あやかし姫~そのお出かけの日(1)~
「まずいです……」
「まずい?」
「姫さん、拙者の料理が!?」
「違うよ! クロさんの料理は美味しいよ!」
はむと、朝ご飯を食べる姫様。今日の料理番は黒鴉、ほっと一安心。
頭領がいなくなって、真紅の妖狼が住まうようになって。
結局頭数は変わらない。
姫様がいる。太郎がいる。葉子がいる。黒之助がいる。火羅がいる。小妖達がいる。
しかし――随分と、寂しくなった。
古寺に住まう者の数は変わらないが、取り巻く環境は変わってしまった。
近くの小川に住んでいた沙羅も、この辺りの土地神である羽矢風の命も、戻ってきてはいない。
鬼の王の娘である朱桜も、鈴鹿御前や白月や光も、あの一件以来訪なったことはない。
白蝉、黒之丞、月心はいる。森の奥深くの庵に住んでいるし、村外れの小さな家に住んでいる。
けれど、三人もまた、寂しげであった。
白蝉と黒之丞は、庵に入り浸っていた羽矢風のことを気にしているし、月心も、子供達の相手をよく手伝ってくれていた沙羅を気にしていた。
それでも、一日、一日と、時は流れていく。
姫様は、なるようになるしかないと、ゆったりと構えた。構えている風を装った。
爪がまた短くなった。
装っているだけだと、一緒に住まう者達は気づいていた。
そして――
「何がまずいのさ?」
ゆっくりと食事を取りながら、一枚の紙面に目を落とす姫様に、片袖を靡かせながら葉子が尋ねた。
「黒之助の料理だろ?」
「姫さんが違うと言ったばかりだろうが」
押し殺した声。火羅が、またかという顔をした。
「はっきり言っちまえよ、姫様」
小馬鹿にするように、にやにやと太郎。火羅が、姫様のちょうど後ろになるように、席を移した。
葉子も、頭を押さえながら、火羅の隣にそっと移動した。
二匹とも、力「無き」妖。かっては、四人とも、同じくらいの強さを持っていた。
大妖には及ばぬまでも、妖の中では頭抜けていたのだ。
小妖など、どれだけいても敵わぬだろう。
金銀妖瞳の妖狼。
真紅の妖狼の姫君。
鴉天狗の麒麟児。
九尾の直系たる銀狐。
しかし――葉子は、九尾の大妖、玉藻御前に苛まれ、火羅は、積み重なった傷に侵され、力を失った。だから、隠れる。
抗えぬ嵐に巻き込まれては堪ったものではなし。それに、姫様の後ろが、一番安全だった。
頭領がいなくなって、実質的にこの場所を治めるようになった少女の後ろが。
「足りません」
「太郎殿の頭が?」
「誰が馬鹿だ!」
「自覚しているのか。じゃあ、ちょっと馬鹿だ」
「……」
火羅が、欠伸を一つ吐いた。太郎様は本当に子供っぽい人だと思いながら。嫌いじゃないけど。
葉子は、ほーんと飽きないなこの二人……そんなことを考えていた。
「ええ、足りません」
「ひ、姫様?」
「ひ、姫さん?」
「あら?」
「およ?」
四人が、間の抜けた声をあげた。太郎と黒之助を囃し立てていた小妖達が、さぁーっと静まった。
一人、姫様だけが、怪訝そうな顔をしていた。
「ん……私、何か変なことを?」
「彩花さんがそんなことを……」
「姫様がねぇ……」
「姫さんも内心、そう思っていたんですなぁ」
「姫様……俺、やっぱり頭足りねぇのか。そう、だよな……俺、文字覚えるの遅いし、何やっても……」
いじいじ。
「……えっと……足りないのは、薬の元、だよ?」
「薬の元?」
「ええ、解熱剤と咳止めの原料が、ほとんどないんです」
「買えばいいじゃないの」
火羅が、不思議そうに言った。
「あるでしょ、お金」
「村には売ってないものなんです……」
「ねぇ、クロちゃん。頭領は、どうやって薬の元を調達してたの?」
「いやぁ、拙者は……」
さてと、黒之助は首を捻った。
「葉子も知らねぇのか?」
そう尋ねるということは、太郎も知らない。
「あたい、そういう煩わしい事はねぇ。姫様は?」
もちろん、最初に問いかけた葉子も、であった。最近暮らし始めた火羅は言わずもがなだ。
「頭領、色々な方々と取引をしていたんです。流通の網と、申しましょうか。そのようものを、各地に張り巡らしているのだと聞いたことがあります。でも、頭領がいなくなって、全部止まってしまって……私は、やっていたことしか、知りません」
