小説置き場2

山岳に寺社仏閣に両生類に爬虫類に妖怪に三国志にetcetc

あやかし姫~そのお出かけの日(19)~

 軽く、耳の裏を叩くと、景色が止まり、揺れが収まった。
 大きく村を迂回して、今は小川のすぐ傍に。姫様は、川縁に立つ太郎の背で、水面に目を凝らす。
 わかってはいたけれど、わかってしまう自分の力が恨めしいけれど、それでも姫様は水面に視線を送り続けた。
「帰ってないな」
 帰っていないのか、帰ってしまったのか。
 それはわからないけれど、この小川にいないのは確か。
「沙羅ちゃん、いないね」
 控えめな、おずおずとした、河童の少女。子供が好きな、大事な友達。
 ざぶんと、妖狼が小川に顔を突っ込む。
 落ちそうになった姫様は、慌てて太い首にしがみつく。ふと、目と鼻の先に近づいた水面に吸い込まれそうになって、そして、すぐに我に返って。
 淡光を帯びた水鏡に揺らぐ自分が、自分じゃない顔になる。
 そんな気がした。
 水辺は好きじゃない。ふっと気が抜けてしまう。
 今も、そう。
「いねえなぁ」
 水滴がぴんと張った髭からぽたりと落ちる。
 姫様は、よいしょと河原に降り立った。
 姫様から少し離れた妖狼が、水飛沫をばら撒いた。
「太郎さん、沙羅ちゃんのこと、気にしてるんだね」
 羽矢風さんのことは、全く気にしていなかったにと問いかける。
「ん――まあな」
 小川に寄ろうと言ったのは太郎だった。
 そういえば、ちょくちょくと、この小川に足を伸ばしていた。
 沙羅がいなくなってから、行かなくなった。
 心が、ざわついた。
 ほんの、少し。
「行こう。見つかると、面倒だし」
 太郎の躰をよじ登る。今度はすんなりと登ることが出来た。
「あれ?」
 古寺を探ってみた。
 昨日はその暴走に苦しんだ知覚も、風邪が消えると共に、元に戻っていた。
「どうした?」
「何だか……嫌な感じがします」
「古寺に? まさか!?」
「いえ、これは……そういう類のものじゃないと思いますけど、でも、嫌な感じです」
 火羅と葉子が喧嘩するとは思えなかった。
 あの二人は、きっと大丈夫。多分火羅さんは、葉子さんに頭が上がらない。そんな気がする。
 古寺の住人の中で、一番短気で一番融通の利かないクロさんは、ちょっぴり心配ではあるけれど、これまた葉子さんがいるんだし。
 じゃあ、何だろうか。
「少し遅れたから、心配してるのかな……」
 それは、とても不安定。だから、嫌で、嫌じゃなくて。
 古寺の結界のために、この距離だと、上手く把握出来ない。
 古寺の中からだと、外を上手く把握出来るのに。
 なんとも便利な結界を張っているものだった。
 あれは、頭領苦心の作だろう。
 一度形を作っておくと、維持するのは難しくない。
「急ぐか」
 拳ほどの石が跳ね上がる。
 妖狼が急に加速した。
 一直線に、我が家に向かう。
 小高い山の、その頂き。
 坂道ではなく、木々を縫うように走る。
 人目に付かないように、こっそりと。
 それは、ほんの、三呼吸ばかしのこと。太郎は、本当に早いのだ。
 長い、嬉しいと思い続けた道々も、あっという間に駆け抜けた。
 そして、一日ぶりの、古寺の外観。
 何だかとても、懐かしかった。
 妖狼が鼻を動かす。
 外見は何の変わりもない。
 結界に僅かなほつれがあるぐらい。内側からの強い力によって膨らんだ、そんなほつれだった。
「鬼の臭いがする」
「来てるね」
 荷物を背負う太郎を見ながら、姫様はやんわりと微笑んだ。
 微かな苦みが混じった笑みだった。
「ねぇ、太郎さん」
 ちょっとちょっとと手招きする。
 太郎は決して背が高い方ではない。黒之助と並ぶとよくわかる。
 けれど、小柄な姫様よりは大きい。
 頬を挟み、顔を下げさせ、こちらは顔を上げてみる。
 それで、口づけするにはちょうどいい。
「お終い」
 これで、旅はお終い。
 真っ赤な太郎が、とても可笑しく、とても可愛い。
 きゅっと抱き締めてから、姫様はこほんと咳をした。
 妖狼は夢見心地になっている。
 対照的に、姫様は落ち着いていた。
 昨日は私の裸を見たのに――そこまで考えて、姫様はぼふんと真っ赤になった。
 肌という肌が紅潮したのだ。
 平坦な身体を見られてしまった。 
 忘れてようとしていたけれど、それはとても大事なこと……大事なこと。
 火羅を妬む小さな胸だけじゃなくて、全体的に幼いのだ。
 それは、どうしようもない引け目。綺麗だとどれだけ褒められても、拭うことが出来ない負い目。
 贅沢な悩みだと火羅に言われたけど、それでも悩んでしまうもの。第一、火羅には言われたくないし。
 あの、同情するような目!
 同じ建物で暮らしているが、そういうことにはきちんとした葉子のお陰で、身体を異性の目に晒したことは、ほとんどない。
 久々だった。
 多分、本当に、子供の時以来。
 裸身を見た妖狼は、褒めてくれた。
 今まで見たことがないほど綺麗だと。
 この旅の一番の収穫かもしれない。
 頭の芯から蕩けそうになるその言葉は。
「彩花様!」
 鬼の女の子。
 走り寄ってくる。
 その後ろで、黒之助が、首を捻っている。
 朱桜を抱き寄せた姫様を見やり、ほっと息を吐いた。
 小妖達。
 鬼の男。
 葉子と火羅が、並んで出てきた。
 駆け出そうとした火羅は、むせび泣きながらしがみつく朱桜を見て、足を止めた。
「ただいま」
「お帰りさよ」
「お帰りです、姫さん」
 赤髪の友人に視線を向ける。
 地面に視線を落とした火羅は、
「お、お帰り……」
 小さく、赤面しながら、そう言った。
 途端、涙に濡れた朱桜の虚を宿した瞳が、赤髪の少女を睨み付けた。
「お前が……その言葉を、言うな。お帰りと、言うな」
 姫様が表情を凍らせる。
 朱桜の声は、老成していた。
 角がめきりと音をたてる。
「彩花様……大好きなのです」
 大きく大きく、めきりと音をたて続ける。
 腕の中で、黒々としたものが豊かに育つ。
 同時に、幸せな時を壊された姫様は、黒々としたものが、自分の中で育つのを感じた。