あやかし姫~そのお出かけの日(14)~
自分の口に触れた。姫様が残っていた。
にゅっと尾を引っ張られ、後ろを向いて、思い出したように太郎は顔を伏せた。
狼の白尾を身体に巻き付けた姫様が、洞穴の壁にもたれ掛かっていた。
洞穴の外は、晩冬のしとしと雨が降る、暗い森が続いている。
洞穴の中は、こぉっと、焚き火が明るく照らしている。
薄く目を開いて、もう一度尾を引っ張ると、顔を伏せたまま、太郎は素早く姫様の許へ寄った。
荒かった息が、落ち着いてきている。
姫様が、葉子と火羅と一緒に選んだ白い旅装束と、太郎が、黒之助に選ばせた旅装束が、火の近くにあった。
水が、下の方から次々と滴っている。
太郎は、単衣に短い絞り袴と、いつもの変化の姿をとっていた。
「辛いのか?」
「少し……少しだけ」
姫様が、答える。
また目を閉じていた。
顔色を窺う。さっきよりはましになっていた。ほっとした。
背を向ける。外を見やる。
太郎の腰の辺りから長く伸びた白尾は、火を避けるように、丸くなっていた。
雨は、やみそうでなかなかやまなかった。
自分の手を見る。
姫様の濡れた衣を脱がし、冷えた身体を布で拭った。
おっかなびっくり拭う際に、腹に直に触れた。互いに、びくっとした。足を揉んだとき、どうして姫様が嫌がったのか、わかった。
姫様の肌はとても滑らかで、脆く儚く、壊れてしまいそうだった。
その時の感触がまだ、残っている。
姫様よりも綺麗な何かを、太郎はまだ、見たことがなかった。
「……」
金銀妖瞳が、深い翳りを帯びた。
太郎は、火に枯れ木をたそうか考える。
黒之助や葉子のように、様々な術が使えればよいのだが、どれだけ学んでも、生憎と不得手のままであった。姫様の教え方が、悪いはずがない。自分が悪いのだ。
もう、半ば諦めていた。
気配が、にじり寄ってくる。
太郎は、とくんと、胸が鳴るのを感じた。
何かを言いかけた口が、言葉を発すること事は、なかった。
とくん、と、また、鳴った。
姫様の匂いを、強く感じた。
「ごめんね」
「どうして謝んだよ」
「自分の身体の具合もわからないなんて……薬師失格です」
姫様が、背にいた。
身体を寄せてきている。
まだ、熱がある。そう、思った。
「遠出して、疲れたんだ」
「変なの」
離れる。
もう少し、触れていたかった。
「どうして、泣くの?」
「あ」
おろおろと、太郎は狼狽えた。
思わず、首を廻していた。
「んー」
黒い、大きな瞳だった。
姫様は、太郎の目元に手をやると、ほらと言った。
「だ、だって……だって、俺、」
目を、強く擦った。
濡れていた。
「姫様、風邪ひいてるのに、わかんなくて、姫様、雨で身体冷やしてるのに、なんにも出来なくて、俺、術も使えないし、助け、呼べないし、俺、役立たずで、姫様守れなくて」
ほろ、ほろ、ほろ。
ぽろ、ぽろ、ぽろ。
「そうかな……」
姫様は、少し眼を細め、淡く笑った。
「薬師の私がわからなかったんだもの、しょうがないよ。雨が降って冷えて、熱が出て動けなくて、そしたら、ここまで抱えてくれたじゃない。指の先も動かしたくないぐらい怠くて、でも、衣が濡れて気持ち悪くて、そしたら、脱がせてもらったし、身体、拭いてもらったし、薬も、作ってもらって、口移しで呑ませてもらって、火も、興してもらって、尾、借りてるし……十分だよ。十分すぎるよ」
目を、強く擦る。
体調を崩し、疲れているのに、気丈に振る舞う姫様を思うと、また自分が情けなかった。
皆で慈しんだ子は、立派になったというのにと。
その子を、守れないのかと。
姫様が、ゆるゆると長い息を吐く。
上目遣いに、潤んだ瞳を向けると、ほのかな色香が浮かんだ。
「暖かい」
倒れるようにもたれ掛かってきた姫様を、抱くように太郎は受け止めた。
姫様が、腕の中にいる。また、肌の温もりを直に感じる。生まれたままの姿なのだ。細い裸身を隠すのは、太郎の尾と、長い黒髪だけだ。
艶めかしかった。
離れない。離れようとしない。
太郎は、妖狼の姿に変じようとした。
それを察し、このままでいいと、このままの方がいいと、姫様が言った。
「でも」
濡れた髪の下で、黒い瞳が、じっと見つめていた。
太郎は、姫様を抱擁したまま、離さなかった。
姫様がまた、寝息をたて始める。
