あやかし姫~そのお出かけの日(4)~
村外れにある月心の家が見えてきた。
挨拶しようかしまいか、姫様は少し考える。歩みが滞った。
早朝。まだ眠っているだろうと声を掛けるのをやめにした。
道は、視界を遮るものが少なく、古寺のある小山も、よく、見えた。
「行こうぜ」
「あ、うん」
姫様は、白を基調とした旅装束。長い髪を、市女笠の中に収めていた。
大切なお金は、腰の巾着に入れてある。大陸渡りの銅銭が主。銀の粒も三粒携えていた。
水を入れた竹筒や薬などの旅荷物は籠の中。
太郎が背負ってくれていた。
「どうした?」
姫様は、道の真ん中、ちょうど月心の家の横で、立ち止まった。
前を歩いていた太郎が、心配そうに歩み寄った。
「……知らない世界」
呟き。太郎の耳にも届いた。
「そう、ここから先を、私は、知らない」
「だっけ?」
そうであったかと首を傾げながら、姫様の顔を覗き込む。
緊張した面持ちが、笠の下にあった。
緊張し、高揚した面持ちが。
「知らないの!」
姫様の杖が、太郎の足首を狙うように、ゆっくりとした動きを見せた。
とん、と容易くかわした。
「ふぅん……姫様、あんまし大声立てると月心が」
「あ」
しぃーっと。
人の音が消え、冬の音だけが聞こえる。
月心は、出てこなかった。
「はぁ、太郎さんには、わからないかな」
姫様の声は、さっきよりも随分と小さくなっていた。
「わかるよ」
「わかるの?」
疑わしげな視線を向ける。
太郎は恥ずかしげに頬を掻いた。
「俺も、始めて村を出たとき、不思議な気持ちになったよ。今でも覚えてる」
同じなのかなと、姫様は思った。
太郎が感じた不思議な気持ちと。
自分の足で、行く。
不思議な術でも乗り物でも、妖の背でもなく。
初めてだった。
空いている手を、太郎の手に寄せた。
妖が変じた人の手。
繋ぐ。
繋ぎたくなったから、繋いだ。
冬。寒い。だから、温かくなりたい。
太郎の手は、暖かだった。
「……ねぇ、ねぇ、せぇので、踏み出そう。一緒にね」
意を決すのに、少し時間がかかった。声を掛けるのに、間が生じた。
もう、妖狼は踏み出していた。
しばらく互いに固まる。
太郎は、しまったという顔をしていた。姫様は、笑顔を貼り付けていた。
再び動いたのは姫様で。
足の甲を踏みつけやると、太郎はしょんぼりと引っ込めた。
「せぇの、だからね」
釘を刺した。また、踏み出しそうになった。
「はい」
返事を待って、姫様が、言った。
二人で、一歩踏み出す。
姫様は、また、立ち止まった。
「太郎さん、えっとね……不思議な気持ちに、なってる」
「だろう?」
それから、二人は、手を繋いだまま歩き出した。
「急にかしこまって、どうした?」
見目麗しい男だった。人でない証に、額に、二本の見事な角がある。
男は、西の鬼の王、酒呑童子であった。
「はい、父上さまにお願いしたいことがございます」
王の目の前にいるのは、愛娘の朱桜。
きちんと正座し背筋を伸ばし、真剣な眼差しを父親に向けている。
いつもは可愛い可愛いとでれーっとなる親馬鹿も、堅い空気に眉をひそめ、難しい顔をしていた。
「……彩花ちゃんのことか」
「行きたいのです。行って、お話したいのです」
切に願っていた。もう、両の指では数えきれぬほど、せがまれていた。
「とは言われても……俺も茨木も、今、忙しいし……」
朱桜の額の小さな角が、めきりと動いた。
「星熊さん達に頼むですよ」
「でも、なぁ……今、八霊がいないから、いざとなった時心配だし……やっぱり、俺か茨木の手が空いたときに」
「……そうやって父上さまも叔父上さまも、いつもいつも行かせてくれないです……」
「わかってくれ。朱桜を想えばこそ、俺も茨木も」
「……父上さま、嫌い」
