あやかし姫~月の蝶(3)~
食べてもらえた。
満足してもらえた。
さっすが私――
大変だったものね。いっぱい指切ったし、いっぱい燃えたし。
でも、頑張ったんだよ。
頑張って作ったんだよ。
「うーん?」
「何?」
目を閉じていた。
目を、開いた。
「何にもないね」
探ってみたのだ。知覚の網をぐっと広げた。
「はぁ」
「人の気配も、妖の気配も、しない」
火羅さんの気配だけだよ。
「そういう場所だもの」
何よその変な目は。
「いえ……」
足下にある小石を拾うと、ぽちゃんと姫様は池に投げやった。
火羅も、真似をする。
「遠出、久々なんです」
「そうなの?」
「ええ」
意外だった。
意外だったが、よくよく考えてみるとさもありんと思えた。
大切に育てられ、いや、大切に守られていると言った方がしっくりとくるか。
「今日はここに泊まるんでしょ?」
水切り。
競り合った。姫様の石が先に対岸に着いた。
悔しさを押し殺すように、火羅は池に小石を叩きつけた。
「そうなるわね」
姫様は、髪を指で摘んだ。
「お風呂はー、ないよね」
「池ならあるわ」
「無理」
さすがに、この時期は。ぜーったいに風邪引きます。
それに、溺れそう――
「溺れたら困るもんね」
はっきりと、ずばりと、思っていたことを言い当てられた。
ぴきりと唇の端が引きつる。
空を見上げていた火羅は、姫様の表情が強張ったことに気がつかなかった。
「それは、困るわ――」
「そうだ、今度みんなで温泉に行こうって話があるんです」
「温泉?」
「うん。北の方にいいお宿があるんだって」
「温泉かぁ。北の温泉……悪くないわね」
「どうですか? 一緒に行きませんか?」
「みんなってのは、鬼の王の娘もなんじゃないかしら?」
さすがに、鋭かった。
「え、ええ、誘ってくれたのは朱桜ちゃんで」
「私は遠慮しておくね。誘ってくれたのは嬉しいけど」
寂しげに笑みを零し、大晦日の二の舞はご免だと火羅は続けた。
大晦日、古寺に立ち寄った。自然と足が向いたのだ。
思わぬ賑わいに入るべきかどうか躊躇していると、姫様に見つかった。気配は消していたつもりだったが、この娘から逃れられるわけもなく。
中に誘われると、断ることは出来なかった。大人しく付いていった。
そこにいた面々は、妖狼の姫君を絶句させるのに十分で。
大妖が、二匹。その家族に、雪妖の巫女。
そして、鬼の王の娘がいた。
あのときの非礼をもう一度詫びたが、芳しい成果は得られなかった。
二人の顔を見るだけで十分だと言い聞かせ、すぐにその場を立ち去った。
「私がいると気まずいでしょ。黒之助さんも私のこと嫌いみたいだし。お土産は期待してるから」
「良いきっかけになればと思ったのですが……」
しょうがないよ。そんな悲しい顔しないで。
敵意には慣れている。西の妖狼の中で、他の妖怪達に一番憎まれているのは間違いなく自分だった。
一族間で最も好かれていないのも自分だった。
わかっている。結局は、結局は、そう。
この娘がいればいい。
いや――この娘と、金銀妖瞳の妖狼がいればいい。
それで十分であった。
元々、一人しかいなかったのだ。
あの気だての良い狼とも、離れるまで秘密を共有することはなかったのだ。
そう考えれば――今は、満ち足りている。
「私は暇じゃないしね」
「わかりました」
火羅のことが、嫌いだった。
はっきりと、あの日、あの時、ずっと傍にいた妖狼のことを、慕っているのだと言われたときに。
嫌だと思い、逃げて、見つけられて。
もう会うことはないだろうと思った。会いたくないと思った。
だが、再びまみえた。
想いは薄れ、消えていった。
繋がりだけが残った。不思議な縁だと今は思っている。
「あ、混浴は駄目よ。特に太郎様とは」
それもいいなと姫様は思った。
「にしても、遅いわねぇ――」
「遅い?」
「遅いわよ。お月様もちゃんと出てるのに」
「ここはどういう場所なんですか?」
「教えなーい」
息を潜め、獣耳を澄ます。
姫様も、感覚を研ぎ澄ます。
ふと、火羅のことで気が付くことがあった。
「耳飾りしないんですね」
初めて会ったとき、していた。
「あれは赤麗がくれたものだから」
ぐっと盃を飲み干すと、「そろそろね」と言い、火羅は火を消した。
雲のない、満天の空であった。
大気が冷え、固まっている。
お互いの微かな息遣いだけが聞こえた。
二人なら。
今日みたいに二人でなら、温泉にも浸れるだろう。
「気配を、消して」
一緒に行きたかったな、温泉。
いつか、行こうね。
「はい」
気配を殺す。自分を殺す。
何かを、感じた。
無数の生を、感じた。
こちらに向かってくる。