人の形の腕の中の、安らかな寝顔を、金銀妖瞳は愛おしむように見ていた。
にゅっと尾を引っ張られ、後ろを向いて、思い出したように太郎は顔を伏せた。
狼の白尾を身体に巻き付けた姫様が、洞穴の壁にもたれ掛かっていた。
洞穴の外は、晩冬のしとしと雨が降る、暗い森が続いている。
洞穴の中は、こぉっと、焚き火が明るく照らしている。
薄く目を開いて、もう一度尾を引っ張ると、顔を伏せたまま、太郎は素早く姫様の許へ寄った。
荒かった息が、落ち着いてきている。
姫様が、葉子と火羅と一緒に選んだ白い旅装束と、太郎が、黒之助に選ばせた旅装束が、火の近くにあった。
水が、下の方から次々と滴っている。
太郎は、単衣に短い絞り袴と、いつもの変化の姿をとっていた。
「辛いのか?」
「少し……少しだけ」
姫様が、答える。
また目を閉じていた。
顔色を窺う。さっきよりはましになっていた。ほっとした。
背を向ける。外を見やる。
太郎の腰の辺りから長く伸びた白尾は、火を避けるように、丸くなっていた。
雨は、やみそうでなかなかやまなかった。
自分の手を見る。
姫様の濡れた衣を脱がし、冷えた身体を布で拭った。
おっかなびっくり拭う際に、腹に直に触れた。互いに、びくっとした。足を揉んだとき、どうして姫様が嫌がったのか、わかった。
姫様の肌はとても滑らかで、脆く儚く、壊れてしまいそうだった。
その時の感触がまだ、残っている。
姫様よりも綺麗な何かを、太郎はまだ、見たことがなかった。
「……」
金銀妖瞳が、深い翳りを帯びた。
太郎は、火に枯れ木をたそうか考える。
黒之助や葉子のように、様々な術が使えればよいのだが、どれだけ学んでも、生憎と不得手のままであった。姫様の教え方が、悪いはずがない。自分が悪いのだ。
もう、半ば諦めていた。
気配が、にじり寄ってくる。
太郎は、とくんと、胸が鳴るのを感じた。
何かを言いかけた口が、言葉を発すること事は、なかった。
とくん、と、また、鳴った。
姫様の匂いを、強く感じた。
「ごめんね」
「どうして謝んだよ」
「自分の身体の具合もわからないなんて……薬師失格です」
姫様が、背にいた。
身体を寄せてきている。
まだ、熱がある。そう、思った。
「遠出して、疲れたんだ」
「変なの」
離れる。
もう少し、触れていたかった。
「どうして、泣くの?」
「あ」
おろおろと、太郎は狼狽えた。
思わず、首を廻していた。
「んー」
黒い、大きな瞳だった。
姫様は、太郎の目元に手をやると、ほらと言った。
「だ、だって……だって、俺、」
目を、強く擦った。
濡れていた。
「姫様、風邪ひいてるのに、わかんなくて、姫様、雨で身体冷やしてるのに、なんにも出来なくて、俺、術も使えないし、助け、呼べないし、俺、役立たずで、姫様守れなくて」
ほろ、ほろ、ほろ。
ぽろ、ぽろ、ぽろ。
「そうかな……」
姫様は、少し眼を細め、淡く笑った。
「薬師の私がわからなかったんだもの、しょうがないよ。雨が降って冷えて、熱が出て動けなくて、そしたら、ここまで抱えてくれたじゃない。指の先も動かしたくないぐらい怠くて、でも、衣が濡れて気持ち悪くて、そしたら、脱がせてもらったし、身体、拭いてもらったし、薬も、作ってもらって、口移しで呑ませてもらって、火も、興してもらって、尾、借りてるし……十分だよ。十分すぎるよ」
目を、強く擦る。
体調を崩し、疲れているのに、気丈に振る舞う姫様を思うと、また自分が情けなかった。
皆で慈しんだ子は、立派になったというのにと。
その子を、守れないのかと。
姫様が、ゆるゆると長い息を吐く。
上目遣いに、潤んだ瞳を向けると、ほのかな色香が浮かんだ。
「暖かい」
倒れるようにもたれ掛かってきた姫様を、抱くように太郎は受け止めた。
姫様が、腕の中にいる。また、肌の温もりを直に感じる。生まれたままの姿なのだ。細い裸身を隠すのは、太郎の尾と、長い黒髪だけだ。
艶めかしかった。
離れない。離れようとしない。
太郎は、妖狼の姿に変じようとした。
それを察し、このままでいいと、このままの方がいいと、姫様が言った。
「でも」
濡れた髪の下で、黒い瞳が、じっと見つめていた。
太郎は、姫様を抱擁したまま、離さなかった。
姫様がまた、寝息をたて始める。
人の形の腕の中の、安らかな寝顔を、金銀妖瞳は愛おしむように見ていた。