小説置き場2

山岳に寺社仏閣に両生類に爬虫類に妖怪に三国志にetcetc

あやかし姫~月の蝶(9)~

 女が、口づけをする。
 男の唇を吸う。
 慈しむように、愛おしむように。
 長い間そうしていた。
 離れる。女の唇が、赤く濡れている。
 女のすらりとした腕から落ちる白刹天――の、首。
 転がっていく。見ていることしか出来なかった火羅の足下へと。
 女が、眼で、追う。顔を引きつらせた火羅を見やる。
 傷だらけの躯を固く小さくしていた火羅を。
 ぬうっと、嗤った。
 嗤い、ゆっくりと歩み寄る。
 名前を口にしたくなかった。
 目尻に、涙が溜まる。
 女の名前を口にしたくなった。
 躯は、悲鳴をあげ続けていた。
 心も、悲鳴をあげ続けていた。
「酷い姿よのぉ」
 女が膝を曲げた。笑みを絶やさず、顔を近づかせ、火羅の手首を握り締めた。
「そなたは……そなたは、色々と邪魔よな。死に狼は妾のものなのに、手を出して。ああ、それに、お前のせいで喰い損ねた」
 手首に痕を残すと、肩の傷口をなぞる。
 喉の奥で、くぐもった嗤い声をあげる。
「よく、啼いておる。これなら、妾が何をするでなく……なぁ」
 女が、火羅の身体を抱き寄せた。
 背中の火傷を熱の通わぬ手で撫でやった。
 それから、火羅の頬を両の手の平で押さえる。視線が絡み合う。禍々しい妖しさが立ちこめていた。
 唇が、重なろうとした。
 弾けた。もう、見ていたくなかった。感じていたくなかった。
 呼んだ。 
 女の名を、呼んだ。
 嗚咽混じりに、呼んだ。呼びたくなかった。
 その名を呼ぶということは、その女があの娘だと認めるということ。
 だが、このままでは、あの娘は戻ってこない。
 戻ってこなくなる。
 そう、火羅は思ったのだ。
「――!」
 笑みが歪んだ。
 ぶわりと、女の影が伸びた。
 火羅の影を喰らい、夜を喰らう、深い闇が広がっていく。
 闇と思えたものは、よくよく見ると無数の蠢くものでなりたっていた。
 漆黒の羽を持つ、蟲の群れ。
月光蝶……」
 蝶は、妖の骸に群がった。
『黄泉路を渡り――』
『月の光を求むる――』
『命を羽とし――』
『死を身とする――』
 月光蝶の羽が、金色に転じていく。
「違う、違うぞ……妾は……妾の名は、」
 姫様の姿をしたものが、額を押さえた。
 何かが壊れようとしていた。
 何かが形を成さんとしていた。
「彩花さん」
 もう一度、火羅は、名を呼んだ。
「妾は、」
 火羅に向ける眼差しには凄まじい殺気が籠められていた。
 怯まない。
 背筋を張る。
「貴方は、私の友人の、彩花さんでしょ」
 弱々しく、微笑んでみせた。
 視界が覆われる。
 月光を身に宿した蝶々が一斉に羽ばたいたのだ。
 女の姿が隠される。
 光の中、垣間見えた姫様の瞳は、まさしく紅い蛇の瞳であった。



 ねぇ、赤麗。私ね、貴方に秘密にしていたことがあるの。
 私ね――
 どうして首を振るの?
 これからずっと一緒にいるんでしょ? いられるんでしょ?
 いてくれないの?
 そう、そうね。私は……
『     』 
 赤、麗……貴方……ありがとう。ありがとう。
 また会えるよね。
 ええ。
 その時には秘め事を、二人で、いえ、三人で分かち合いましょう。
 うん、貴方の言ったとおりだったわ――