小説置き場2

山岳に寺社仏閣に両生類に爬虫類に妖怪に三国志にetcetc

あやかし姫~そのお出かけの日(4)~

 村外れにある月心の家が見えてきた。
 挨拶しようかしまいか、姫様は少し考える。歩みが滞った。
 早朝。まだ眠っているだろうと声を掛けるのをやめにした。
 道は、視界を遮るものが少なく、古寺のある小山も、よく、見えた。
「行こうぜ」
「あ、うん」
 姫様は、白を基調とした旅装束。長い髪を、市女笠の中に収めていた。
 大切なお金は、腰の巾着に入れてある。大陸渡りの銅銭が主。銀の粒も三粒携えていた。
 水を入れた竹筒や薬などの旅荷物は籠の中。
 太郎が背負ってくれていた。
「どうした?」
 姫様は、道の真ん中、ちょうど月心の家の横で、立ち止まった。
 前を歩いていた太郎が、心配そうに歩み寄った。
「……知らない世界」
 呟き。太郎の耳にも届いた。
「そう、ここから先を、私は、知らない」
「だっけ?」
 そうであったかと首を傾げながら、姫様の顔を覗き込む。
 緊張した面持ちが、笠の下にあった。
 緊張し、高揚した面持ちが。
「知らないの!」
 姫様の杖が、太郎の足首を狙うように、ゆっくりとした動きを見せた。
 とん、と容易くかわした。
「ふぅん……姫様、あんまし大声立てると月心が」
「あ」
 しぃーっと。
 人の音が消え、冬の音だけが聞こえる。
 月心は、出てこなかった。
「はぁ、太郎さんには、わからないかな」
 姫様の声は、さっきよりも随分と小さくなっていた。
「わかるよ」
「わかるの?」
 疑わしげな視線を向ける。
 太郎は恥ずかしげに頬を掻いた。
「俺も、始めて村を出たとき、不思議な気持ちになったよ。今でも覚えてる」
 同じなのかなと、姫様は思った。
 太郎が感じた不思議な気持ちと。
 自分の足で、行く。
 不思議な術でも乗り物でも、妖の背でもなく。
 初めてだった。
 空いている手を、太郎の手に寄せた。
 妖が変じた人の手。
 繋ぐ。
 繋ぎたくなったから、繋いだ。
 冬。寒い。だから、温かくなりたい。
 太郎の手は、暖かだった。
「……ねぇ、ねぇ、せぇので、踏み出そう。一緒にね」
 意を決すのに、少し時間がかかった。声を掛けるのに、間が生じた。
 もう、妖狼は踏み出していた。
 しばらく互いに固まる。
 太郎は、しまったという顔をしていた。姫様は、笑顔を貼り付けていた。
 再び動いたのは姫様で。
 足の甲を踏みつけやると、太郎はしょんぼりと引っ込めた。
「せぇの、だからね」
 釘を刺した。また、踏み出しそうになった。
「はい」
 返事を待って、姫様が、言った。
 二人で、一歩踏み出す。
 姫様は、また、立ち止まった。
「太郎さん、えっとね……不思議な気持ちに、なってる」
「だろう?」
 それから、二人は、手を繋いだまま歩き出した。