遠くを見るように視線を逸らすと、朱桜は呟いた。
「あ、朱桜?」
え、ちょ、ちょっとと、鬼の王は端正な顔を歪ませ、目に見えて狼狽えた。
「もう、顔も見たくないです」
背を向ける。
「もう、声も聞きたくないです」
耳を塞ぐ。
大口開けた鬼の王は、愛娘を見やりながら、ぷるぷると全身を震わせていた。
「酒呑童子様、では」
「酒呑童子……」
娘に、名を呼ばれた。
「あ、朱桜! ち、父は!」
娘の前に風のように移動すると、王は思わず小さな身体を抱き締めていた。
「何ですか、酒呑童子様」
固く、冷たい声。
恐る恐る、酒呑童子は娘の方を見た。
「……」
朱桜は未だ、耳を塞ぎ、顔を背けていた。拒絶の意。ありありと顕していた。
酒呑童子が、朱桜を手放す。
朱桜が背を向ける。
王はよろめき、柱に背をぶつけると、そのまま座りこんだ。
「……朱桜……」
「もう行ってもいいですか――酒呑童子様」
だめ押し、だった。
「……星熊と、虎熊呼んでくる」
「それで?」
「二人と一緒なら、彩花ちゃんに、会いに行ってもいい」
「……父上さま、大好き!」
朱桜が王の首にしがみついた。
酒呑童子は、まだ、呆然としている。鬼の王の威厳など、どこにもなかった。
何か言おうとして、しかし声は出ず、仕方なく、強く抱擁した。
娘の瞳に、赤々とした焔が宿っている。また、めきりと小さな角が音を立てた。
角は、太くなっていた。
「ああ、行っちまったさよ」
手を振っていた姫様が、見えなくなった。
白狐は少し寂しげに、肩を落とした。
「行ってしまったわ」
火羅も、肩を落としていた。
「帰ってくるのは、夜か、明日さね」
「明日? 一日で行って帰ってこれるって」
「姫さんの足で、一日で帰ってこれるとは思えぬ」
黒之助が、言う。
周りの妖達が、うんうんと頷いていた。
「そうね……あの子は人だし」
身体を動かすことは、あまり得意ではないし。
茶屋まで競争! と自分から言い出し、途中でへばっていた姫様を思い出し、火羅は、納得した。
「クロちゃんはいつ行くさよ?」
「白蝉殿の朝餉が終わった頃かな。まだ、少し時間があるか」
「白蝉の料理って、黒之丞が作ってるの?」
「そうだ。あれも、手先が器用だからな。裁縫も上手いし、掃除もまめにするし」
「ぼーっとしてるように見えるけどねぇ」
家事をするようには、とてもじゃないが見えない。葉子には、心地よさげに白蝉の奏でる琵琶の音をぼけーっと聞いているという印象しかなかった。
あと、葉子が弾くと、露骨に嫌そうな顔をしていた。
仲睦まじいのは、間違いなかった。
「そうか? いつも油断なく構えているではないか」
「見えない見えない」
朝餉、か。
結局、あれから触らせてもらってないなと、火羅は思った。
おかしな事だった。振る舞ったときは、美味しいと言ってくれたではないか。
ああやってまた喜んでほしいから張り切ったというのに。
「早く行けー」
「行けー」
「行けー」
「何だと!」
台所に立ちたいなと物思いに耽っていると、小妖達と黒之助が諍いを始めていた。
あの子がいないとすぐこれなのかと、火羅はげんなりした。
いてもそうだったと、またげんなりした。
「ああ、頼むから暴れないでね。姫様いないんさよ」
「む」
鴉天狗の姿になり、錫杖を振り上げていた黒之助が、ゆっくりと人の姿に戻った。
「彩花さん、早く帰ってこないかな」
そう、漏らした。
「……火羅、姫様のこと、心配? 寂しい?」
葉子が、にぃーと笑った。
「わ、私は! べ、別に!」
「ほっぺが赤いよ」
葉子は、面白がっていた。
「ん、な、な」
葉子も、黒之助も、小妖達も、古寺に戻っていった。
火羅だけが、門の前に残った。
溜息が、出た。