誰と、どのような取引をしていたのか――
知らない。頭領は、一手に仕切っていた。いなくなると、もちろん、止まる。
姫様の食事は、近辺でとれるものが多くなった。
以前は、新鮮な海の幸も、よく食卓に上ったものだ。今は、たまに、干したものが出るぐらい。それも、珍しい。
姫様は、優れた薬師だ。しかし、どれだけ作り方を極めていようと、原料がなければ意味はなかった。
「じゃあ、どうするの?」
「買いに行くしかないです」
「さっき村には売ってないって言ったじゃないの!」
「街まで足を伸ばすということさね?」
火羅の口調は、姫様と、葉子や太郎達とで、違うものになる。丁寧な口振りから、少々きつめに。
黒之助や小妖達は、それを苦々しく思っていた。だから、その矛先が出される前に、葉子が口を開いた。火羅は、賢い妖だ。すぐに事を察し、顔を小さく下にした。
姫様には素の姿を見せていた。
「ええ」
街――隣街。大きな街だ。
麓の村など、比べものにならない。人が多く、よく栄えていた。
「しかし、遠いですな」
「そんなになの?」
火羅の知らないことであった。
「ああ、遠いねぇ。人の足で、行って帰ってくるのに、一日ばかしかかる」
「ふぅん……」
この子はもっと遅いだろうなと思った。
「明日、行こうかと思います」
「明日ですと!?」
「また、急だな」
「待っていたんです。ずっと……でも、限界です」
姫様が淡々と述べた。
何か言いかけた葉子は、姫様が継いだ言葉に、あっと口籠もった。
「明日は……拙者、黒之丞と約束が」
黒之丞と白蝉と一緒に、羽矢風の宿る木の周囲を掃除をすることになっていた。
「そっか、そういえばそうだね……えーっと」
「太郎様、」
「ま、俺は暇だし」
わさわさと尾を振った。
「と二人で行くしかないわね」
「は?」
姫様が、口を半開きにした。
「葉子さんは、人目につきすぎるし、私は、いざというとき足手まといになるかもしれないし」
「……確かに」
葉子が、白尾を見ながら頷いた。
白毛、隻腕。人目を引くことは間違いない。
「で、でも、」
「そうね、それに、貴方、見ていて運動不足だし、自分の足で歩けばいいんじゃない?」
「いや、俺の背中に乗れば、半日で終わる……」
「運動不足……」
すっと、背中に触れられた。ちょうど胸のあたりと逆側を。
いいんじゃないという言霊が、姫様の頭の中をぐるぐると駆け回った。
「息抜きも必要よ」
「そうさね、クロちゃんが留守するんだし、あたいは、誰か来たときのために、ここにいないといけないよね」
葉子が、自分に言い聞かせるように。
「太郎さんと、二人……」
動悸。
強まる。脈が波打つ。
「じゃあ、そうしようかな……いい?」
「俺はいいぞ」
太郎さんと、二人――
「どう、太郎様と二人っきりで、嬉しい?」
「あ、うん」
思わず返事をしてしまった。
それから、姫様はっと口を押さえる。
お風呂場。
二人だけ。
白狐が出て行って、真紅の妖狼がやってきて、結界を張ったことを思い出した。
目の前の妖以外に、聞かれることはない。
「感謝しなさいよ」
「火羅さん……」
「ま、軽い恩返しね。お土産、よろしく」
「期待に応えられるよう、頑張ります」
頭を下げる。
姫様の視線が下がった瞬間、火羅の瞳に妖しげな光が宿った。
恍惚とした色。
それは、姫様が頭を上げる前に消え去った。
「私……街に行くの、初めてなんです」
「そうなの?」
火羅は、軽く驚いた素振りを。
「あまり、外には出ないから……」
姫様の知っている世界は、それほど広いものではなかった。
「じゃあ、なおのこと、楽しんできたらいいわ」
「薬の原料を買いに行くんだけどね」
「おまけでしょ」
「ちがいます!」
火羅が笑い、目を細めた。
「貴方が嬉しいと、私も嬉しい」
呟きは、胸の内。秘めた、想い。
「でも、やっぱり楽しみですね」
そろそろのぼせてきたなと、火羅は思った。
姫様の肌は、のぼせたわけでもないのに、鮮やかな色彩の揺れを見せていた。
