小説置き場2

山岳に寺社仏閣に両生類に爬虫類に妖怪に三国志にetcetc

あやかし姫~そのお出かけの日、その昏い夜~

 嬉しそうに湯に浸っている少女に、真紅の妖狼は目を向けた。仄かに匂う色香は、禍々しくなかった。
 白狐と入れ替わりで、火羅は古寺の風呂に入った。姫様は長々と浸かっている。白狐が入る前から、広々とした風呂場にいたのだ。
 いつものことである。
 火羅が姫様とだけ入るのも、いつものことだ。
 体中に傷痕がある。背中の火傷は、まだ腐っている。そんな体を他人に見せたくなかった。
 泡を落とし湯船に向かうと、姫様の表情が少し揺らいだ。彼女は、傷だらけの火羅の身体を、羨み妬んでくれていた。控えめな双頂を、肉付きの悪い身体を、何度も何度も確かめている。
 微笑ましい。心底そう思った。
 よく薫る湯船に入り、少女に近づいていく。湯の匂いが強いのは、傷深い二人のためにと、薬湯にしてくれているからだ。
 姫様に近づくにつれ、小柄な身体を抱き締めたい衝動に、雪女よりも白く美しい肌に唇で触れたい衝動に、火羅は駆られた。頭が疼くように痛い。重なる。中身が違っていても、姿は同じなのだ。
「……旅、楽しかった?」
「ええ、はい」
 綺麗な赤らみが、ほんのりと肌に乗った。
 金銀妖瞳の想い人と一緒に過ごしたのだ。さぞかし楽しくあったろうと、火羅は思った。
「とても、楽しかったです」
 案の定、少女は満ち足りたいい顔を見せてくれた。
「一晩、一緒だったのでしょう?」
「はぁ、い、一応」
「……肌を、重ねた?」
「……んな!?」
 濃い赤らみで、全身が染まった。いやいやいやと、姫様は両手を突き出し思い切り振った。
「あ、ありませんです。風邪引いてたから。看病はしてもらったけど」
「薬の口移しとか?」
「う……はい」
「着替え手伝ってもらったり?」
「う……それも、はい」
 両頬に手を当て身体をうねうねくねらせる姫様。幸せそうだった。 
「身体、暖めてもらったりしましたです」
 きゃぁと一人盛り上がっている。
 火羅は、曖昧な笑みを浮かべながら、姫様の肩を指差した。
「それ」
「それ?」   
「そんなところに、そんな赤い痕、なかったでしょう?」
「え、あったよ」
 姫様挙動不審。さっきからずっとだけれど。
「いいえ、なかったわ」
 肌は知っている。傷一つなかった。火羅は、姫様の滑らかな肌に触れた。
「私に言えないこと? 何かあったの? 本当は、面倒に巻き込まれて、帰れなかったの? 私のせい? 私のせいなの?」
「ち、違います、これは……太郎さんの、噛み痕で」
「噛み?」
「その……私、魅力ないから、でも、太郎さん、私の身体、綺麗って言ってくれて、でも、信じられなくて、だって火羅さんも朱桜ちゃんも、ね!? ほ、ほら、ね!? それで、あ、証が欲しいって、嘘じゃない証が欲しいって言ったら、これが証だって」
「……覗かれたの?」
 太郎なら、うっかりでありそうだった。
「ち、違います! 衣、濡れちゃって、脱いで、裸だった、から……」
 身体を暖めてもらったのか。
 妖の姿でなら、悪くないことだと思った。
「証ね……」
 小さな痕。
 肌が赤くなっていて、痕は濃い赤色で。
「妬ましいわ」
 火羅が口にすると、姫様は神気を帯びた。
「まさか、火羅さん……嫌、ですよ」
 形の良い眉が寄った。太郎様のことが好きと言ったら、この子は苦しむだろうか……いや、ない。
 苦しまない。親しくしてくれないだけだ。
 今度こそ独りぼっちになる。
 そんな気がした。  
 あの鬼の娘と同じだ。一度堰が切れると、止めようがない。この少女もまた、激情の持ち主なのだ。でなければ、大妖に逆らってまで、火羅を助けようとはしないだろう。
「冗談よ。貴方から獲らないわ」
 妬ましいのは本当だった。
「綺麗なのにね」
「へ?」
「貴方はとても綺麗なのにね」
「……お世辞ですか?」
「まさか。綺麗なのは間違いないもの」
 それこそ、惚れ惚れするぐらいに。訝しげな姫様は、言葉通りに受け取れないようだった。
「火羅さんは綺麗ですけど……私は、ほら、ね」  
「私は醜いわ。貴方がよく言うじゃない」
「私がそんなことを? 嘘……」
 違う。
 顔の右側を押さえる。
 重なるが、違うのだ。
 あの女は、傷だらけの身体を弄ぶが、この子は、傷だらけの身体を大切にしてくれる。
「ああ、それも冗談よ」
 ごめんねと、何度も心の中で謝った。自分が生きていけるのは、少女のおかげだというのに、いつも悲しい顔をさせてしまう。その度に、迂闊さを呪いながら、何度も謝ることになる。
「……火羅さんも、赤い痕ありますね」
「は?」
「ほら、その、む、胸に」
「ん……見にくいわね」
「そ、そんな馬鹿な、胸で、見にくい場所なんて」
 姫様がしょんぼりした。
 平らだものね。
「ああ、本当だ」
 視線を背けながら、姫様は指差した。片手は、淡い膨らみを押さえていた。火羅は、姫様の指差す場所を見やった。
「傷、あるわ」
 無数の傷の中で、桜色の傷が違っていた。何が違うとは言えないが、見た瞬間に、これも証なのだと火羅は思った。
 間違いなく、あの女に付けられた傷だ。
「花びらみたいですね」
 気を取り直したらしい。
 姫様は平静に戻っていた。   
「うん、花びら。その証も、花びらみたいね」
「一日だけって、太郎さんは言ってました」
「ああ、花は、散るものだもの」
 