頭上――
火羅が、「やっとね」と口を動かした。
池が、揺れる。
煌めきが落ちる。
光の渦が、景色を変える。木々に、華が宿り始めた。次々と咲き、風もないのに揺れている。
金色、
銀色、
赤に、
黒に、
蒼白いものまで。
「これを見せたかったの」
火羅が、楽しげに言った。
姫様が、感嘆の吐息を零した。気配は、殺し続けている。夜と、一体になっていた。
その夜が、姿を変えた。
蝶、であった。
光り輝く蝶の群れが、木々に宿り羽を休めているのだ。
鱗粉が、夜気を漂っている。
燐光が、夜気を漂っている。
「黄泉路を渡り、」
「月の光を求むる」
「命を羽とし、」
「死を身とする」
――月光蝶。
二人で、言葉を紡いだ。
その蝶の名を口にし、顔を合わせた。
夜を羽ばたく、幻の蝶。
月に影を映しているのを遠目に見たことがある。あれがそうだと指し示したのは、頭領だったか銀狐だったか。
妖狼の傍らで見たこともある。そして、宝をもらい、宝を与えた。
だが、このように近くで見るのは初めてであった。
煌めきが、動く。淡く揺れる。
黒い羽をした蝶が、ひらひらと舞い姫様の肩に泊まった。
「このこは、新月に関わりがあるのね」
「月光蝶の羽の色は、蛹から蝶になったときの月の色といいますが……本当にそうなんですね」
「偶然だったのよ。たまたま、月光蝶がここで羽を休めることを知ってね」
それで、お誘いしたの。
姫様は、静かに、その光景を見つめていた。
だから妖がいないのかと思った。
ここは、月光蝶だけの世界。
今、二人で足を踏み入れている。
「あ、」
輝きが、増す。一斉に動いた。
蝶が木から離れる。
花が、消える。光の筋が、天に昇っていく。
「羽を休めるのは、一瞬。束の間の休息を終え、月光蝶は月を目指す」
いいものでしょ?
「……とても」
胸が高鳴っていた。
火が、また、灯された。
気配が、生まれる。また、二人。
「これを見せたかったの。二人でみたかったの」
鱗粉が雪のように舞い降り注ぐ。地面が光を帯びている。
姫様は喉の渇きを覚えた。
盃の中身を口に含める。
口に含み、すぐに違和感を覚えた。甘いのだ。
どうしてだろうと思う間もなく身体が火照り始めた。
一瞬、視界が霞んだ。
肩が、火羅とぶつかった。
火照りが高まる。
霞は次第に大きくなり、ぱくりと姫様を飲み込んだ――
満足してもらえた。
さっすが私――
大変だったものね。いっぱい指切ったし、いっぱい燃えたし。
でも、頑張ったんだよ。
頑張って作ったんだよ。
「うーん?」
「何?」
目を閉じていた。
目を、開いた。
「何にもないね」
探ってみたのだ。知覚の網をぐっと広げた。
「はぁ」
「人の気配も、妖の気配も、しない」
火羅さんの気配だけだよ。
「そういう場所だもの」
何よその変な目は。
「いえ……」
足下にある小石を拾うと、ぽちゃんと姫様は池に投げやった。
火羅も、真似をする。
「遠出、久々なんです」
「そうなの?」
「ええ」
意外だった。
意外だったが、よくよく考えてみるとさもありんと思えた。
大切に育てられ、いや、大切に守られていると言った方がしっくりとくるか。
「今日はここに泊まるんでしょ?」
水切り。
競り合った。姫様の石が先に対岸に着いた。
悔しさを押し殺すように、火羅は池に小石を叩きつけた。
「そうなるわね」
姫様は、髪を指で摘んだ。
「お風呂はー、ないよね」
「池ならあるわ」
「無理」
さすがに、この時期は。ぜーったいに風邪引きます。
それに、溺れそう――
「溺れたら困るもんね」
はっきりと、ずばりと、思っていたことを言い当てられた。
ぴきりと唇の端が引きつる。
空を見上げていた火羅は、姫様の表情が強張ったことに気がつかなかった。
「それは、困るわ――」
「そうだ、今度みんなで温泉に行こうって話があるんです」
「温泉?」
「うん。北の方にいいお宿があるんだって」
「温泉かぁ。北の温泉……悪くないわね」
「どうですか? 一緒に行きませんか?」
「みんなってのは、鬼の王の娘もなんじゃないかしら?」
さすがに、鋭かった。
「え、ええ、誘ってくれたのは朱桜ちゃんで」
「私は遠慮しておくね。誘ってくれたのは嬉しいけど」
寂しげに笑みを零し、大晦日の二の舞はご免だと火羅は続けた。
大晦日、古寺に立ち寄った。自然と足が向いたのだ。
思わぬ賑わいに入るべきかどうか躊躇していると、姫様に見つかった。気配は消していたつもりだったが、この娘から逃れられるわけもなく。
中に誘われると、断ることは出来なかった。大人しく付いていった。
そこにいた面々は、妖狼の姫君を絶句させるのに十分で。