少し、嫉妬している自分に、気が付いていた。
挨拶しようかしまいか、姫様は少し考える。歩みが滞った。
早朝。まだ眠っているだろうと声を掛けるのをやめにした。
道は、視界を遮るものが少なく、古寺のある小山も、よく、見えた。
「行こうぜ」
「あ、うん」
姫様は、白を基調とした旅装束。長い髪を、市女笠の中に収めていた。
大切なお金は、腰の巾着に入れてある。大陸渡りの銅銭が主。銀の粒も三粒携えていた。
水を入れた竹筒や薬などの旅荷物は籠の中。
太郎が背負ってくれていた。
「どうした?」
姫様は、道の真ん中、ちょうど月心の家の横で、立ち止まった。
前を歩いていた太郎が、心配そうに歩み寄った。
「……知らない世界」
呟き。太郎の耳にも届いた。
「そう、ここから先を、私は、知らない」
「だっけ?」
そうであったかと首を傾げながら、姫様の顔を覗き込む。
緊張した面持ちが、笠の下にあった。
緊張し、高揚した面持ちが。
「知らないの!」
姫様の杖が、太郎の足首を狙うように、ゆっくりとした動きを見せた。
とん、と容易くかわした。
「ふぅん……姫様、あんまし大声立てると月心が」
「あ」
しぃーっと。
人の音が消え、冬の音だけが聞こえる。
月心は、出てこなかった。
「はぁ、太郎さんには、わからないかな」
姫様の声は、さっきよりも随分と小さくなっていた。
「わかるよ」
「わかるの?」
疑わしげな視線を向ける。
太郎は恥ずかしげに頬を掻いた。
「俺も、始めて村を出たとき、不思議な気持ちになったよ。今でも覚えてる」
同じなのかなと、姫様は思った。
太郎が感じた不思議な気持ちと。
自分の足で、行く。
不思議な術でも乗り物でも、妖の背でもなく。
初めてだった。
空いている手を、太郎の手に寄せた。
妖が変じた人の手。
繋ぐ。
繋ぎたくなったから、繋いだ。
冬。寒い。だから、温かくなりたい。
太郎の手は、暖かだった。
「……ねぇ、ねぇ、せぇので、踏み出そう。一緒にね」
意を決すのに、少し時間がかかった。声を掛けるのに、間が生じた。
もう、妖狼は踏み出していた。
しばらく互いに固まる。
太郎は、しまったという顔をしていた。姫様は、笑顔を貼り付けていた。
再び動いたのは姫様で。
足の甲を踏みつけやると、太郎はしょんぼりと引っ込めた。
「せぇの、だからね」
釘を刺した。また、踏み出しそうになった。
「はい」
返事を待って、姫様が、言った。
二人で、一歩踏み出す。
姫様は、また、立ち止まった。
「太郎さん、えっとね……不思議な気持ちに、なってる」
「だろう?」
それから、二人は、手を繋いだまま歩き出した。
「急にかしこまって、どうした?」
見目麗しい男だった。人でない証に、額に、二本の見事な角がある。
男は、西の鬼の王、酒呑童子であった。
「はい、父上さまにお願いしたいことがございます」
王の目の前にいるのは、愛娘の朱桜。
きちんと正座し背筋を伸ばし、真剣な眼差しを父親に向けている。
いつもは可愛い可愛いとでれーっとなる親馬鹿も、堅い空気に眉をひそめ、難しい顔をしていた。
「……彩花ちゃんのことか」
「行きたいのです。行って、お話したいのです」
切に願っていた。もう、両の指では数えきれぬほど、せがまれていた。
「とは言われても……俺も茨木も、今、忙しいし……」
朱桜の額の小さな角が、めきりと動いた。
「星熊さん達に頼むですよ」
「でも、なぁ……今、八霊がいないから、いざとなった時心配だし……やっぱり、俺か茨木の手が空いたときに」
「……そうやって父上さまも叔父上さまも、いつもいつも行かせてくれないです……」
「わかってくれ。朱桜を想えばこそ、俺も茨木も」
「……父上さま、嫌い」
遠くを見るように視線を逸らすと、朱桜は呟いた。