「急にかしこまって、どうした?」
 見目麗しい男だった。人でない証に、額に、二本の見事な角がある。
 男は、西の鬼の王、酒呑童子であった。
「はい、父上さまにお願いしたいことがございます」
 王の目の前にいるのは、愛娘の朱桜。
 きちんと正座し背筋を伸ばし、真剣な眼差しを父親に向けている。
 いつもは可愛い可愛いとでれーっとなる親馬鹿も、堅い空気に眉をひそめ、難しい顔をしていた。
「……彩花ちゃんのことか」
「行きたいのです。行って、お話したいのです」
 切に願っていた。もう、両の指では数えきれぬほど、せがまれていた。
「とは言われても……俺も茨木も、今、忙しいし……」
 朱桜の額の小さな角が、めきりと動いた。
「星熊さん達に頼むですよ」
「でも、なぁ……今、八霊がいないから、いざとなった時心配だし……やっぱり、俺か茨木の手が空いたときに」
「……そうやって父上さまも叔父上さまも、いつもいつも行かせてくれないです……」
「わかってくれ。朱桜を想えばこそ、俺も茨木も」
「……父上さま、嫌い」
 遠くを見るように視線を逸らすと、朱桜は呟いた。
「あ、朱桜?」
 え、ちょ、ちょっとと、鬼の王は端正な顔を歪ませ、目に見えて狼狽えた。
「もう、顔も見たくないです」
 背を向ける。
「もう、声も聞きたくないです」
 耳を塞ぐ。
 大口開けた鬼の王は、愛娘を見やりながら、ぷるぷると全身を震わせていた。
酒呑童子様、では」
酒呑童子……」
 娘に、名を呼ばれた。
「あ、朱桜! ち、父は!」
 娘の前に風のように移動すると、王は思わず小さな身体を抱き締めていた。
「何ですか、酒呑童子様」
 固く、冷たい声。
 恐る恐る、酒呑童子は娘の方を見た。
「……」
 朱桜は未だ、耳を塞ぎ、顔を背けていた。拒絶の意。ありありと顕していた。
 酒呑童子が、朱桜を手放す。
 朱桜が背を向ける。
 王はよろめき、柱に背をぶつけると、そのまま座りこんだ。
「……朱桜……」
「もう行ってもいいですか――酒呑童子様」
 だめ押し、だった。
「……星熊と、虎熊呼んでくる」
「それで?」
「二人と一緒なら、彩花ちゃんに、会いに行ってもいい」
「……父上さま、大好き!」
 朱桜が王の首にしがみついた。
 酒呑童子は、まだ、呆然としている。鬼の王の威厳など、どこにもなかった。
 何か言おうとして、しかし声は出ず、仕方なく、強く抱擁した。
 娘の瞳に、赤々とした焔が宿っている。また、めきりと小さな角が音を立てた。
 角は、太くなっていた。



「ああ、行っちまったさよ」
 手を振っていた姫様が、見えなくなった。
 白狐は少し寂しげに、肩を落とした。
「行ってしまったわ」
 火羅も、肩を落としていた。
「帰ってくるのは、夜か、明日さね」
「明日? 一日で行って帰ってこれるって」
「姫さんの足で、一日で帰ってこれるとは思えぬ」
 黒之助が、言う。
 周りの妖達が、うんうんと頷いていた。
「そうね……あの子は人だし」
 身体を動かすことは、あまり得意ではないし。
 茶屋まで競争! と自分から言い出し、途中でへばっていた姫様を思い出し、火羅は、納得した。
「クロちゃんはいつ行くさよ?」
「白蝉殿の朝餉が終わった頃かな。まだ、少し時間があるか」
「白蝉の料理って、黒之丞が作ってるの?」
「そうだ。あれも、手先が器用だからな。裁縫も上手いし、掃除もまめにするし」
「ぼーっとしてるように見えるけどねぇ」
 家事をするようには、とてもじゃないが見えない。葉子には、心地よさげに白蝉の奏でる琵琶の音をぼけーっと聞いているという印象しかなかった。
 あと、葉子が弾くと、露骨に嫌そうな顔をしていた。
 仲睦まじいのは、間違いなかった。
「そうか? いつも油断なく構えているではないか」
「見えない見えない」
 朝餉、か。
 結局、あれから触らせてもらってないなと、火羅は思った。
 おかしな事だった。振る舞ったときは、美味しいと言ってくれたではないか。
 ああやってまた喜んでほしいから張り切ったというのに。
「早く行けー」
「行けー」
「行けー」
「何だと!」
 台所に立ちたいなと物思いに耽っていると、小妖達と黒之助が諍いを始めていた。
 あの子がいないとすぐこれなのかと、火羅はげんなりした。
 いてもそうだったと、またげんなりした。
「ああ、頼むから暴れないでね。姫様いないんさよ」
「む」
 鴉天狗の姿になり、錫杖を振り上げていた黒之助が、ゆっくりと人の姿に戻った。
「彩花さん、早く帰ってこないかな」
 そう、漏らした。
「……火羅、姫様のこと、心配? 寂しい?」
 葉子が、にぃーと笑った。
「わ、私は! べ、別に!」
「ほっぺが赤いよ」
 葉子は、面白がっていた。
「ん、な、な」



 葉子も、黒之助も、小妖達も、古寺に戻っていった。
 火羅だけが、門の前に残った。
 溜息が、出た。
 少し、嫉妬している自分に、気が付いていた。