大妖が、二匹。その家族に、雪妖の巫女。
そして、鬼の王の娘がいた。
あのときの非礼をもう一度詫びたが、芳しい成果は得られなかった。
二人の顔を見るだけで十分だと言い聞かせ、すぐにその場を立ち去った。
「私がいると気まずいでしょ。黒之助さんも私のこと嫌いみたいだし。お土産は期待してるから」
「良いきっかけになればと思ったのですが……」
しょうがないよ。そんな悲しい顔しないで。
敵意には慣れている。西の妖狼の中で、他の妖怪達に一番憎まれているのは間違いなく自分だった。
一族間で最も好かれていないのも自分だった。
わかっている。結局は、結局は、そう。
この娘がいればいい。
いや――この娘と、金銀妖瞳の妖狼がいればいい。
それで十分であった。
元々、一人しかいなかったのだ。
あの気だての良い狼とも、離れるまで秘密を共有することはなかったのだ。
そう考えれば――今は、満ち足りている。
「私は暇じゃないしね」
「わかりました」
火羅のことが、嫌いだった。
はっきりと、あの日、あの時、ずっと傍にいた妖狼のことを、慕っているのだと言われたときに。
嫌だと思い、逃げて、見つけられて。
もう会うことはないだろうと思った。会いたくないと思った。
だが、再びまみえた。
想いは薄れ、消えていった。
繋がりだけが残った。不思議な縁だと今は思っている。
「あ、混浴は駄目よ。特に太郎様とは」
それもいいなと姫様は思った。
「にしても、遅いわねぇ――」
「遅い?」
「遅いわよ。お月様もちゃんと出てるのに」
「ここはどういう場所なんですか?」
「教えなーい」
息を潜め、獣耳を澄ます。
姫様も、感覚を研ぎ澄ます。
ふと、火羅のことで気が付くことがあった。
「耳飾りしないんですね」
初めて会ったとき、していた。
「あれは赤麗がくれたものだから」
ぐっと盃を飲み干すと、「そろそろね」と言い、火羅は火を消した。
雲のない、満天の空であった。
大気が冷え、固まっている。
お互いの微かな息遣いだけが聞こえた。
二人なら。
今日みたいに二人でなら、温泉にも浸れるだろう。
「気配を、消して」
一緒に行きたかったな、温泉。
いつか、行こうね。
「はい」
気配を殺す。自分を殺す。
何かを、感じた。
無数の生を、感じた。
こちらに向かってくる。
頭上――
火羅が、「やっとね」と口を動かした。
池が、揺れる。
煌めきが落ちる。
光の渦が、景色を変える。木々に、華が宿り始めた。次々と咲き、風もないのに揺れている。
金色、
銀色、
赤に、
黒に、
蒼白いものまで。
「これを見せたかったの」
火羅が、楽しげに言った。
姫様が、感嘆の吐息を零した。気配は、殺し続けている。夜と、一体になっていた。
その夜が、姿を変えた。
蝶、であった。
光り輝く蝶の群れが、木々に宿り羽を休めているのだ。
鱗粉が、夜気を漂っている。
燐光が、夜気を漂っている。
「黄泉路を渡り、」
「月の光を求むる」
「命を羽とし、」
「死を身とする」
――月光蝶。
二人で、言葉を紡いだ。
その蝶の名を口にし、顔を合わせた。
夜を羽ばたく、幻の蝶。
月に影を映しているのを遠目に見たことがある。あれがそうだと指し示したのは、頭領だったか銀狐だったか。
妖狼の傍らで見たこともある。そして、宝をもらい、宝を与えた。
だが、このように近くで見るのは初めてであった。
煌めきが、動く。淡く揺れる。
黒い羽をした蝶が、ひらひらと舞い姫様の肩に泊まった。
「このこは、新月に関わりがあるのね」
「月光蝶の羽の色は、蛹から蝶になったときの月の色といいますが……本当にそうなんですね」
「偶然だったのよ。たまたま、月光蝶がここで羽を休めることを知ってね」
それで、お誘いしたの。
姫様は、静かに、その光景を見つめていた。
だから妖がいないのかと思った。
ここは、月光蝶だけの世界。
今、二人で足を踏み入れている。
「あ、」
輝きが、増す。一斉に動いた。
蝶が木から離れる。
花が、消える。光の筋が、天に昇っていく。
「羽を休めるのは、一瞬。束の間の休息を終え、月光蝶は月を目指す」
いいものでしょ?
「……とても」
胸が高鳴っていた。
火が、また、灯された。
気配が、生まれる。また、二人。
「これを見せたかったの。二人でみたかったの」
鱗粉が雪のように舞い降り注ぐ。地面が光を帯びている。
姫様は喉の渇きを覚えた。
盃の中身を口に含める。
口に含み、すぐに違和感を覚えた。甘いのだ。
どうしてだろうと思う間もなく身体が火照り始めた。
一瞬、視界が霞んだ。
肩が、火羅とぶつかった。
火照りが高まる。
霞は次第に大きくなり、ぱくりと姫様を飲み込んだ――