小説置き場2

山岳に寺社仏閣に両生類に爬虫類に妖怪に三国志にetcetc

あやかし姫~月の蝶(4)~

 月光蝶の帯を追いかけたことがある。
 ずっとずーっと小さいとき。物心ついてすぐのとき。
 クロさんの背中に乗り、蝶の群れを追いかけた。
 風を斬るのは気持ちよかった。
 雲を斬るのは気持ちよかった。
 月がだんだん大きくなり、帯が点の集まりだとわかるぐらいに近づいた。
 そのとき……ふと、下を見た。雲に遮られながら、小さくなった古寺を見た。
 恐くなった。
 帰れなくなったらどうしようと、戻れなくなったらどうしようと。
 そして、クロさんの背中で泣き出した。
 私は、黒い両腕で抱かれ、あやされ、わけを訊かれた。
 何も言えず、ただただ、泣いた。
 月が、小さくなった。
 葉子さんにしがみつき、着物を涙で濡らした。
 クロさんは、頭領や太郎さんに怒られていた。
 嫌だった。
 私のせいで怒られている。クロさんは何も悪くないのに。
 そう思うと、どんなにあやされても泣き止めなかった――
「何?」
 肩が触れ合った。
 華奢だと思った。もたれ掛かったまま、姫様は戻そうとしなかった。
「ねぇ、火羅しゃん……」
「しゃん?」
「今宵はー、ありがとうございましゅ」
「しゅ?」
 姫様の瞳がとろんとしていた。
 肌が、赤くなっている。
 蠱惑的な、妖艶な色が、濃くなっていた。
 ちょっと、どうしたの――
「酔ってる?」
「ふえぇ?」
 え、でも貴方呑んでない……あ。
「注いであったお酒がなくなってる」
 姫様の盃が、湯気を立てていた。
 火羅の盃は、空になっていた。
 一杯で酔ったというの。
 酒は強くなかった。だから、今日持ってきたのも優しい酒だった。
 時々、赤麗と一緒に、寝る前に呑むことがあった。気が付いたらいつも寝具の中にいた。
 その私よりも――お話にならない。
「月光しょう、素晴らしいものでした」
 ぱちぱちと、手を叩く。
 え、ええと火羅は頷いた。
 酔ってる――本当に酔ってる。
 面白いわね。面白いけど、大丈夫なのかしら。
「だ、大丈夫?」
「うふふふ――」
 薄笑いを浮かべる姫様に、ちょっと不気味なものを感じた。
 瞳が濡れていた。
「褒めてあげましょー」
 撫で撫で。
「ど、どうも」
 素直に、嬉しいと思った。
「うーん……」
「な、何か?」
「火羅しゃんのお耳、ふわふわしてますねー」
 息を吹きかけられると、ぶるっと身体が震えた。
 妖しさが強くなっている。
 あのとき夢で、そう、夢で見たあの女と、同じ顔をしていた。
「美味しそうです」
 ぱく。
「え?……っぎゃぁぁああ!!!!!!」
 甘く噛まれた。
 耳を。身を震わせた。尾がぴんと伸びきった。
 火羅、思わず姫様を突き飛ばす。
 仰向けに倒れた。黒い長い髪が、敷物の上に広がった。
「な、何するの!?」
「んー」
 心配と後悔の念が沸き起こる。壊してしまったのではないかと顔を覗き込むと、不機嫌気味に唇を結んでいた。
 幸い無意識に手加減したのであろう、姫様に怪我はないようであった。
「みゃあみゃあ」
「猫?」
 すーっと息を吸うと、はーっと息を吐いた。
「ふっ」
 身体を起こす。髪が乱れている。ぶるぶると頭を振る。余計乱れた。
「……」
 髪を掻き分け、一応前が見えるようにしてやる。
 すると、にまーっと嬉しそうに笑った。
 火羅も、笑った。
 少し、距離を置いて。
 姫様はにぱりとにまりとしながら、火羅の膝にもたれ掛かってきた。
 自然に、当たり前のように、頭を載せると、火羅の顔を見上げた。
「何よ……」
 綺麗な髪――さらりと流れるさまは、小川のようで。
 姫様は小さく身じろぎ、顔を横にした。柔らかい頬に重みがかかり、少しへこんだ。
 真紅の妖狼は、羽織っているものを一枚脱ぐと、姫様に被せた。
月光蝶、随分と遠くなったわね」
 返ってくるのは、穏やかな寝息。
 この娘は、誰かに触れているのが好きなのかもと火羅は思った。
 彼岸の時、自分から膝枕をしてみた。他愛もない悪戯心。うつらうつらしている姫様を脅かそうと思ったのだ。が――嫌がる素振りを全く示さず、今のように枕にされた。
 緩みきった寝顔を見ていると、膝を抜く気もしなくなった。
 銀狐と肩を寄せ合っている姿を何度も見た。忌々しいが、太郎様の背中に身体を預けていた。
「貴方はいいわね。私と違って……」
 背中が疼いた。
 羨ましくて、忌々しくて、それでいて、この娘のことが好きで、たまらなく好きで。
 その時、火羅の知覚は、狭く狭くあった。
 火羅は、姫様しか見ていなかった。
 だから、屋敷に、ないと言っていた「気配」が生まれたことに、気がつかなかった。
 姫様が酔い、眠り、火羅が蕩ける。
 重なった。
 虚が、生まれた。
「西の妖狼の長、火獄が一女、火羅だな?」
 背後から声をかけられた。
 重く、太い、男の声。
 全身が総毛立つ。
 恐る恐る、顔だけを後ろを向ける。
 白髪の、右目が潰れた男がいた。傷に見覚えがあった。
 殺気が躯を打つ。
 火羅は、次に相手が何をするかが読めた。
 背中を丸める。行いが読め、読めたから、そうすることしか出来なかった。
 動けば、この娘が――
 男が、鋭く伸びた爪を引き抜いた。ずんと、屋敷が震えた。
 振り向きざまに、片袖を引き千切り現れた、火羅の巨大な獣の腕が、男のいた場所に叩きつけられたのだ。
 舌打ちする。
 男は立っていた。
 火羅の指に片足をかけている。ぞぶりと、人の足が太い獣の脚に変わる。
 雪のような白毛に、薄い薄い、黒縞が。金色の瞳で闇を照らしながら、男は舌なめずりをした。
 踏み抜く。指が沈み、床が煙をたて、めきりと音がする。
 人の娘を胸に抱きながら、火羅は悲鳴を噛み殺した。
 腕を引く。二本、やられた。
 気配が、増えていく。
「ごめんね」
 そう、火羅は謝った。
 汚してしまったと。美しかったのに、認めていたのに。
 強く抱き締める。
 私と、同じ色に染まっている。
 私の紅で染まっている。
「この代償、高くつくわよ」
 そう言いながら人の手で姫様を横たえると、妖狼の姫君は立ち上がった。