「あ、朱桜?」
え、ちょ、ちょっとと、鬼の王は端正な顔を歪ませ、目に見えて狼狽えた。
「もう、顔も見たくないです」
背を向ける。
「もう、声も聞きたくないです」
耳を塞ぐ。
大口開けた鬼の王は、愛娘を見やりながら、ぷるぷると全身を震わせていた。
「酒呑童子様、では」
「酒呑童子……」
娘に、名を呼ばれた。
「あ、朱桜! ち、父は!」
娘の前に風のように移動すると、王は思わず小さな身体を抱き締めていた。
「何ですか、酒呑童子様」
固く、冷たい声。
恐る恐る、酒呑童子は娘の方を見た。
「……」
朱桜は未だ、耳を塞ぎ、顔を背けていた。拒絶の意。ありありと顕していた。
酒呑童子が、朱桜を手放す。
朱桜が背を向ける。
王はよろめき、柱に背をぶつけると、そのまま座りこんだ。
「……朱桜……」
「もう行ってもいいですか――酒呑童子様」
だめ押し、だった。
「……星熊と、虎熊呼んでくる」
「それで?」
「二人と一緒なら、彩花ちゃんに、会いに行ってもいい」
「……父上さま、大好き!」
朱桜が王の首にしがみついた。
酒呑童子は、まだ、呆然としている。鬼の王の威厳など、どこにもなかった。
何か言おうとして、しかし声は出ず、仕方なく、強く抱擁した。
娘の瞳に、赤々とした焔が宿っている。また、めきりと小さな角が音を立てた。
角は、太くなっていた。
「ああ、行っちまったさよ」
手を振っていた姫様が、見えなくなった。
白狐は少し寂しげに、肩を落とした。
「行ってしまったわ」
火羅も、肩を落としていた。
「帰ってくるのは、夜か、明日さね」
「明日? 一日で行って帰ってこれるって」
「姫さんの足で、一日で帰ってこれるとは思えぬ」
黒之助が、言う。
周りの妖達が、うんうんと頷いていた。
「そうね……あの子は人だし」
身体を動かすことは、あまり得意ではないし。
茶屋まで競争! と自分から言い出し、途中でへばっていた姫様を思い出し、火羅は、納得した。
「クロちゃんはいつ行くさよ?」
「白蝉殿の朝餉が終わった頃かな。まだ、少し時間があるか」
「白蝉の料理って、黒之丞が作ってるの?」
「そうだ。あれも、手先が器用だからな。裁縫も上手いし、掃除もまめにするし」
「ぼーっとしてるように見えるけどねぇ」
家事をするようには、とてもじゃないが見えない。葉子には、心地よさげに白蝉の奏でる琵琶の音をぼけーっと聞いているという印象しかなかった。
あと、葉子が弾くと、露骨に嫌そうな顔をしていた。
仲睦まじいのは、間違いなかった。
「そうか? いつも油断なく構えているではないか」
「見えない見えない」
朝餉、か。
結局、あれから触らせてもらってないなと、火羅は思った。
おかしな事だった。振る舞ったときは、美味しいと言ってくれたではないか。
ああやってまた喜んでほしいから張り切ったというのに。
「早く行けー」
「行けー」
「行けー」
「何だと!」
台所に立ちたいなと物思いに耽っていると、小妖達と黒之助が諍いを始めていた。
あの子がいないとすぐこれなのかと、火羅はげんなりした。
いてもそうだったと、またげんなりした。
「ああ、頼むから暴れないでね。姫様いないんさよ」
「む」
鴉天狗の姿になり、錫杖を振り上げていた黒之助が、ゆっくりと人の姿に戻った。
「彩花さん、早く帰ってこないかな」
そう、漏らした。
「……火羅、姫様のこと、心配? 寂しい?」
葉子が、にぃーと笑った。
「わ、私は! べ、別に!」
「ほっぺが赤いよ」
葉子は、面白がっていた。
「ん、な、な」
葉子も、黒之助も、小妖達も、古寺に戻っていった。
火羅だけが、門の前に残った。
溜息が、出た。
少し、嫉妬している自分に、気が付いていた。