小説置き場2

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あやかし姫~月の蝶(8)~

 ふらと、二頭の虎が女に近づいていく。
 白刹天も、ふらふらと火羅から離れ、女に向かっていく。
 女が、ほっそりとした首を傾け、息を白く淡く吐いた。
 火羅も誘われた。行きたかったが身体が動かなかった。
 蠱惑的な黒い瞳が、あどけなくしどけない振る舞いの一つ一つが、火羅を惹きつけ放さなかった。
 そして、恐れを抱かせた。
「妾を満足させてくれや」
 女が、ゆっくりと優雅に、一頭の虎に触れた。
「……餌になってくれや」
 虎の瞳の光が消える。
 くっ、と、女が嗤う。
 血が、吹き出した。
 白刹天にも、妖虎にも、火羅にも、その血は降り注いだ。
 全身の穴という穴から血を吐き出すと、一回り小さくなった虎がどさりと音をたて、崩れ落ちた。
 ほぉと、体中を赤く染めやった女が、喉を仰け反らせた。
「いい、いい――」
 歓喜の声。
 白刹天が、立ち止まった。
 砕天が、立ち止まった。
 何が起こったのかわからぬようであった。
「いいが……ちと、足りぬ。どうしてであろう?」
 不思議そうな顔をした。
「餓天!」
「おい、餓天!」
 返ってこない。死んで、いた。
「そうじゃ、そうじゃった。忘れておったわ」
 手を小さく叩いた。
 砕天が、白刹天の静止を聞かず女に爪を向けた。
 唯一無事であった場所が消えた。
「どこだ!」
 煙を、しゃむに掻き分ける。
「お前、この者と似ているな」
 必死に探す妖虎の鼻先に、不意に女は現れた。
 にこりと嗤いながら、
「まだ幼いことよ。弟であろうか?」
 と言い、右手を掲げた。
 妖虎の躯が浮かび上がる。亡骸を見やり、恐怖に包まれ、やめろと呻いた。
 いかんと、白刹天が白色の体毛を靡かせ、前脚を女に叩きつけた。
 裂ける――
 女を避けるように、白虎の腕は裂け、根本まで消し飛んだ。
「お前が、一番上物よな」
 胸を膨らませる。
 肩から血を滴らせながら、ぶわっと口から鉄砲水をだした。
 火羅の火を掻き消した、水の術。
 磨きに磨き上げた、妖の術。
「ふふ」
 女は、小さく嗤った。
 その手前で、水が止まり、固まり、凍り、氷となる。
 砕天が悲鳴をあげた。
 白刹天が、どれだけその術を鍛えたか。河童の長に頭を下げ、教わり、長い時間をかけ磨き上げた。
 今日、この時のためだけに、ずっと、ずっと。それが、容易く。
 これほど容易く退けられるものなのか。
 理不尽だ。理不尽すぎる。この女は、ただ、ここに居合わせただけではないか。
 女の笑顔。
 憤怒が、消えた。
 恐怖に囚われたとき、ゆっくりと、下半身を固定したまま、上半身が廻り始めた。
「なぁ、助かりたいか?」
 ぎぎっと、骨が、肉が、軋む。
 限界を、越えていた。
「生きたかろう?」
「や、やめて……頼む、まだ、死にたくない」
 また、白刹天が動く。今度は、火羅の許へ。
「やめよ!」
 火羅の傷だらけの胸に、爪を突き立てた。
 苦痛に顔を歪める。口を、半開きにした。
 だが、痛みよりも何よりも、目の前の光景が信じられず、辛かった。
「……あは、あはははははは! やめぬ!」
 廻り、千切れた。
 その時には、もう、女は白刹天の爪を握っていた。
 煙をたてる。爪が、腐敗した匂いをたてる。
 すぐに女は、驚愕する白刹天の顔に触れた。
 白刹天の左目が――腐った。
「お、お、おおおおおお!!!」
 腐りを覆い、離れる。
「いい声じゃ。いい声で啼くのぉ」
 さてと。女の興味が、移った。
 まだ砕天は生きていた。虫の息であったが、かろうじて生きていた。
「ふふ、落ちる。熟れて、熟れて、腐って。芳しいなぁ、この豊かな匂い。そうじゃ、忘れていたわ。恐怖に悶えるのも、格別なものだと。いたちに教わったというに。あれも、嬲ってやったからのぉ。心地よい、命乞い。くく、くく、くく」
 女が、砕天の頬に触れた。
 妖虎の顔が、がくりと沈んだ。
「あぁ――」
 身を震わせる。
 身を捩らせる。
 光を失い、片腕をもぎ取られた白虎が、雄叫びをあげた。
「次は……貴様よ」
 自分の身体を、嬉しそうに抱き締める。
 官能的な息を吐き、にんまりと笑んだ。