 あの子が買ってきてくれた櫛で、あの子が髪を梳いてくれた。
 帯をほどいた火羅は、独り、あの女を待っていた。
 晩冬の風の冷たさでも消せない火照り。頭に浮かんだ顔が滲む。また、きちんと思い出せない。
 数百年の齢を生きた真紅の妖狼。誇りを、矜持を、へし折られ、今はただの小娘に成り下がった。
 堕ちるなら、どこまでも堕ちていけばいいのだ。
 あの女がくれる悦楽に、酔って狂って毀れればいいのだ。
「奈落……奈落の、華」
 息が首筋にかかる。背後から伸びた女の指が、赤い花びらをまさぐった。
「これは……証なの?」
「消えぬよ、それは」
 くつ、くつ……女の指が、肌に触れた。するりと襦袢が庭に落ちた。女の指は蛇のようだった。とても冷たく、身体のあちこちを這う。
 火羅の息が荒く、熱を帯び、ついには赤くなった。身悶えするように首を振った。
 肌が濡れていく。傷の上を、玉汗がつたう。
「貴方……名前は?」
「……名前?」
 紅い眸。黒い瞳。仄白い肌が、闇に光る。火羅の喘ぎが、静けさを乱す。
 女の息も、熱くなっていた。身体は、冷たいままだった。
「妾に名前など、ない」
 火羅の獣の耳を、女の歯が強く噛んだ。
「私が、つけて、あげるわ」
「名を?」
「さいはな、さいはなよ……こう、書くの」
 女の掌に、字を書いてやる。
 くつ、と、嗤った。
 指の震えに嗤ったのかもしれないと、火羅は思った。
「彩華か」
「気に入って、くれた?」
「さいかとも、読めるな。彩花とも」
「私の、証よ」
 甘美な宴に、火羅はすぐに酔いしれた。朝にはいなくなるのだと、女にとって自分は取るに足りぬ存在なのだと、どこか冷静な自分を感じながら。
 酔った自分を、静かに見つめる冷ややかな自分。
 毀れた自分を、静かに見つめる毀れていく自分。
 堪らない――これで、いいのだ。頭の疼きも、悪くない。
 土を握り締める。すでに立っていられなくなっていた。声を押し殺すために、自分の手首を噛もうとした。遮られた。女の、柔らかそうな手首が、口元に押し当てられたのだ。
 火羅は、女の蒼白い肌を噛んだ。女と、目が合う。瞳の中に、慈しみが垣間見えた。
 やめて――火羅は、怯えた。怯え、震えた。女と少女が、はっきりと重なってしまった。恐れていたことだった。
 何かが、がらがらと崩れた。
 女が、唇を貪った。
 淫らな宴は、始まったばかりだった。