫様と葉子が同じ表情を浮かべる。
二本さらに尾を生やすと、くねりと姫様に巻き付けた。
よいしょと身体を起こす。
ふわふわの、ぬくぬくの毛に包まれ、姫様は満足げであった。
「おはようございます」
「おはようさね」
どこだっけなあ。
どこにあるんだろう。
欲しいなぁ。
あれで、この子を飾ってあげたいな。
「葉子さん」
「ん?」
「何か、気になることがあるのですか?」
琵琶を弾く撥を止める。
銀狐は、白蝉の顔を不思議そうにじっと見やった。
「音がぶれています」
「音が?」
「そうです。音が乱れてるんです」
「んー」
集中してると思ったんだけどねぇ。
自分の琵琶を撫でる。
白蝉の庵、琵琶を習いに。
黒之丞は出かけていた。
お師匠様の耳には、嘘付けないか。
「ちょいと捜し物してて」
「捜し物?」
「そ、捜し物」
ここへの道行き、ちょこちょこ探して。
見つからなかった。それらしき場所は幾つもあれど、そこにあの花の姿はなかった。
「捜し物、ちょっと厄介なものなんだよね」
「黒之丞さんに頼んでみましょうか? この森のことは、羽矢風さんよりもよく知っていますよ」
あの男が、あの花を見つける。
そのまま白蝉にあげそうだった。いや、間違いなくそうするはずだ。
それは、困る。
「いや、いい、いい。大したもんじゃないし」
ひらひらと手を振る。
そうですかと言い、白蝉は続けましょうかと琵琶を鳴らした。
どこにあるんだろう、あの花。
また、夢に見た。夢に見続ける花は、少しずつ、鮮明になっている。
七つの花びらに豊潤な色を載せている、小さな花である。
これで、五日目だ。五日、花の夢を見た。
夢を見る度、想いが募る。
欲しい。
ただただ、欲しい。
疲れが身に宿る。想い焦がれ、憔悴して。
頭領も太郎も黒之助も、自分を心配し始めていた。
何でもないと言う。
花を、渡すわけにはいかなかった。
姫様の眼差しが、一番辛い。
日中、古寺を離れる。
森に入り、せっせと探す。
くまなく探しているはずなのに、花は姿を見せなかった。
どこかにあるはずなのだ。見ているのだ。
でなければ、夢の花が濃くなっていくはずがないのだ。
「どこさねぇ」
肩を落とす。銀狐は、落ち葉の原に座り込んだ。
この景色。一面の落ち葉。似ている。
が、違う。肝心のものがない。
「ないのかな」
いいや、あるはずなのだ。
見落としているのだ。
日が陰り始めた。寒空に、黒い雲が現れている。
木枯らしが身に滲みる。
葉を散らした木々が、ざわざわと音を立てた。
「欲しいんだって」
姫様の喜ぶ姿を思い浮かべ、よろよろと銀狐は歩み始める。
歩み、掻き分け、花を探す。
憑かれた瞳を輝かせる女は、いつしか小雨に包まれていた。
しとしと降る雨が、じんわりと躯を濡らしていく。
「見つからない……」
冷たい水が、女の頬を伝う。
銀狐は天を見やり、花と呟いた。
「葉子さん」
声が、した。
「姫様」
傘をさした姫様が、心配そうに葉子を見つめていた。
「こんなに雨に濡れて」
傘を差し出される。雨が、触れる手を止める。
銀狐は、ぬらりと輝く瞳を姫様に向けた。
「どうしてここに来たの?」
思いがけない言葉に、姫様の顔が強張った。
見開いた瞳に映る葉子の顔は、酷く冷たいものであった。
「その、葉子さんが、雨、困るかなって……」
「あたいは妖だ。濡れても、関係ないさね」
「それは、そうかもしれませんが……でも、冷たいですよ」
「関係ないさね」
苛立ちが募る。
あたいは、花を探しているんだ。
姫様に関わっている暇はないんだ。
「帰るんだ。あたいは、もう少しここにいる」
俯く姫様に、葉子はそう言い放った。
自分が見つけるのだ。横取りされたくない。
姫様の手が、銀狐の濡れた衣に触れる。
持ち手をなくした傘がからからと転がる。
「邪魔しないで」
その手を払いのけた。
寒々とした妖気が、沸き起こった。
「――」
茶色く汚れた自分の手を、見やる。
今、あたいは何をした。何をしたんだ? 何をしてしまったんだ?
花を、探しているんだ。綺麗な綺麗な、七色の花を。
夢に現る、あの、華を。
何のために?
愛する娘に、贈るために。喜ぶ顔を見るために
「姫様……」
涙が、瞳に盛り上がる。
水が、真っ直ぐな髪の先からぽたぽたと落ちる。
後ろを向く。顔を少し上げたのがわかる。
姫様も、濡れていた。
「ごめん、ごめんよ……」
震える背に、言葉をかけた。
震える肩に、手を置いた。
「あたいは、」
雨が冷たい。そう、葉子は思った。
姫様の身体。
姫様も、冷たい。
今、どんな顔をしているだろうか。
表情を窺う勇気――九尾の銀狐にはないものであった。
「あたいは、花を探していたんだ」
そう、花を探しているんだ。
「七色の花を。夢に見るんだ。この森にのどこかにあるって。でも、なかなか見つからなくてね。あたいは、それが欲しくて欲しくてたまらなかったんだ」
「葉子さんは、私よりも、その、花を?」
たどたどしく、言葉を紡ぐ。
ふらふらとした言霊は、どんな罵りよりも銀狐の胸を抉った。
「……違う。姫様にあげようと思ったんだ。七色の花。紫、藍、蒼、緑、黄、橙、赤の七つの花びらを持つ小さな花。姫様にきっと似合うと思った。姫様の喜ぶ顔を見たかったんだ。それなのに、あたいは姫様を悲しませて」
「七色……」
姫様が身じろいだ。赤い目を葉子に向けた。
銀狐は、力無い乾いた笑みを返した。
「花」
「ああ、花さね」
色が、鮮明に浮かんだ。もう、意味のないものであった。
「……それは、本当に花ですか?」
「どういうこと?」
「その色は……」
こう、と、囁いた。
――虹。
「花……」
記憶が、揺らぐ。夢が、揺らぐ。
花の姿が、幽に朧に溶けていく。
五日前。あの、夢を見始めた日。今のように、雨のあがった日。
そう、七色の華を見た。
空に架かる、大きな華を。
「虹……」
「龍……」
姫様が、言った。
「帰りたくて、帰れなくて、葉子さんを頼ったのかな」
よく、似合っている。思った通りであった。
虹を背に微笑む姫様が、銀狐には愛おしかった。