「まずい?」
「姫さん、拙者の料理が!?」
「違うよ! クロさんの料理は美味しいよ!」
はむと、朝ご飯を食べる姫様。今日の料理番は黒鴉、ほっと一安心。
頭領がいなくなって、真紅の妖狼が住まうようになって。
結局頭数は変わらない。
姫様がいる。太郎がいる。葉子がいる。黒之助がいる。火羅がいる。小妖達がいる。
しかし――随分と、寂しくなった。
古寺に住まう者の数は変わらないが、取り巻く環境は変わってしまった。
近くの小川に住んでいた沙羅も、この辺りの土地神である羽矢風の命も、戻ってきてはいない。
鬼の王の娘である朱桜も、鈴鹿御前や白月や光も、あの一件以来訪なったことはない。
白蝉、黒之丞、月心はいる。森の奥深くの庵に住んでいるし、村外れの小さな家に住んでいる。
けれど、三人もまた、寂しげであった。
白蝉と黒之丞は、庵に入り浸っていた羽矢風のことを気にしているし、月心も、子供達の相手をよく手伝ってくれていた沙羅を気にしていた。
それでも、一日、一日と、時は流れていく。
姫様は、なるようになるしかないと、ゆったりと構えた。構えている風を装った。
爪がまた短くなった。
装っているだけだと、一緒に住まう者達は気づいていた。
そして――
「何がまずいのさ?」
ゆっくりと食事を取りながら、一枚の紙面に目を落とす姫様に、片袖を靡かせながら葉子が尋ねた。
「黒之助の料理だろ?」
「姫さんが違うと言ったばかりだろうが」
押し殺した声。火羅が、またかという顔をした。
「はっきり言っちまえよ、姫様」
小馬鹿にするように、にやにやと太郎。火羅が、姫様のちょうど後ろになるように、席を移した。
葉子も、頭を押さえながら、火羅の隣にそっと移動した。
二匹とも、力「無き」妖。かっては、四人とも、同じくらいの強さを持っていた。
大妖には及ばぬまでも、妖の中では頭抜けていたのだ。
小妖など、どれだけいても敵わぬだろう。
金銀妖瞳の妖狼。
真紅の妖狼の姫君。
鴉天狗の麒麟児。
九尾の直系たる銀狐。
しかし――葉子は、九尾の大妖、玉藻御前に苛まれ、火羅は、積み重なった傷に侵され、力を失った。だから、隠れる。
抗えぬ嵐に巻き込まれては堪ったものではなし。それに、姫様の後ろが、一番安全だった。
頭領がいなくなって、実質的にこの場所を治めるようになった少女の後ろが。
「足りません」
「太郎殿の頭が?」
「誰が馬鹿だ!」
「自覚しているのか。じゃあ、ちょっと馬鹿だ」
「……」
火羅が、欠伸を一つ吐いた。太郎様は本当に子供っぽい人だと思いながら。嫌いじゃないけど。
葉子は、ほーんと飽きないなこの二人……そんなことを考えていた。
「ええ、足りません」
「ひ、姫様?」
「ひ、姫さん?」
「あら?」
「およ?」
四人が、間の抜けた声をあげた。太郎と黒之助を囃し立てていた小妖達が、さぁーっと静まった。
一人、姫様だけが、怪訝そうな顔をしていた。
「ん……私、何か変なことを?」
「彩花さんがそんなことを……」
「姫様がねぇ……」
「姫さんも内心、そう思っていたんですなぁ」
「姫様……俺、やっぱり頭足りねぇのか。そう、だよな……俺、文字覚えるの遅いし、何やっても……」
いじいじ。
「……えっと……足りないのは、薬の元、だよ?」
「薬の元?」
「ええ、解熱剤と咳止めの原料が、ほとんどないんです」
「買えばいいじゃないの」
火羅が、不思議そうに言った。
「あるでしょ、お金」
「村には売ってないものなんです……」
「ねぇ、クロちゃん。頭領は、どうやって薬の元を調達してたの?」
「いやぁ、拙者は……」
さてと、黒之助は首を捻った。
「葉子も知らねぇのか?」
そう尋ねるということは、太郎も知らない。
「あたい、そういう煩わしい事はねぇ。姫様は?」
もちろん、最初に問いかけた葉子も、であった。最近暮らし始めた火羅は言わずもがなだ。
「頭領、色々な方々と取引をしていたんです。流通の網と、申しましょうか。そのようものを、各地に張り巡らしているのだと聞いたことがあります。でも、頭領がいなくなって、全部止まってしまって……私は、やっていたことしか、知りません」
