小説置き場2

山岳に寺社仏閣に両生類に爬虫類に妖怪に三国志にetcetc

あやかし姫~小さき、七夕~

「この湿り気……」
 女が一人、人差し指を立て、風に身を任せていた。
 美しい容姿をした女だ。
 二十代の半ばを過ぎただろうか。ふくよかな身体の上に、地味目の着物をまとっている。
 むっと唇をへの字にしていた。白い八重歯がちらと見えた。
 腕を、組む。
 ひょこりと、頭に銀色の三角形が生えた。そして、ひょこひょこと寝たり起きたりした。
「天気は悪くないんだけどなぁ」
 見上げた空は、少量の雲が走っていた。
「葉子さん、葉子さん」
 ぺたぺたと、幼子が女の足下に走り寄る。
 走り寄って、背伸びすると、女の裾をちょいちょいと引っ張った。
 とても愛らしい女の子。
 ふっくらとした唇、漆黒の髪、透き通るような白く滑らかな肌に、紅潮した頬。
 可憐さに加えて、幼いながら、気品すら滲ませていた。大きくなれば、きっと飛び抜けた美しさを見せるようになるだろう。 
 そう、見る者に確信させる容貌をしていた。
「葉子さん、葉子さん」
「ほいほい、何さね」
 膝を曲げ、葉子は顔の高さを女の子に会わせた。 
「つけたい、つけたいの」 
 そう言う女の子の小さな手には、糸がついた小さな紙が握られていた。
「どうしようかなー」
 にまりと意地悪そうに目を細める。
 耳元まで唇の両端が裂けた。二本の八重歯が、くっきりと。
「……」 
 押し黙った女の子は、しょんぼりと肩を落とした。自分の手元に目をやり、爪を一噛みすると、葉子に背を向け、よろよろと歩き始めた。
 小さな身体が、さらに小さくなっている。
 瞳がきゅっと細まると、九つの尾が、葉子の腰の辺りから生えやった。
 女の子の脇に両手を潜り込ませ、ぎゅっと抱き上げると、
「さぁ、どこにつけるさよ?」
 そう言って頬を擦り寄せた。ぱぁっと、鮮やかに、女の子が瞳を輝かせる。
 にこり笑うと、
「えっとね――」
 そう、彩花は指差した。
 小高い山に建つ、古いお寺。そこに住まうは、数多の妖。
 妖狐や、妖狼や、鴉天狗。
 そして――妖達に育てられている、人の娘。妖達に愛されている、人の娘。
 人の傍らに、妖が住まう。
 神々と共に、妖がいる。
 そんな、時の、お話で。



 今日は七夕。
 前日の夕方から始まった、麓の村のお祭りは、もう片付けを終えていた。
 彩花は、九尾の銀狐である葉子に持ち上げられ、笹の高いところに、願い事が幼い字で書かれた短冊を、うんしょとくくりつけていた。
「葉子さん、下ろしてー」
「あいよー」
 返事しながら、すぐには下ろさず、彩花を掲げたままぶーらぶーらさせる。
 幼子はきゃっきゃと手を叩いて笑い声をあげた。
「どんな願い事を書いたのかな?」
 女の子は、答えなかった。
「今日は七夕ー」
「だねー」
 白い狼が、二人に近づいた。今にも、襲いかかり、噛み殺さんと……そんな気配は微塵もなく。
 可笑しそうに、笑みを噛み殺す、そんな獣の形相をしていた。
「ちぇ、今日の天気は微妙だな」
 狼が、言った。
「そうかい、やっぱりさか」
「雲が、こちらに向かっている。降りそうですな」
 背に黒い羽を生やした男が降り立った。山伏姿に、大きな、鴉の羽。
 齢、三十に近かろうか。葉子より、二・三、年上に見える。
 ふうむと難しい顔をして、先程彩花が短冊をくくりつけた、大きな笹を見やった。
「拙者は中に入れた方がよいと思うが」
「入るか?」
「さぁ」
「駄目じゃないかな」
 古寺の、力ある三匹の妖――葉子、太郎、黒之助が、大きな笹について話し合う。
 幼子は会話を聞き流しながら、心配そうに一番星を見ていた。
 そして――
「あ」
 一声漏らす。
 ぽつりと、雨が降りやった。



「彦星様と織り姫様、会えたかなー」
「どうだかねぇ」
 広い、居間。
 湿った風が注ぎ込む。
 しとしと雨が、庭に降り注いでいた。
 一段高いところで、白髪白眉白髭の翁が酒を呑んでいる。
 あーんと彩花が、葉子にお揚げを。
 あーんとぱくんとお揚げを貰った。
「彦星と織り姫?」
 半人半妖の姿で酒を呑んでいた太郎が、言った。
「誰それ?」
 可哀想なものを見るような、そんな視線が集まった。
「……太郎殿」
 黒之助が太郎の肩を叩き、哀れなりと首を振った。
「え、えっと……がおー!」
 彩花は、縁側に向かうと、屋根の下から顔を覗かせた。
 天の川は、欠片も見えず。黒く厚い雲だけがあった。
「洒涙雨、かぁ。天の川、溢れてるかもねぇ」
 彩花の目の前に、黒い豊かな髪が落ちてくる。
 葉子が彩花に覆い被さるようにして、空を見やったのだ。
 銀狐と同じくらいの長さにしようと、彩花も髪を伸ばし始めた。やっと、肩を越えたところだ。
「彦星様と織り姫様、どうして一年に一度しか会えないのですか?」
「仕事を怠けて、天帝の怒りに触れたさね」
「怠けて?」
「二人で過ごすのが楽しくあって、それで仕事をしないようになったのだと。天帝は怒り、天の川で二人を引き裂き、年に一度しか、会えないようにしたと」
 黒之助が語る。
「ひどいです!」
 彩花が叫んだ。
 怒っている。ぷんぷんとした怒り顔も、妖達には微笑ましかった。
「そんなのひどいですよ!」
「天帝は、愛し合う二人に、灼いちゃったのかもねぇ」
 銀狐が、よいしょと幼子を膝の上に乗せた。
「焼いた……」
 肉でも焼いたのかと、太郎は思った。
 葉子と黒之助の冷たい視線で、違うのかと思った。
 じゃあ、きっと魚だ。
 また、視線が突き刺さり、居心地の悪さを感じた。
「悪いことです。私は嫌です。もし、そんなことになったら……葉子さんやクロさんや太郎さんや頭領様やみんなと引き離されて、一年に一度しか会えなくなったら……」
 葉子は、幼く賢い女の子の頭を撫でた。
 寂しがり屋な、可愛い子だ。
「あたい達は、そんなことならないさよ。彩花ちゃんのこと、大好きだからね」
「でも、でも、彦星様と織り姫様は、お互い大好きだったのですよ?」
「もーし、天帝のような奴が現れても、あたい達強いからね。彩花ちゃんを手放さないさ。絶対にね」
「本当?」
「本当、本当。彩花ちゃんの悲しむ顔は、見たくないさね」
「葉子さん、好き、大好き!」
 妖達が、じっと彩花を見やる。
 葉子は、体の向きをくるっと変えた。
「みんな大好き」  
「なぁ、彩花ちゃん」
 妖狼が、言った。
「雨、上がった」
 雲が流れ、満天の空。
 風の湿りが静まって、涙の雨は消えていた。
 彩花は白い狼に変じた太郎の背に乗って庭に出た。
 ほーと、口を丸くして、零れ落ちそうな星々を見た。
 みんなとずっと一緒にいられますよに――そう、雨に滲んだ拙い字が、短冊の上に載せられていた。