あやかし姫~月の蝶(9)~
女が、口づけをする。
男の唇を吸う。
慈しむように、愛おしむように。
長い間そうしていた。
離れる。女の唇が、赤く濡れている。
女のすらりとした腕から落ちる白刹天――の、首。
転がっていく。見ていることしか出来なかった火羅の足下へと。
女が、眼で、追う。顔を引きつらせた火羅を見やる。
傷だらけの躯を固く小さくしていた火羅を。
ぬうっと、嗤った。
嗤い、ゆっくりと歩み寄る。
名前を口にしたくなかった。
目尻に、涙が溜まる。
女の名前を口にしたくなった。
躯は、悲鳴をあげ続けていた。
心も、悲鳴をあげ続けていた。
「酷い姿よのぉ」
女が膝を曲げた。笑みを絶やさず、顔を近づかせ、火羅の手首を握り締めた。
「そなたは……そなたは、色々と邪魔よな。死に狼は妾のものなのに、手を出して。ああ、それに、お前のせいで喰い損ねた」
手首に痕を残すと、肩の傷口をなぞる。
喉の奥で、くぐもった嗤い声をあげる。
「よく、啼いておる。これなら、妾が何をするでなく……なぁ」
女が、火羅の身体を抱き寄せた。
背中の火傷を熱の通わぬ手で撫でやった。
それから、火羅の頬を両の手の平で押さえる。視線が絡み合う。禍々しい妖しさが立ちこめていた。
唇が、重なろうとした。
弾けた。もう、見ていたくなかった。感じていたくなかった。
呼んだ。
女の名を、呼んだ。
嗚咽混じりに、呼んだ。呼びたくなかった。
その名を呼ぶということは、その女があの娘だと認めるということ。
だが、このままでは、あの娘は戻ってこない。
戻ってこなくなる。
そう、火羅は思ったのだ。
「――!」
笑みが歪んだ。
ぶわりと、女の影が伸びた。
火羅の影を喰らい、夜を喰らう、深い闇が広がっていく。
闇と思えたものは、よくよく見ると無数の蠢くものでなりたっていた。
漆黒の羽を持つ、蟲の群れ。
「月光蝶……」
蝶は、妖の骸に群がった。
『黄泉路を渡り――』
『月の光を求むる――』
『命を羽とし――』
『死を身とする――』
月光蝶の羽が、金色に転じていく。
「違う、違うぞ……妾は……妾の名は、」
姫様の姿をしたものが、額を押さえた。
何かが壊れようとしていた。
何かが形を成さんとしていた。
「彩花さん」
もう一度、火羅は、名を呼んだ。
「妾は、」
火羅に向ける眼差しには凄まじい殺気が籠められていた。
怯まない。
背筋を張る。
「貴方は、私の友人の、彩花さんでしょ」
弱々しく、微笑んでみせた。
視界が覆われる。
月光を身に宿した蝶々が一斉に羽ばたいたのだ。
女の姿が隠される。
光の中、垣間見えた姫様の瞳は、まさしく紅い蛇の瞳であった。
ねぇ、赤麗。私ね、貴方に秘密にしていたことがあるの。
私ね――
どうして首を振るの?
これからずっと一緒にいるんでしょ? いられるんでしょ?
いてくれないの?
そう、そうね。私は……
『 』
赤、麗……貴方……ありがとう。ありがとう。
また会えるよね。
ええ。
その時には秘め事を、二人で、いえ、三人で分かち合いましょう。
うん、貴方の言ったとおりだったわ――
男の唇を吸う。
慈しむように、愛おしむように。
長い間そうしていた。
離れる。女の唇が、赤く濡れている。
女のすらりとした腕から落ちる白刹天――の、首。
転がっていく。見ていることしか出来なかった火羅の足下へと。
女が、眼で、追う。顔を引きつらせた火羅を見やる。
傷だらけの躯を固く小さくしていた火羅を。
ぬうっと、嗤った。
嗤い、ゆっくりと歩み寄る。
名前を口にしたくなかった。
目尻に、涙が溜まる。
女の名前を口にしたくなった。
躯は、悲鳴をあげ続けていた。
心も、悲鳴をあげ続けていた。
「酷い姿よのぉ」
女が膝を曲げた。笑みを絶やさず、顔を近づかせ、火羅の手首を握り締めた。
「そなたは……そなたは、色々と邪魔よな。死に狼は妾のものなのに、手を出して。ああ、それに、お前のせいで喰い損ねた」
手首に痕を残すと、肩の傷口をなぞる。
喉の奥で、くぐもった嗤い声をあげる。
「よく、啼いておる。これなら、妾が何をするでなく……なぁ」
女が、火羅の身体を抱き寄せた。
背中の火傷を熱の通わぬ手で撫でやった。
それから、火羅の頬を両の手の平で押さえる。視線が絡み合う。禍々しい妖しさが立ちこめていた。
唇が、重なろうとした。
弾けた。もう、見ていたくなかった。感じていたくなかった。
呼んだ。
女の名を、呼んだ。
嗚咽混じりに、呼んだ。呼びたくなかった。
その名を呼ぶということは、その女があの娘だと認めるということ。
だが、このままでは、あの娘は戻ってこない。
戻ってこなくなる。
そう、火羅は思ったのだ。
「――!」
笑みが歪んだ。
ぶわりと、女の影が伸びた。
火羅の影を喰らい、夜を喰らう、深い闇が広がっていく。
闇と思えたものは、よくよく見ると無数の蠢くものでなりたっていた。
漆黒の羽を持つ、蟲の群れ。
「月光蝶……」
蝶は、妖の骸に群がった。
『黄泉路を渡り――』
『月の光を求むる――』
『命を羽とし――』
『死を身とする――』
月光蝶の羽が、金色に転じていく。
「違う、違うぞ……妾は……妾の名は、」
姫様の姿をしたものが、額を押さえた。
何かが壊れようとしていた。
何かが形を成さんとしていた。
「彩花さん」
もう一度、火羅は、名を呼んだ。
「妾は、」
火羅に向ける眼差しには凄まじい殺気が籠められていた。
怯まない。
背筋を張る。
「貴方は、私の友人の、彩花さんでしょ」
弱々しく、微笑んでみせた。
視界が覆われる。
月光を身に宿した蝶々が一斉に羽ばたいたのだ。
女の姿が隠される。
光の中、垣間見えた姫様の瞳は、まさしく紅い蛇の瞳であった。
ねぇ、赤麗。私ね、貴方に秘密にしていたことがあるの。
私ね――
どうして首を振るの?
これからずっと一緒にいるんでしょ? いられるんでしょ?
いてくれないの?
そう、そうね。私は……
『 』
赤、麗……貴方……ありがとう。ありがとう。
また会えるよね。
ええ。
その時には秘め事を、二人で、いえ、三人で分かち合いましょう。
うん、貴方の言ったとおりだったわ――