誰と、どのような取引をしていたのか――
知らない。頭領は、一手に仕切っていた。いなくなると、もちろん、止まる。
姫様の食事は、近辺でとれるものが多くなった。
以前は、新鮮な海の幸も、よく食卓に上ったものだ。今は、たまに、干したものが出るぐらい。それも、珍しい。
姫様は、優れた薬師だ。しかし、どれだけ作り方を極めていようと、原料がなければ意味はなかった。
「じゃあ、どうするの?」
「買いに行くしかないです」
「さっき村には売ってないって言ったじゃないの!」
「街まで足を伸ばすということさね?」
火羅の口調は、姫様と、葉子や太郎達とで、違うものになる。丁寧な口振りから、少々きつめに。
黒之助や小妖達は、それを苦々しく思っていた。だから、その矛先が出される前に、葉子が口を開いた。火羅は、賢い妖だ。すぐに事を察し、顔を小さく下にした。
姫様には素の姿を見せていた。
「ええ」
街――隣街。大きな街だ。
麓の村など、比べものにならない。人が多く、よく栄えていた。
「しかし、遠いですな」
「そんなになの?」
火羅の知らないことであった。
「ああ、遠いねぇ。人の足で、行って帰ってくるのに、一日ばかしかかる」
「ふぅん……」
この子はもっと遅いだろうなと思った。
「明日、行こうかと思います」
「明日ですと!?」
「また、急だな」
「待っていたんです。ずっと……でも、限界です」
姫様が淡々と述べた。
何か言いかけた葉子は、姫様が継いだ言葉に、あっと口籠もった。
「明日は……拙者、黒之丞と約束が」
黒之丞と白蝉と一緒に、羽矢風の宿る木の周囲を掃除をすることになっていた。
「そっか、そういえばそうだね……えーっと」
「太郎様、」
「ま、俺は暇だし」
わさわさと尾を振った。
「と二人で行くしかないわね」
「は?」
姫様が、口を半開きにした。
「葉子さんは、人目につきすぎるし、私は、いざというとき足手まといになるかもしれないし」
「……確かに」
葉子が、白尾を見ながら頷いた。
白毛、隻腕。人目を引くことは間違いない。
「で、でも、」
「そうね、それに、貴方、見ていて運動不足だし、自分の足で歩けばいいんじゃない?」
「いや、俺の背中に乗れば、半日で終わる……」
「運動不足……」
すっと、背中に触れられた。ちょうど胸のあたりと逆側を。
いいんじゃないという言霊が、姫様の頭の中をぐるぐると駆け回った。
「息抜きも必要よ」
「そうさね、クロちゃんが留守するんだし、あたいは、誰か来たときのために、ここにいないといけないよね」
葉子が、自分に言い聞かせるように。
「太郎さんと、二人……」
動悸。
強まる。脈が波打つ。
「じゃあ、そうしようかな……いい?」
「俺はいいぞ」
太郎さんと、二人――
「どう、太郎様と二人っきりで、嬉しい?」
「あ、うん」
思わず返事をしてしまった。
それから、姫様はっと口を押さえる。
お風呂場。
二人だけ。
白狐が出て行って、真紅の妖狼がやってきて、結界を張ったことを思い出した。
目の前の妖以外に、聞かれることはない。
「感謝しなさいよ」
「火羅さん……」
「ま、軽い恩返しね。お土産、よろしく」
「期待に応えられるよう、頑張ります」
頭を下げる。
姫様の視線が下がった瞬間、火羅の瞳に妖しげな光が宿った。
恍惚とした色。
それは、姫様が頭を上げる前に消え去った。
「私……街に行くの、初めてなんです」
「そうなの?」
火羅は、軽く驚いた素振りを。
「あまり、外には出ないから……」
姫様の知っている世界は、それほど広いものではなかった。
「じゃあ、なおのこと、楽しんできたらいいわ」
「薬の原料を買いに行くんだけどね」
「おまけでしょ」
「ちがいます!」
火羅が笑い、目を細めた。
「貴方が嬉しいと、私も嬉しい」
呟きは、胸の内。秘めた、想い。
「でも、やっぱり楽しみですね」
そろそろのぼせてきたなと、火羅は思った。
姫様の肌は、のぼせたわけでもないのに、鮮やかな色彩の揺れを見せていた。